13番

気がついたとき、最初に感じたのは床の硬さだった。
 体を起こそうとして、後頭部に鈍い痛みが走る。思わず顔をしかめながら、ゆっくりと身を起こした。
 ——またここだ。
 目を開けてすぐに悟った。白い天井。白い壁。どこかにスライド式の扉。ぼんやりとした光源不明の明かり。見覚えのある、あの部屋だった。そして。
「起きたか」
 見覚えのある、黒いコート。
 エマは声のした方を見た瞬間、前回の記憶が一気に押し寄せてきて、顔が熱くなった。
 ロクサスだ。
 ロクサスが、また、この部屋にいる。
「……っ、ロ、ロクサス」
「怪我とかしてないか?」
 歩み寄ってくるロクサスの顔を直視できなくて、エマは思わず目を逸らした。だめだ。顔を見たら前回のことを思い出す。というか既に思い出してる。あのときのロクサスの顔とか、唇の感触とか、思い出したくないのに思い出せてしまう。
「だ、大丈夫……頭ちょっと痛いだけ」
「そっか」
 ロクサスはエマのすぐ隣に膝をついた。近い。近すぎる。エマは心臓がうるさくて仕方なかった。
 一方のロクサスは、エマの顔を見た瞬間から、胸の奥がざわざわしていた。
 (また、この感じだ)
 あれからずっと、エマのことを考えると決まってこうなる。任務中にふと思い出しては、この落ち着かない感覚に名前をつけようとして、できなくて、諦めることを繰り返していた。今日もそうだった。それなのに、また同じ部屋に閉じ込められて、また目の前にエマがいる。
 心臓が、いつもより速く打っていた。ロクサスは気づいていなかった。
「部屋、前と同じっぽいな」
「……うん、そうだね」
「また条件があるのかもしれない。探してみるか」
「……そう、だね」
 エマの返事がどこかぎこちない。ロクサスはそれが気になったけど、何も言わずに立ち上がった。

 テーブルの上に、白い紙切れが置かれていた。
 エマが手に取って広げる。一行読んで、固まった。
「……何て書いてあった?」
 ロクサスが隣から覗き込む。エマは紙をロクサスに向けた。顔が赤かった。
 ——同じ毛布で、夜明けまで。
 ロクサスも黙った。
 二人して、しばらく無言だった。
「……前よりは、まし、かな」
 エマが消え入りそうな声で言った。
「……そうだな」
 ロクサスも小さな声で返した。
 気まずかった。お互いに前回のことを覚えているから、余計に気まずかった。でもそれ以上何も言えなくて、二人してベッドの方を見た。白い毛布が一枚、きれいに畳まれている。
「……やるしかないよね」
「そうだな」
 エマが覚悟を決めたみたいに立ち上がって、ベッドに向かって歩き出した。ロクサスはその後ろ姿を見ながら、またどくんと胸が鳴るのを感じた。

 毛布の中に二人で入ると、肩と肩がぴったりとくっついた。
 エマが壁側、ロクサスが外側。前回みたいに向き合う形じゃないぶん、まだましだとエマは思った。思ったけど、ロクサスの体温が肩から伝わってきて、全然ましじゃなかった。
「……狭いな」
「ご、ごめん」
「なんでエマが謝るんだ」
「だって……」
「別に狭くて困ってるわけじゃない」
 ロクサスが天井を見上げながらそう言うと、エマが小さく「そっか」と呟いた。
 しばらく、黙っていた。
 部屋はしんとしていて、二人の息遣いだけが聞こえる。毛布の中はあたたかかった。エマはじっと天井を見上げたまま、どうしても頭から追い払えないでいた。
 (前回のこと、ロクサスも覚えてるんだよな)
 覚えているはずだ。あのときのロクサスの顔を思い出すと、今すぐ毛布を被って丸まりたくなる。でもそれをしたら余計に変な空気になる気がして、エマはじっと天井を見上げ続けた。
 一方のロクサスも、天井を見上げたまま、考えていた。
 (エマ、なんか俺のこと見ないな)
 さっきから視線が合わない。エマはずっと顔を逸らしている。それが、前回のことを気にしているからだというのは、なんとなくわかった。わかったけど、じゃあどうすればいいのかはわからなかった。
 (あのときのこと、また考えてるんだろうか)
 ロクサス自身も、考えていた。あの十分間のことを。エマの顔が近くにあったこと。終わった後のエマの泣きそうな顔のこと。それを思い出すたびに、胸がざわざわした。今もざわざわしていた。
「……なあ、エマ」
「な、なに」
「前回のこと」
 エマの肩がびくっと跳ねた。
「……その、」
「俺が夢中になりすぎて、泣かせたろ」
 ロクサスが、少し低い声で言った。エマはぱちりと瞬きをした。
「ちゃんと謝ろうと思ってた。……わり」
「え、あ、ちがっ、泣いてないよ!」
「泣いてた」
「泣いてないもん!」
「目、潤んでた」
「……っ」
 エマは言葉に詰まった。ロクサスはやっぱり天井を向いたまま、でも耳が少し赤くなっていた。
「……怖かったなら、ほんとにごめん」
「こ、怖くはなかったけど……」
「じゃあ、なんで泣いてたんだ」
「それはっ……! それは、その……!」
 説明できるわけがなかった。好きな人に十分間キスされてキャパオーバーになったからです、なんて言えるわけがない。エマは毛布を肩まで引き上げて、顔を半分埋めた。
「……言えない」
「そっか」
 ロクサスはそれ以上は聞かなかった。少しの沈黙があって、ぽつりと言った。
「……エマが泣いてたの、あんまり、よくなかった」
「え?」
「なんか、胸がざわざわした。嫌な感じじゃないんだけど、なんか落ち着かなくて」
 エマはゆっくりとロクサスの横顔を見た。ロクサスはまだ天井を向いていた。
「……それって」
「なんなのかはわかんない。でも、あれからもたまになる」
 淡々とした口調だった。でも耳はまだ赤かった。
 エマの胸が、じわっとあたたかくなった。
 (あれから、たまになる)
 それって、あたしのことを考えるとってこと? そう聞いたら、ロクサスはなんて答えるんだろう。聞けなかったけど、聞かなくてもなんとなくわかった気がした。
「……ロクサス」
「なに」
「その感覚、大事にしてね」
「……どういう意味だ?」
「なんでもない」
 エマは小さく笑って、天井に向き直った。ロクサスが「意味わかんない」と言ったけど、それ以上は追及してこなかった。

 どのくらい経ったかわからない。
 エマの息遣いが、いつの間にかゆっくりになっていた。
 ロクサスがそっと横を見ると、エマが目を閉じていた。眠っている。かすかに上下する肩と、穏やかな寝顔。
 (こんな顔してたんだな)
 いつも笑っているか慌てているか、真っ赤になっているか。そういうエマしか見たことがなかったから、眠っているエマはなんか、違う感じがした。
 ロクサスはしばらくエマの寝顔を見ていた。
 気がついたら、手が動いていた。
 エマの頬に、そっと指先を触れさせる。あたたかかった。エマはぴくりともしない。すっかり眠ってしまっている。
 (……柔らかい)
 指先からじんわりと体温が伝わってくる。ロクサスはそのまま少しだけ指を滑らせた。頬から、耳の手前あたりまで。髪が指先にかかった。
 胸のざわざわが、大きくなっていた。
 ロクサスはゆっくりと顔を近づけた。
 なぜそうしているのか、自分でもわからなかった。ただ、引き寄せられるみたいに。前回のことが、体の方が先に覚えていた。あのときの感覚が、勝手に手繰り寄せられていた。
 エマの唇まで、あと少しというところで。
 ロクサスははっとした。
 (——何してる、俺)
 勢いよく顔を離した。心臓がうるさかった。さっきより全然うるさかった。
 エマはまだ眠っていた。すっかり眠ってしまっている。気づいていない。
 ロクサスはそっと天井を向いて、目を閉じた。でも全然落ち着かなかった。
 (なんで、そうしようとしたんだ)
 わからなかった。わからないのに、胸はずっとざわざわしていた。さっき自分から顔を近づけておいて、なんではっとしたのかも、うまく説明できない。
 ただ。
 (……したかった、のか?)
 その考えが浮かんだ瞬間、心臓がどくんと大きく鳴った。
 ロクサスは目を閉じたまま、しばらく動けなかった。
 エマの体温が、毛布の中でじんわりと伝わってくる。あたたかい。
 (……なんなんだろう、ほんとに)
 答えは出なかった。
 出なかったけど、なぜかこのままでいいかと思っていた。

 どこからともなく、光が差した。
 部屋の明かりが、ほんの少しだけ明るくなった。壁際の扉が、かちりと音を立てた。
「エマ。起きろ、出られるみたいだぞ」
 ロクサスがそっと肩を揺すると、エマがゆっくりと目を開けた。ぼんやりとした顔で、それからロクサスの肩に頭を乗せていることに気づいて、一気に目が覚めた。
「っわ、寝てた!?ごめん!!」
「寝てた」
「重かったよね!?」
「別に」
「絶対重かった!!」
「重くなかった」
 ロクサスは平然とそう言いながら毛布を払って起き上がった。エマも慌てて起き上がって、手で髪を整えながら扉の方を見る。扉は少し開いていた。
「……出られるね」
「そうだな」
 二人で扉に向かって歩き出した。ロクサスが先に扉を抜けて、外で立ち止まる。エマも続いて出てきた。
 外の空気が、部屋よりひんやりしていた。
 エマはほっと息をついて、それからロクサスの横顔をそっと見た。ロクサスはまっすぐ前を向いていた。耳が、少し赤かった。
 (……さっきの話、覚えててくれるといいな)
 あれからたまになる、とロクサスが言っていたこと。その感覚に、いつかちゃんと名前がつくといいな、とエマは思った。
 言えなかったけど。
「……行くか」
「うん」
 ロクサスが歩き出して、エマはその隣に並んだ。肩と肩の距離が、いつもよりほんの少しだけ近かった気がした。
 気のせいかもしれないけど、エマはそれでよかった。
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