このサイトは1ヶ月 (30日) 以上ログインされていません。 サイト管理者の方はこちらからログインすると、この広告を消すことができます。

13番


 最初に気がついたのは、土の匂いだった。

 体を起こすと、見たことのない場所にいた。白い天井じゃない。頭上に広がっているのは、深い緑色の木々だった。木の隙間から差し込む光が、霧のような白さを帯びていた。どこかで水の音がする。遠くで、何かがかすかに光っている気がした。

 ——白い部屋じゃない。

 いつものパターンと違う。エマは立ち上がりながら、周囲を見回した。森だった。道らしいものはあるけど、どこに続いているのかわからない。左に行っても右に行っても、木々が続いているだけだ。

 少し離れたところに、人影があった。

 よかった、と思った瞬間、その人影もこちらに気づいて顔を上げた。

 エマは固まった。

 (……あれ、わたし?)

 自分の顔が、そこにあった。自分の髪、自分の目、自分の背丈。でも着ているのは黒いコートで、表情は自分よりずっと険しい。

 混乱したまま、口を開いた。

「ろ、ロクサス……?」

 出てきたのは、自分の声じゃなかった。

 低くて、落ち着いた、男の子の声だった。

 エマは自分の喉に手を当てた。

「…………え?」

 また声が出た。また、ロクサスの声だった。

---

 一方のロクサスは、エマの顔でエマの声を聞いて、固まっていた。

 (俺の声だ)

 目の前にいる人間が、ロクサスの声で喋っていた。でも顔はエマじゃない。ロクサスの顔だ。ロクサスのコートを着ている。

 それから、今自分が着ているものを見下ろした。

 見慣れない服だった。軽い。コートじゃない。そして、視界が低かった。

「……なんだ、これ」

 出てきた声が、エマの声だった。

 ロクサスは自分の手を見た。細かった。指が細くて、腕が細くて、自分の手じゃなかった。

 (エマの手だ)

 ゆっくりと理解が追いついてきた。体が入れ替わっている。自分がエマの体の中にいて、エマがロクサスの体の中にいる。

「……エマ」

「……ロクサス」

 二人して、しばらく黙っていた。

---

「とりあえず、出口を探すしかないな」

 ロクサスが——エマの体のロクサスが言った。エマの声で言っているのに、口調はロクサスだった。

「そ、そうだね」

 エマが——ロクサスの体のエマが答えた。ロクサスの声で答えているのに、どこかおどおどしていた。

 歩き出したロクサスは、数歩で立ち止まった。

「……低いな」

「え?」

「目線が。こんなに低いのか、エマは」

「そ、そうだよ、あたし背低いから……」

 ロクサスは自分の——エマの手を見た。それから腕を持ち上げて、曲げてみた。

「……細い」

「ちょ、ペタペタしないでよ!」

「別にペタペタしてない、確認してる」

「おんなじだよ!」

 エマが頬を赤くした。ロクサスの顔が赤くなっているのは、なんだか奇妙な光景だった。

 ロクサスは構わずもう少しだけ腕を見てから、眉を寄せた。

「……こんな細い腕で、もし何かあったとき」

「何かって?」

「エマを守れるか、ってこと」

 エマは少し黙った。

「……エマを守るのに、エマの体を使うのか」

「変な感じ、するか?」

「する。すごく」

 ロクサスはもう一度手を見てから、静かに言った。

「絶対何もさせないけどな」

 エマの胸が、じんわりと温かくなった。

---

 森の道は、迷路みたいに入り組んでいた。

 角を曲がるたびに景色が変わった。木々が密集した薄暗い場所かと思えば、突然開けた草原に出て、青白い花が一面に咲いていたりした。水面が光を反射してきらきらしている池もあった。不思議な場所だった。怖いというより、どこか夢の中みたいな感じがした。

 エマはその間もずっと、自分の手を持て余していた。

 (おっきい手だな)

 ロクサスの手は、自分の手より全然大きかった。指を曲げてみたり、伸ばしてみたりしながら、こっそり観察していた。

 それから、腕。

「……」

 袖をちょっとだけ捲って、腕を見た。筋肉があった。自分の腕と全然違う。触ってみると、硬かった。

 (意外と筋肉あるんだ、ロクサス)

 などと考えていたら、突然我に返った。

 (何やってんの、あたし!!)

 慌てて袖を戻した。顔が熱い。ロクサスの顔が熱いのだから、今頃ロクサスの顔は真っ赤になっているはずで、それもまた恥ずかしかった。

「エマ、どうした」

「な、なんでもない!!」

「顔赤いぞ」

「赤くない!」

「赤い。俺の顔がそんなに赤くなるとは思わなかった」

「うるさーい!!」

 ロクサスが首を傾げた。エマの顔で首を傾げているのが、なんともおかしかった。

---

 しばらく歩くと、森がひときわ開けた場所に出た。

 中央に、古びた木製の扉が一枚、ぽつんと立っていた。壁も枠もない。ただ扉だけが、草の上に立っている。

「……あれじゃないか」

「そうっぽいね」

 二人して扉に近づいた。取っ手を引くと、扉は静かに開いた。向こうには白い光があった。

「行くぞ」

「うん」

 ロクサスが先に扉をくぐった。エマも続いた。

 白い光に包まれた瞬間、体がふわっと軽くなった。

---

 気がついたら、トワイライトタウンの広場にいた。

 見慣れた石畳。見慣れた空。夕焼けが、空を橙色に染めていた。

 エマは自分の手を見た。細かった。自分の手だった。

「……戻ってる」

 隣でロクサスが言った。ロクサスの声で。エマが顔を上げると、ロクサスがいた。ちゃんとロクサスの体のロクサスが、自分の手を確認しながら立っていた。

「よかった……!」

 エマは思わず声に出した。

「……ああ」

 ロクサスも短く答えた。それから少し間があって、ぼそっと言った。

「……エマの体、軽かった」

「え」

「自分の体より全然軽くて、なんか変な感じだった」

「あ、あたしはロクサスの体、重かった……というか、硬かった」

「硬かった?」

「筋肉が……その、あたしの体と全然違って」

 言いながら、エマの顔がじわじわ赤くなった。ロクサスはそれを見て、少し目を細めた。

「腕、触ってたろ」

「さわっ……さわってないし!!」

「袖捲ってた」

「見てたの!?」

「見てない、なんとなくわかった」

 エマは顔を覆った。ロクサスが小さく笑う気配がした。

「……わりと恥ずかしかったぞ、俺も」

「え?」

「エマの体で動くの。なんか、こう……」

 ロクサスは少し言葉を探した。

「守らないといけない、って思ったのに、守る方の体がエマで。変な感じがした」

「……それって」

「細くて、軽くて。こんな体で毎日動いてるんだな、って」

 エマはロクサスの横顔を見た。夕焼けの光の中で、ロクサスはまっすぐ前を向いていた。耳がほんの少し赤かった。

「……ロクサス」

「なに」

「なんか、ありがとう」

「何が」

「心配してくれてたんでしょ、あたしのこと。あたしの体になってても」

 ロクサスは黙った。否定しなかった。

 夕焼けが、二人の影を長く伸ばしていた。

「……行くか」

「うん」

 並んで歩き出した。肩と肩の距離が、いつもより少しだけ近かった。

 エマはそれに気づいて、でも何も言わなかった。

 このままでいいと思ったから。

---
6/6ページ
スキ