13番
気がついたとき、最初に感じたのは床の硬さだった。
——またここだ。
もう四回目だった。白い天井、白い壁、光源のわからない薄明かり。すっかり見慣れてしまった景色に、エマは起き上がりながら小さくため息をついた。
「起きたか」
「うん」
今回はすぐに顔を向けられた。ロクサスが壁際に立っている。黒いコート、金色の髪、青い目。エマの胸が、見た瞬間にどくんと鳴った。前回の記憶が、じわっと蘇る。毛布の中のあたたかさ。ロクサスの体温。
(落ち着け、あたし)
「また同じ部屋だな」
ロクサスがエマのそばに歩み寄ってきながら言った。その声はいつも通りに聞こえた。でもエマには、ロクサスの耳がほんの少しだけ赤いことが見えていた。
(ロクサスも、覚えてるんだよな)
当たり前だけど、それを実感するとまた顔が熱くなった。
「怪我とかしてないか?」
「大丈夫。……またここか、って感じで」
「俺も」
短いやり取りのあと、二人して部屋を見回した。今回もテーブルの上に紙切れが置かれていた。前回前々回と同じだ。ロクサスが先に手を伸ばして、広げる。
『エマの弱いところを五箇所当てろ。五箇所見つけたら出してやる。』
ロクサスが眉を寄せた。
「弱いところ?」
「……なんだろ、それ」
二人して首を傾げていると、ひらり、と音もなく別の紙切れが空中から落ちてきた。エマが拾い上げて読む。
『触れたときにくすぐったく感じる場所のことだ。』
エマは固まった。
ロクサスも固まった。
しばらく、沈黙があった。
「……エマ、自分でわかるか? 弱いところ」
「……わかんない。自分で触るのと、人に触られるのって、たぶん違うから」
言ってから、エマは自分の発言の意味を理解して顔を覆った。つまりそれは、ロクサスに触れてもらわないとわからない、ということで。
「……じゃあ、俺が探すしかないな」
ロクサスが、少し間を置いてからそう言った。声はいつも通りだったけど、目線がわずかに泳いでいた。
「……うん、そう、なるね」
「わかった。やるぞ」
「ちょ、またそういうとこ……! もうちょっと間とか……!」
「早く出たいだろ」
「……そうだけど」
正論だった。エマは諦めて、ソファに腰を下ろした。ロクサスがその前に膝をついて、まっすぐエマを見る。近い。近すぎる。
ロクサスは、少し考えた。
(どこから触ればいいんだ)
触れる、という行為自体にはそこまで抵抗がなかった。でも今回は、エマの体の弱いところを探す、というのが目的で、それがなんとなく、いつもと違う感じがした。背筋のあたりがそわそわする。
「じゃあ、まず手から」
「て、手?」
「端から探した方が早い」
ロクサスはエマの右手をそっと取った。指先から、手のひら、手首へと、ゆっくりと親指を滑らせる。
「……どうだ」
「て、手はなんともない、かな」
「そっか」
次に手首の内側を、少し力を抜いて触れてみた。エマがぴくりと動いた。
「あ」
「ここか?」
「ちょ、ちょっとくすぐったい……かも」
「一個目」
「……一個目」
エマが小さく繰り返した。顔が赤い。ロクサスはそれを見て、なんとなく目を逸らした。なんでかはわからないけど、じっと見ていられない感じがした。
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「次、耳」
「え、耳!?」
「耳も弱い人いるって、どこかで聞いた」
「どこで聞いたの、そんなこと」
「アクセルが言ってた気がする」
「アクセルさん!?」
エマが若干遠い目をしたけど、ロクサスは気にせず手を伸ばした。エマの耳に、そっと触れる。耳のふちを、ゆっくりと指先でなぞった。
「ひゃっ……!」
エマが声を上げて、首をすくめた。
「……二個目」
「……っ」
エマは何も言わなかった。耳まで真っ赤になっていた。ロクサスはその反応を見て、なんか、と思った。なんか変な感じがする。胸のざわざわが、さっきより大きくなっていた。
(エマって、こういう声出るんだな)
思ってしまってから、ロクサスは首を振った。とにかく、次だ。
「首筋」
「……はい」
「なんでそんな諦めた返事なんだ」
「だってどうせくすぐったいもん……」
エマが観念したみたいに首を傾けた。ロクサスはエマの髪をそっと肩の方に払って、白い首筋を露わにした。
(……細い)
なんとなく思った。それから、おずおずと指先を首筋に触れさせた。鎖骨の少し上あたりから、耳の下まで、ゆっくりと。
「……っ、ん」
エマの体が、びくっと揺れた。
「三個目」
「……うん」
エマの声がだんだん小さくなってきていた。ロクサスは手を引いて、エマの顔を見た。耳まで赤い。目が少し潤んでいる。
(なんか、悪いことしてる感じがする)
悪いことというか、なんというか。エマがこういう顔をするのを、自分が引き出している、というのが、なんとも落ち着かない感じがした。でも止める理由もないので、続けることにした。
「あと二個。……腰、触るぞ」
「え、こ、腰!?」
「ダメか?」
「ダメじゃないけど……!」
エマがぎゅっと目を閉じた。ロクサスはエマの腰のあたりに手を添えた。服の上から、そっと。
「っ……!」
「反応でかいな」
「腰はほんとにくすぐったいんだって……っ!」
「四個目」
「……うん」
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あと一箇所。
ロクサスは少し考えた。どこが残っているだろう。首、耳、手首、腰。それ以外となると。
「……肩甲骨のあたり、触っていいか」
「……どうぞ」
エマが諦めたみたいにそう言って、少し前傾みになった。ロクサスはエマの背中に手を伸ばした。肩甲骨の内側あたりを、そっと指先で触れてみる。
「……ん」
小さな声だった。くすぐったいというより、なんか別の反応に聞こえた。
「ここ、くすぐったいか?」
「……くすぐったい、というか……なんか、ぞくっとする」
「ぞくっと?」
「うん……嫌な感じじゃないけど、なんか変な感じ」
ロクサスはもう一度、同じところに触れた。エマがまたぞくっと肩を震わせた。
「……五個目」
「……うん」
ロクサスが手を引いた途端、どこかでことん、と音がした。壁際の扉が、かちりと鳴る。開いた。
エマはほっとしたような、でも何か言いたそうな顔をしていた。
「……ロクサス」
「なに」
「あたしだけ恥ずかしいの、不公平じゃない?」
ロクサスは少し眉を上げた。
「……何が言いたいんだ」
「ロクサスの弱いところ、あたしも知りたい」
エマが立ち上がって、ロクサスの正面に立った。さっきまで真っ赤だった顔に、少し覚悟の色が混じっている。
「……俺はべつに」
「鎖骨、触っていい?」
「は?」
返事を聞く前に、エマの指先がロクサスのコートの襟元に触れた。鎖骨のあたりを、おずおずと。
ロクサスの体が、びくっと動いた。
「……っ」
「あ」
エマが目を丸くした。ロクサスは思わず一歩引いて、エマの手から離れた。
「今、くすぐったかった?」
「……べつに」
「絶対くすぐったかった」
「くすぐったくない」
「動いたじゃん」
「……うるさい」
ロクサスは目を逸らした。耳が赤くなっていた。エマはそれを見て、思わず笑った。声に出して笑った。
「なんで笑うんだ」
「だってロクサスも弱いところあるじゃん」
「ない」
「あったじゃん、今」
「……」
ロクサスは黙った。エマはまだ笑っていた。さっきまでずっと恥ずかしそうにしていたのに、今は目がきらきらしている。
(なんか、いつものエマだ)
そう思ったら、胸のざわざわが少し違う感じに変わった。あたたかいような、こそばゆいような。
「……行くぞ」
「はーい」
エマが笑いながら扉に向かって歩き出した。ロクサスはその後ろ姿を見ながら、まだそわそわしている胸に手を当てた。
(なんなんだろうな、ほんとに)
三回目になっても、まだわからなかった。
でも、悪くない、とは思っていた。
ロクサスはエマの後を追いかけた。
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