13番
気がついたとき、最初に感じたのは床の硬さだった。
体を起こそうとして、後頭部に鈍い痛みが走る。思わず顔をしかめながら、ゆっくりと身を起こした。
——どこ、ここ。
目を開けてまず目に入ったのは、白い天井だった。白い壁。白い床。家具はある。ベッドも、ソファも、テーブルも。でも全部どこか無機質で、まるで何かの見本みたいに生活感がない。部屋のどこかにスライドして開きそうな扉があるけど、それ以外に窓も、窓らしいものも見当たらない。明かりはあるのに、光源がどこにあるのかわからない薄ぼんやりとした明るさが、部屋全体に満ちていた。
「……起きたか」
低い声に肩が跳ねた。
振り返ると、黒いコートを纏った人影が壁際に立っていた。その見慣れた金色の髪と、いつもより少し険しい表情で細められた青い目を認識した瞬間、エマの胸に安堵がどっと溢れる。
「ろ、ロクサス……!?」
名前を呼ぶと、ロクサスはわずかに眉を緩めた。険しかった表情がほんの少しだけほどけて、それからすぐに周りを確認するように視線を走らせながら、エマのそばに歩み寄ってくる。
「よかった、起きた。怪我とかしてないか?」
「う、うん、たぶん……頭ちょっと痛いけど」
「そっか」
一言だけそう返して、ロクサスはエマの隣に膝をついた。ほんの少し、目線を合わせるように。その距離の近さに内心どきりとしながら、エマは恐る恐る問いかける。
「ここ……どこ? どういう状況なの?」
「俺にもわかんない」
迷いのない答えだった。
「背中に何かがぶつかってきて、気がついたらここにいた。エマもそうなのか?」
「……おんなじだ」
エマはゆっくりと立ち上がりながら、部屋を見回した。壁際の扉に歩み寄って、押してみる。引いてみる。どこかにスイッチや取っ手がないか、指先で壁面を探ってみる。びくともしない。まるで最初から開く気がないみたいに、ただそこにあるだけだ。
「ここから出られないの……?」
「キーブレード出そうとしたけど出なかった。魔法も試したけどだめで、あとは……」
ロクサスは少し口ごもった。
「……他にも試したけど、全部だめだった」
「他にも? 何を——」
「まあ、いろいろ」
それ以上は言わなかった。エマが「回廊……?」と首を傾げても、ロクサスは「気にしなくていい」とだけ言って視線を逸らした。何かを隠しているのは分かったけど、それ以上は聞けなかった。
それが何を意味するのか、エマには半分くらいしかわからない。でも、ロクサスが不思議な力を持っていることは知っている。あの夜、薄暗いトワイライトタウンの路地で、見たこともない武器を手にした彼に助けてもらったときから、ずっと知っている。
その彼が「だめだった」と言っているということは。
「……閉じ込められてる、ってこと?」
「……たぶん、そう」
ロクサスは少しだけ、居心地悪そうに頭をかいた。
「なんか、ごめん」
「え、なんでロクサスが謝るの」
「エマを巻き込んだかもしれないから」
「それこそロクサスのせいじゃないじゃん」
エマが苦笑いを浮かべると、ロクサスは少しだけ眉を寄せたまま黙った。納得はしてなさそうだったけど、それ以上は言わなかった。
「とりあえず、もう少し部屋の中探してみよっか」
「……そうだな」
出口が見つかるわけもなく、手がかりになりそうなものもなく、二人してしばらく部屋をうろうろしていると、テーブルの下に白い紙切れが落ちているのをエマが見つけた。
「あ、なんかある」
拾い上げて広げると、短い文章が書かれていた。
『この部屋から出たいなら、お題をこなせ。』
それだけ読んで、エマは眉をひそめた。その下を見る。
——20分のハグ。10分のキス。
「…………え?」
二度見した。三度見した。読み間違いじゃなかった。
「っわあ!?」
思わず声が出た。我ながらびっくりするくらい大きな声が出た。
「どうした、何かあったか!?」
ロクサスが驚いて駆け寄ってくる。エマの顔を覗き込んで、眉を寄せる。
「何か書いてあったのか? 見せてみ」
「え、ちょっ、あの——!」
紙を後ろに隠しかけて、でも咄嗟に「これを解決しないと出られない」という現実を思い出して、エマはしぶしぶ紙を差し出した。
ロクサスが受け取って、目を通す。
「……ハグはわかる」
え、わかるの、と思いながらエマはロクサスの顔を見た。
「キスって何?」
「…………は?」
エマは固まった。
「え、それは……その」
「わかんないのか?」
「わかるけど……っ」
どう説明すればいいんだ、と頭を抱えたくなりながら、エマは顔を手で覆った。耳まで熱くなっているのが自分でもわかる。
「……く、くちびる同士を……くっつけること」
「ふうん」
あっさりした相槌だった。
「それって、そんなに難しいか?」
「え?」
顔を上げる間もなかった。
気がついたらロクサスが腕を広げていた。「やるぞ」とでも言わんばかりの、あまりにも自然な仕草で。
「ちょっちょっちょっと待って!?」
「何を?」
「心の準備!」
「それって時間かかるのか?」
「かかります!!」
エマが両手を前に出して制止すると、ロクサスは首を傾げた。本気で理解できていない顔をしている。照れているのに、照れているのにこの人は全然そういうことを考えていないのが丸わかりで、なんでか余計に恥ずかしくなる。
「早く出たいし、ハグからやっちまおう。ほら」
「も——!」
一歩踏み出してきたロクサスに腕を引かれて、あっという間にその胸に収まっていた。
腕が背中に回される感触に、エマは盛大に身を固くした。
「ちょ、やっぱりまだ——!」
「じっとしてろって」
「でも——!」
「エマ」
名前を呼ばれた途端、言葉が詰まった。
ロクサスの腕が、ぎゅっと力を込めた。逃げ出せないくらい、でも痛くないくらいの力で。
「……っ」
エマは動くのをやめた。やめるしかなかった。この腕の中から抜け出すには、ちゃんとした力で抵抗しなきゃいけないのに、体がいうことをきかない。全身がじわじわと熱くなって、どこかに消えてしまいたい気持ちと、このまま時間が止まればいいという気持ちが同時にある。
コトン、と音がした。
どこからともなく砂時計が現れて、テーブルの上に置かれていた。砂が、ゆっくりと落ち始める。
——20分。始まった。
ロクサスは黙っていた。エマも黙っていた。
こんなに誰かと密着したことが、これまでの人生でどれほどあったかと考えて、エマはうまく息ができないことに気づいた。ロクサスのコートの布地が頬に当たっている。その下に、体の温もりが確かにある。
(……心臓、絶対聞こえてる)
どくどくと、我ながら情けないくらい脈打っている。こんな音、ロクサスに聞こえてないわけがない。エマは密かに恥ずかしさで死にそうになりながら、ロクサスの胸元に顔を埋めた。せめて顔だけでも見えないように。
一方のロクサスは、黙ったまま、腕の中のエマに視線を落としていた。
小さいな、とまず思った。
エマは背が低い。並んで立つといつも頭一つ分くらい下にある。それは知っていた。でも、こうして実際に腕の中に収めると、思っていた以上に小さくて、なんか変な感じがする。かと言って放すのも違う気がして、腕はそのままにしていた。
それに、暖かい。
あんまりそういうことを考えたことがなかったけど、人間って、こんなに体温あるんだな、と妙に感心していた。コートの上からでもわかるくらい、エマの体温がじんわりと伝わってくる。
——それから、どくどく、という振動も。
腕の中で、エマの鼓動が伝わってくる。速い。自分に聞こえているなら、エマにも聞こえているんだろうと思ったけど、それを言ったら絶対怒られる気がしたのでロクサスは黙っていることにした。
(……あったかいな)
なんとなく、そう思った。シオンと並んで歩くときとかとも全然違って、こんなに近くにいると、なんか、落ち着かないような、でも嫌じゃないような、うまく言えない感じがある。
ただ、なんとなく。
放したくないな、と思っていた。
その感情に名前がつくかどうかは、ロクサスには全然わからなかった。
20分というのは、短いのか長いのか。
砂時計の砂が落ちきったとき、ロクサスはそっと腕を緩めた。
「……終わったな」
「……うん」
エマの声が、聞き慣れない音をしていた。
いつものエマはもっと明るい。よく笑って、よく喋って、ロクサスが的外れなことを言っても笑い飛ばして返してくる。でも今のエマの声は、小さくて、どこか頼りなくて、ロクサスはなんでかそれが気になって仕方なかった。
「エマ?」
「だ、大丈夫……立てる、立てるから——」
腕を放したとたん、エマの体がぐらついた。
「っ——」
ロクサスは咄嗟に手を伸ばした。腰を支えると、エマが小さく「あ」と声を出した。
「足、力入んない……ごめん、ちょっとだけ」
「ソファ座れ、ほら」
答えを聞く前に、肩を支えてソファまで連れて行った。エマをそこに座らせて、ロクサスも隣に腰を下ろす。少し間があって、どちらも喋らなかった。
沈黙が、むずがゆかった。
ロクサスは胸の辺りに手を当てた。なんとなく、落ち着かない。心臓が、さっきから変な感じがする。速いとか遅いとかじゃなくて、なんか、ざわざわする。
(なんだこれ)
こんな感覚、これまでになかった気がする。ロクサスは考えるのをやめて、砂時計を見た。次の砂がまだ落ち始めていない。待っているのだと思った。
隣で、エマが深呼吸をしていた。
「……はあ」
「落ち着いたか?」
「んー……だいぶ」
少しの間があって、エマが正面を向いたまま口を開いた。
「……ロクサスって、早く出たいよね。ここ」
「そうだな」
「だよね」
エマはぽつりとそれだけ言って、もう一回深呼吸した。ロクサスにはその意味がすぐにはわからなかったけど、エマが次の瞬間に「……やろっか」と言ったとき、砂時計の砂が動き始めた。
——10分。始まった。
二人でソファに向き合う形になって、どっちからともなく距離を詰めた。
エマがそっと目を閉じるのを見て、ロクサスも倣うように目を閉じた。
くっついた、と思った。
最初はただそれだけだった。エマの唇は柔らかくて、ロクサスが何となく想像していたよりずっと。何を想像していたのかも曖昧だったけど、なんとなくそう思った。
少し経って、息が苦しくなって、エマが先に離した。ふわっと息を吐いて、また、そっとくっつける。
また少し経って、今度はロクサスが離した。息をして、また戻る。
それを繰り返すうちに、なんとなくわかってきた気がした。こうして近づいて、また触れて、を繰り返すことの感覚が。
(……悪くない、な)
唇を、少し動かした。ちょっとだけ。ふにっと、エマの唇を挟むように。
「——んっ」
エマが声を出した。驚いたような、そうじゃないような、小さな声。ロクサスはその声で少しはっとして離れかけたけど、エマがすぐにまた目を閉じたから、続けることにした。
どのくらい経ったんだろう。
ロクサスはもう時間のことを考えていなかった。エマの体が、いつの間にか傾いていて、ロクサスの胸に体重を預けていた。ロクサスは気づいたら片腕でそれを支えていて、それがいつからなのかも覚えていない。
エマが少し角度を変えた。おずおずと、でも確かに自分から。
その瞬間に、なんだかわからないけど、胸の奥で何かが動いた気がした。
「悪くない」じゃなかった。もっと違う何かが、ちゃんとそこにあった。
エマが、くぐもった小さな声を上げた。息ができない、と言っているような、でも言葉にならない音。
ロクサスはそれを聞いても、止まらなかった。
頭に手をやって、そっと、でも確かに引き寄せた。さっきより少しだけ、もう少しだけと思いながら。
——エマは、半分、意識が飛んでいた。
正確に言うと意識はあった。あったけど、頭が回っていなかった。
(だめだ、もう無理、心臓がもたない——)
そう思いながら、でも離せなかった。なんで離せないのか自分でも分からなかった。さっきまでは何度も息継ぎのたびに離せていたのに、今は頭を押さえられているせいもあって、ロクサスが主導権を持っていた。
(……なんか、うまくなってる)
さっきより、心なしか。エマにはよくわからないけど、なんとなく、そんな気がした。
砂時計、と思い出したのはそのときだった。
薄目を開けると、テーブルの上の砂時計が視界の端に入った。砂は——落ちきっていた。
(終わってる……!)
エマはロクサスの胸を叩いた。一回、二回。
離れない。
叩いた手が、逆にロクサスの手に包まれた。
「ん——っ!」
声が出た。それすら恥ずかしい。
エマは空いているほうの手で、ロクサスの肩をぐい、と押した。渾身の力で。
ようやく、ほんの少しだけ距離ができた。
「……じかん」
エマは息も絶え絶えに言った。声が、情けないくらいかすれていた。
「もう、すぎてるよ……」
ロクサスがゆっくりと目を開いた。
エマの顔は真っ赤で、目が潤んでいた。涙が出そうというよりは、出ないようにこらえている顔だった。そのことに気づいたとき、ロクサスの中で何かが急速に冷えた。夢中になっていた何かが、ぷつりと途切れた。
「……わり」
低く、静かに言った。
エマはぎこちなく首を振った。
「……先、出てて。ちょっとだけ、一人にして」
「でも——」
「出た所で待ってて。すぐ行くから」
エマの声は小さかったけど、ちゃんとそこにあった。ロクサスは一度エマの顔を見て、それから立ち上がった。
「……わかった。外で待ってるから」
壁の扉が、今度はするりと開いた。
ロクサスがそこを抜けて、扉が閉まる。
エマは一人になった部屋で、ソファに座ったまましばらく動けなかった。
目の奥が、熱い。
さっきまでこらえていたものが、今さら一滴だけ、頬を伝った。
(……おかしくなっちゃいそうだった)
声にならないそれを飲み込んで、エマは深呼吸をした。
扉の外で、ロクサスは壁に背を預けて立っていた。
胸に、手を当てた。
(……なんだ、これ)
さっきと同じ感覚が、さっきより大きくある。ざわざわというより、どきどき、に近い。でもそれも正確じゃない気がした。もっと違う何かで、でもその何かに名前を知らない。
ロクサスは自分が「心を持たない」とされていることを知っていた。ノーバディだから。でも今ここで感じているこれは、何なんだろう、とぼんやり思った。
心がないなら、この感覚ってどこから来るんだ。
答えは出なかった。
でも——まあ、いいか、と思った。
よくないのかもしれないけど、不思議とそう思った。
ロクサスは扉の前で、エマを待った。
体を起こそうとして、後頭部に鈍い痛みが走る。思わず顔をしかめながら、ゆっくりと身を起こした。
——どこ、ここ。
目を開けてまず目に入ったのは、白い天井だった。白い壁。白い床。家具はある。ベッドも、ソファも、テーブルも。でも全部どこか無機質で、まるで何かの見本みたいに生活感がない。部屋のどこかにスライドして開きそうな扉があるけど、それ以外に窓も、窓らしいものも見当たらない。明かりはあるのに、光源がどこにあるのかわからない薄ぼんやりとした明るさが、部屋全体に満ちていた。
「……起きたか」
低い声に肩が跳ねた。
振り返ると、黒いコートを纏った人影が壁際に立っていた。その見慣れた金色の髪と、いつもより少し険しい表情で細められた青い目を認識した瞬間、エマの胸に安堵がどっと溢れる。
「ろ、ロクサス……!?」
名前を呼ぶと、ロクサスはわずかに眉を緩めた。険しかった表情がほんの少しだけほどけて、それからすぐに周りを確認するように視線を走らせながら、エマのそばに歩み寄ってくる。
「よかった、起きた。怪我とかしてないか?」
「う、うん、たぶん……頭ちょっと痛いけど」
「そっか」
一言だけそう返して、ロクサスはエマの隣に膝をついた。ほんの少し、目線を合わせるように。その距離の近さに内心どきりとしながら、エマは恐る恐る問いかける。
「ここ……どこ? どういう状況なの?」
「俺にもわかんない」
迷いのない答えだった。
「背中に何かがぶつかってきて、気がついたらここにいた。エマもそうなのか?」
「……おんなじだ」
エマはゆっくりと立ち上がりながら、部屋を見回した。壁際の扉に歩み寄って、押してみる。引いてみる。どこかにスイッチや取っ手がないか、指先で壁面を探ってみる。びくともしない。まるで最初から開く気がないみたいに、ただそこにあるだけだ。
「ここから出られないの……?」
「キーブレード出そうとしたけど出なかった。魔法も試したけどだめで、あとは……」
ロクサスは少し口ごもった。
「……他にも試したけど、全部だめだった」
「他にも? 何を——」
「まあ、いろいろ」
それ以上は言わなかった。エマが「回廊……?」と首を傾げても、ロクサスは「気にしなくていい」とだけ言って視線を逸らした。何かを隠しているのは分かったけど、それ以上は聞けなかった。
それが何を意味するのか、エマには半分くらいしかわからない。でも、ロクサスが不思議な力を持っていることは知っている。あの夜、薄暗いトワイライトタウンの路地で、見たこともない武器を手にした彼に助けてもらったときから、ずっと知っている。
その彼が「だめだった」と言っているということは。
「……閉じ込められてる、ってこと?」
「……たぶん、そう」
ロクサスは少しだけ、居心地悪そうに頭をかいた。
「なんか、ごめん」
「え、なんでロクサスが謝るの」
「エマを巻き込んだかもしれないから」
「それこそロクサスのせいじゃないじゃん」
エマが苦笑いを浮かべると、ロクサスは少しだけ眉を寄せたまま黙った。納得はしてなさそうだったけど、それ以上は言わなかった。
「とりあえず、もう少し部屋の中探してみよっか」
「……そうだな」
出口が見つかるわけもなく、手がかりになりそうなものもなく、二人してしばらく部屋をうろうろしていると、テーブルの下に白い紙切れが落ちているのをエマが見つけた。
「あ、なんかある」
拾い上げて広げると、短い文章が書かれていた。
『この部屋から出たいなら、お題をこなせ。』
それだけ読んで、エマは眉をひそめた。その下を見る。
——20分のハグ。10分のキス。
「…………え?」
二度見した。三度見した。読み間違いじゃなかった。
「っわあ!?」
思わず声が出た。我ながらびっくりするくらい大きな声が出た。
「どうした、何かあったか!?」
ロクサスが驚いて駆け寄ってくる。エマの顔を覗き込んで、眉を寄せる。
「何か書いてあったのか? 見せてみ」
「え、ちょっ、あの——!」
紙を後ろに隠しかけて、でも咄嗟に「これを解決しないと出られない」という現実を思い出して、エマはしぶしぶ紙を差し出した。
ロクサスが受け取って、目を通す。
「……ハグはわかる」
え、わかるの、と思いながらエマはロクサスの顔を見た。
「キスって何?」
「…………は?」
エマは固まった。
「え、それは……その」
「わかんないのか?」
「わかるけど……っ」
どう説明すればいいんだ、と頭を抱えたくなりながら、エマは顔を手で覆った。耳まで熱くなっているのが自分でもわかる。
「……く、くちびる同士を……くっつけること」
「ふうん」
あっさりした相槌だった。
「それって、そんなに難しいか?」
「え?」
顔を上げる間もなかった。
気がついたらロクサスが腕を広げていた。「やるぞ」とでも言わんばかりの、あまりにも自然な仕草で。
「ちょっちょっちょっと待って!?」
「何を?」
「心の準備!」
「それって時間かかるのか?」
「かかります!!」
エマが両手を前に出して制止すると、ロクサスは首を傾げた。本気で理解できていない顔をしている。照れているのに、照れているのにこの人は全然そういうことを考えていないのが丸わかりで、なんでか余計に恥ずかしくなる。
「早く出たいし、ハグからやっちまおう。ほら」
「も——!」
一歩踏み出してきたロクサスに腕を引かれて、あっという間にその胸に収まっていた。
腕が背中に回される感触に、エマは盛大に身を固くした。
「ちょ、やっぱりまだ——!」
「じっとしてろって」
「でも——!」
「エマ」
名前を呼ばれた途端、言葉が詰まった。
ロクサスの腕が、ぎゅっと力を込めた。逃げ出せないくらい、でも痛くないくらいの力で。
「……っ」
エマは動くのをやめた。やめるしかなかった。この腕の中から抜け出すには、ちゃんとした力で抵抗しなきゃいけないのに、体がいうことをきかない。全身がじわじわと熱くなって、どこかに消えてしまいたい気持ちと、このまま時間が止まればいいという気持ちが同時にある。
コトン、と音がした。
どこからともなく砂時計が現れて、テーブルの上に置かれていた。砂が、ゆっくりと落ち始める。
——20分。始まった。
ロクサスは黙っていた。エマも黙っていた。
こんなに誰かと密着したことが、これまでの人生でどれほどあったかと考えて、エマはうまく息ができないことに気づいた。ロクサスのコートの布地が頬に当たっている。その下に、体の温もりが確かにある。
(……心臓、絶対聞こえてる)
どくどくと、我ながら情けないくらい脈打っている。こんな音、ロクサスに聞こえてないわけがない。エマは密かに恥ずかしさで死にそうになりながら、ロクサスの胸元に顔を埋めた。せめて顔だけでも見えないように。
一方のロクサスは、黙ったまま、腕の中のエマに視線を落としていた。
小さいな、とまず思った。
エマは背が低い。並んで立つといつも頭一つ分くらい下にある。それは知っていた。でも、こうして実際に腕の中に収めると、思っていた以上に小さくて、なんか変な感じがする。かと言って放すのも違う気がして、腕はそのままにしていた。
それに、暖かい。
あんまりそういうことを考えたことがなかったけど、人間って、こんなに体温あるんだな、と妙に感心していた。コートの上からでもわかるくらい、エマの体温がじんわりと伝わってくる。
——それから、どくどく、という振動も。
腕の中で、エマの鼓動が伝わってくる。速い。自分に聞こえているなら、エマにも聞こえているんだろうと思ったけど、それを言ったら絶対怒られる気がしたのでロクサスは黙っていることにした。
(……あったかいな)
なんとなく、そう思った。シオンと並んで歩くときとかとも全然違って、こんなに近くにいると、なんか、落ち着かないような、でも嫌じゃないような、うまく言えない感じがある。
ただ、なんとなく。
放したくないな、と思っていた。
その感情に名前がつくかどうかは、ロクサスには全然わからなかった。
20分というのは、短いのか長いのか。
砂時計の砂が落ちきったとき、ロクサスはそっと腕を緩めた。
「……終わったな」
「……うん」
エマの声が、聞き慣れない音をしていた。
いつものエマはもっと明るい。よく笑って、よく喋って、ロクサスが的外れなことを言っても笑い飛ばして返してくる。でも今のエマの声は、小さくて、どこか頼りなくて、ロクサスはなんでかそれが気になって仕方なかった。
「エマ?」
「だ、大丈夫……立てる、立てるから——」
腕を放したとたん、エマの体がぐらついた。
「っ——」
ロクサスは咄嗟に手を伸ばした。腰を支えると、エマが小さく「あ」と声を出した。
「足、力入んない……ごめん、ちょっとだけ」
「ソファ座れ、ほら」
答えを聞く前に、肩を支えてソファまで連れて行った。エマをそこに座らせて、ロクサスも隣に腰を下ろす。少し間があって、どちらも喋らなかった。
沈黙が、むずがゆかった。
ロクサスは胸の辺りに手を当てた。なんとなく、落ち着かない。心臓が、さっきから変な感じがする。速いとか遅いとかじゃなくて、なんか、ざわざわする。
(なんだこれ)
こんな感覚、これまでになかった気がする。ロクサスは考えるのをやめて、砂時計を見た。次の砂がまだ落ち始めていない。待っているのだと思った。
隣で、エマが深呼吸をしていた。
「……はあ」
「落ち着いたか?」
「んー……だいぶ」
少しの間があって、エマが正面を向いたまま口を開いた。
「……ロクサスって、早く出たいよね。ここ」
「そうだな」
「だよね」
エマはぽつりとそれだけ言って、もう一回深呼吸した。ロクサスにはその意味がすぐにはわからなかったけど、エマが次の瞬間に「……やろっか」と言ったとき、砂時計の砂が動き始めた。
——10分。始まった。
二人でソファに向き合う形になって、どっちからともなく距離を詰めた。
エマがそっと目を閉じるのを見て、ロクサスも倣うように目を閉じた。
くっついた、と思った。
最初はただそれだけだった。エマの唇は柔らかくて、ロクサスが何となく想像していたよりずっと。何を想像していたのかも曖昧だったけど、なんとなくそう思った。
少し経って、息が苦しくなって、エマが先に離した。ふわっと息を吐いて、また、そっとくっつける。
また少し経って、今度はロクサスが離した。息をして、また戻る。
それを繰り返すうちに、なんとなくわかってきた気がした。こうして近づいて、また触れて、を繰り返すことの感覚が。
(……悪くない、な)
唇を、少し動かした。ちょっとだけ。ふにっと、エマの唇を挟むように。
「——んっ」
エマが声を出した。驚いたような、そうじゃないような、小さな声。ロクサスはその声で少しはっとして離れかけたけど、エマがすぐにまた目を閉じたから、続けることにした。
どのくらい経ったんだろう。
ロクサスはもう時間のことを考えていなかった。エマの体が、いつの間にか傾いていて、ロクサスの胸に体重を預けていた。ロクサスは気づいたら片腕でそれを支えていて、それがいつからなのかも覚えていない。
エマが少し角度を変えた。おずおずと、でも確かに自分から。
その瞬間に、なんだかわからないけど、胸の奥で何かが動いた気がした。
「悪くない」じゃなかった。もっと違う何かが、ちゃんとそこにあった。
エマが、くぐもった小さな声を上げた。息ができない、と言っているような、でも言葉にならない音。
ロクサスはそれを聞いても、止まらなかった。
頭に手をやって、そっと、でも確かに引き寄せた。さっきより少しだけ、もう少しだけと思いながら。
——エマは、半分、意識が飛んでいた。
正確に言うと意識はあった。あったけど、頭が回っていなかった。
(だめだ、もう無理、心臓がもたない——)
そう思いながら、でも離せなかった。なんで離せないのか自分でも分からなかった。さっきまでは何度も息継ぎのたびに離せていたのに、今は頭を押さえられているせいもあって、ロクサスが主導権を持っていた。
(……なんか、うまくなってる)
さっきより、心なしか。エマにはよくわからないけど、なんとなく、そんな気がした。
砂時計、と思い出したのはそのときだった。
薄目を開けると、テーブルの上の砂時計が視界の端に入った。砂は——落ちきっていた。
(終わってる……!)
エマはロクサスの胸を叩いた。一回、二回。
離れない。
叩いた手が、逆にロクサスの手に包まれた。
「ん——っ!」
声が出た。それすら恥ずかしい。
エマは空いているほうの手で、ロクサスの肩をぐい、と押した。渾身の力で。
ようやく、ほんの少しだけ距離ができた。
「……じかん」
エマは息も絶え絶えに言った。声が、情けないくらいかすれていた。
「もう、すぎてるよ……」
ロクサスがゆっくりと目を開いた。
エマの顔は真っ赤で、目が潤んでいた。涙が出そうというよりは、出ないようにこらえている顔だった。そのことに気づいたとき、ロクサスの中で何かが急速に冷えた。夢中になっていた何かが、ぷつりと途切れた。
「……わり」
低く、静かに言った。
エマはぎこちなく首を振った。
「……先、出てて。ちょっとだけ、一人にして」
「でも——」
「出た所で待ってて。すぐ行くから」
エマの声は小さかったけど、ちゃんとそこにあった。ロクサスは一度エマの顔を見て、それから立ち上がった。
「……わかった。外で待ってるから」
壁の扉が、今度はするりと開いた。
ロクサスがそこを抜けて、扉が閉まる。
エマは一人になった部屋で、ソファに座ったまましばらく動けなかった。
目の奥が、熱い。
さっきまでこらえていたものが、今さら一滴だけ、頬を伝った。
(……おかしくなっちゃいそうだった)
声にならないそれを飲み込んで、エマは深呼吸をした。
扉の外で、ロクサスは壁に背を預けて立っていた。
胸に、手を当てた。
(……なんだ、これ)
さっきと同じ感覚が、さっきより大きくある。ざわざわというより、どきどき、に近い。でもそれも正確じゃない気がした。もっと違う何かで、でもその何かに名前を知らない。
ロクサスは自分が「心を持たない」とされていることを知っていた。ノーバディだから。でも今ここで感じているこれは、何なんだろう、とぼんやり思った。
心がないなら、この感覚ってどこから来るんだ。
答えは出なかった。
でも——まあ、いいか、と思った。
よくないのかもしれないけど、不思議とそう思った。
ロクサスは扉の前で、エマを待った。
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