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最初に感じたのは、冷たさだった。
頬に、手のひらに、じわりと滲んでくる底冷えのような感触で、エマはゆっくりと意識を浮かび上がらせた。目を開けると濡れたアスファルトが視界いっぱいに広がっていて、雨が降ったのか地面はうっすら湿っていた。座り込んだ制服の膝がしっとりと冷たい。体の芯まで冷えきっていることに、遅れて気付く。
顔を上げると、見知らぬ街並みが広がっていた。
背の高いビルが隙間なく立ち並んで、毒々しいネオンや窓から漏れる光が夜の地面を不規則に照らしている。明るいのに人の気配が一切しない、声も足音も何も聞こえない、奇妙に静まり返った場所だった。どこか作り物めいた、薄ら寒い静けさがある。
地面に座り込んだまま、エマはぐるりと辺りを見渡した。
その時だった。
背後の空気が、変わった。
音も気配もなかった。それなのに首の後ろから背骨を辿るように何かが這い上がってくるような感覚があって、全身の毛が逆立つ。言葉にならないその圧は、ただそこに立っているだけの人間が持てるものじゃなかった。逃げろと叫ぶより先に体が強張って、息が詰まる。
「何者だ」
低く静かな声が、真後ろから落ちてきた。
「っ——エマです、わたしエマって言います!」
慌てて名前を告げると、背後の圧がわずかに変化した。消えはしない、ただ少し、間が生まれた。
「どうやってここへ来た」
「帰り道で……学校からの帰りで、知らない道に入ったら扉があって、開けたら気付いたらここに居て——」
自分でも支離滅裂だと分かりながら、正直に言える事だけを並べた。嘘をつく余裕なんてなかった。
しばらく沈黙があった。
「付いてこい」
選択肢を渡す気がない、有無を言わせない口調だった。エマは慌てて立ち上がり、濡れた膝を手で払って声の主の方を向く。
長い白銀の髪、黒いコート、金色の瞳。振り返りもせず歩き出したその背中を、エマは半ば駆け足で追いかけた。
——逃げたい、とは思う。
でも逃げた先に何があるかも分からないし、今の自分には帰る手段も居場所も何もない。だったら付いていく方がまだましだ。そういう結論が、怖い気持ちより少しだけ早く出てきた。
連れて行かれた先にあったのは、城だった。
遠目から異様な存在感があって、近付くほどにその印象は強くなっていく。不規則な形の塔がいくつも連なる白い外壁は清潔感があるのに温度がない。人が住んでいる場所の匂いがしない。綺麗なのにどこか剥製に似た不気味さがある建物だった。
男は振り返らない。白い廊下を歩くのが速くて、エマは小走りで背中を追い続ける。とにかく何がなんだか分からない、怖い、でも立ち止まっても何も変わらない——そのふたつが頭の中でぐるぐる回ったまま、気付いたら大きな扉の前に出ていた。
男が扉を開けて中に入り、エマも続いた。
広い部屋だった。中央に円形の台があって——と最初は思った。でも視界に入ってきた細長い構造物を目で追って、思わず見上げると。
椅子だった。天井に届きそうなほど高い台座の上に据えられた椅子が、円を描くように部屋を取り囲んでいて、その全てに黒いコートを纏った人間が座っていた。フードを深く被って顔の見えない者、顔を出したままこちらを見下ろしている者、思い思いの姿でエマを見ている。
全員が、見ていた。
圧に足がすくんで、エマは反射的に背後を振り返った。
男がいない。
さっきまで隣を歩いていたはずの白銀の男が、いつの間にか上にいた。椅子のひとつに収まって、金色の瞳をこちらへ静かに向けている。
「……え、いつの間に」
呆然と口から漏れた言葉に、誰も答えなかった。
「今宵、城の外に異質な気配があった」
ゼムナスの声が部屋に静かに広がった。
「確認に向かうと、この娘が倒れていた。我々の世界の者ではない——それはすぐに分かった。纏う気配が、根本から異なる」
金色の瞳が一瞬だけエマを捉えて、また前へ向く。
「どこから来たのかは不明だ。ただ容易く辿り着けるはずのない場所に突然現れた、それだけでこの娘には調べる価値がある。しばらくここで預かる——部屋を与えろ」
それだけだった。反論を待つ間もなく、ゼムナスの傍らに暗い裂け目が生まれる。ゼムナスはそこへ静かに歩み入って——跡形もなく、消えた。
エマはその場所をしばらく見つめたまま、動けなかった。さっきまで確かにそこにいたのに、煙のように消えてしまった。ここはどこで、あの人たちは何者で、自分はこれからどうなるのか——頭の中で問いがぐるぐると回って、でもひとつも答えが出てこない。
それを合図にするように、機関員たちが動き始めた。
最初から興味がなかったように無言で回廊へ消える者、腕を組んだまま一瞥だけくれてそれきり立ち上がる者。エマの方をちらりと見て何かを言いかけて、やめて消える者もいた。誰もエマに直接声をかけようとはしない。
「こんな子をここに置いていくの」
上から声が降ってきた。金髪をオールバックに流した女が口を尖らせてこちらを見下ろしていて、不満をそのまま空気に放るような言い方だった。エマに向けているのか独り言なのか、判断がつかない。
「俺は歓迎するけどな~」
茶寄りの金髪の男がへらりと笑いながら回廊へ消えていく。その軽さにどう反応すればいいかも分からなくて、エマはただ目で追うことしかできなかった。
1人、また1人と回廊に消えていく。部屋がどんどん静かになるにつれて、取り残されていく感覚が膨らんでいく。どこへ行けばいいのか、何をすればいいのか、何も分からないまま立ち尽くしていると、背後から不意に声がかかった。
「迷子みたいな顔してんな」
肩が跳ねた。振り返ると、赤い髪の男が腕を組んだまま立っていた。ツンツンと逆立った赤髪、目の下の雫模様、緑色の眼がこちらを見ている。
「部屋、案内してやるよ。ついてきな」
ぶっきらぼうだったけれど、今まで聞いた声の中では一番普通の温度だった。エマは「あ……はい」と小さく返事をして、その背中を追った。
通された部屋は、天井が高くて大きな窓がひとつある簡素な部屋だった。ベッドと机と椅子だけで、他には何もない。窓の外には暗い空が広がっている。
「何かあれば誰かに聞け」
赤髪の男はそれだけ言って扉を閉めた。
エマはベッドの縁に腰を下ろして、ゆっくりと息を吐いた。鞄を床に下ろして、背中を丸める。窓の外の見知らぬ空、静かすぎる部屋、白い壁。何がなんだか分からないまま今日は終わろうとしていて、でも頭は妙に冷えていた。
——とりあえず、荷物を確認しよう。
中身が無事かくらいは確かめておかないと、と思って床に下ろした鞄へ手を伸ばした。座ったまま少し身を屈めるような体勢になったその時、視界の端に何かがさらりと流れてきた。
髪、だ。でも色がおかしい。
手が止まった。
一房を掴んで目の前に引き寄せると、そこにあったのは蜂蜜みたいな淡いオレンジ色だった。エマの黒い髪じゃない。
鞄を放り出して床に座り込み、ポーチを引っ張り出して手鏡を開く。自分の顔を映すと、顔のつくりは変わっていないのに黒かったはずの髪が淡いオレンジになっていて、瞳の色まで——透き通った空色になっていた。
「……え? ちょっと待って、なんで」
鏡と髪を何度も見比べて、頬を両手で挟んでもう一度確かめて。全部本物で、全部今のエマで、でも全部知らない色だった。さっきまでの冷静さが崩れて、鏡を持ったまま床にへたり込む。
「なんで髪の色が……っ」
扉の向こうに誰かが居るかもしれないことも忘れて、声が漏れた。
廊下では、赤髪の男——アクセルが壁に背を預けて腕を組んでいた。
扉の向こうから微かに慌てた気配が伝わってきて、何かに気付いたんだろうと目を細める。中で何が起きているかまでは知らないし、知る必要もない。
「アクセル」
廊下の奥から足音が近付いてきて、振り向くとサイクスがいた。眉間の傷、金色の眼、無駄のない足取り。
「その娘から目を離すな。ゼムナス様のご命令だ」
「監視ってことね。了解」
「余計なことはするな」
言い置いて、サイクスは踵を返した。足音が遠ざかり、廊下に静寂が戻る。
アクセルは視線を扉に戻して、また壁にもたれた。扉の向こうはしばらく静かで、それからまた微かに物音がした。
頬に、手のひらに、じわりと滲んでくる底冷えのような感触で、エマはゆっくりと意識を浮かび上がらせた。目を開けると濡れたアスファルトが視界いっぱいに広がっていて、雨が降ったのか地面はうっすら湿っていた。座り込んだ制服の膝がしっとりと冷たい。体の芯まで冷えきっていることに、遅れて気付く。
顔を上げると、見知らぬ街並みが広がっていた。
背の高いビルが隙間なく立ち並んで、毒々しいネオンや窓から漏れる光が夜の地面を不規則に照らしている。明るいのに人の気配が一切しない、声も足音も何も聞こえない、奇妙に静まり返った場所だった。どこか作り物めいた、薄ら寒い静けさがある。
地面に座り込んだまま、エマはぐるりと辺りを見渡した。
その時だった。
背後の空気が、変わった。
音も気配もなかった。それなのに首の後ろから背骨を辿るように何かが這い上がってくるような感覚があって、全身の毛が逆立つ。言葉にならないその圧は、ただそこに立っているだけの人間が持てるものじゃなかった。逃げろと叫ぶより先に体が強張って、息が詰まる。
「何者だ」
低く静かな声が、真後ろから落ちてきた。
「っ——エマです、わたしエマって言います!」
慌てて名前を告げると、背後の圧がわずかに変化した。消えはしない、ただ少し、間が生まれた。
「どうやってここへ来た」
「帰り道で……学校からの帰りで、知らない道に入ったら扉があって、開けたら気付いたらここに居て——」
自分でも支離滅裂だと分かりながら、正直に言える事だけを並べた。嘘をつく余裕なんてなかった。
しばらく沈黙があった。
「付いてこい」
選択肢を渡す気がない、有無を言わせない口調だった。エマは慌てて立ち上がり、濡れた膝を手で払って声の主の方を向く。
長い白銀の髪、黒いコート、金色の瞳。振り返りもせず歩き出したその背中を、エマは半ば駆け足で追いかけた。
——逃げたい、とは思う。
でも逃げた先に何があるかも分からないし、今の自分には帰る手段も居場所も何もない。だったら付いていく方がまだましだ。そういう結論が、怖い気持ちより少しだけ早く出てきた。
連れて行かれた先にあったのは、城だった。
遠目から異様な存在感があって、近付くほどにその印象は強くなっていく。不規則な形の塔がいくつも連なる白い外壁は清潔感があるのに温度がない。人が住んでいる場所の匂いがしない。綺麗なのにどこか剥製に似た不気味さがある建物だった。
男は振り返らない。白い廊下を歩くのが速くて、エマは小走りで背中を追い続ける。とにかく何がなんだか分からない、怖い、でも立ち止まっても何も変わらない——そのふたつが頭の中でぐるぐる回ったまま、気付いたら大きな扉の前に出ていた。
男が扉を開けて中に入り、エマも続いた。
広い部屋だった。中央に円形の台があって——と最初は思った。でも視界に入ってきた細長い構造物を目で追って、思わず見上げると。
椅子だった。天井に届きそうなほど高い台座の上に据えられた椅子が、円を描くように部屋を取り囲んでいて、その全てに黒いコートを纏った人間が座っていた。フードを深く被って顔の見えない者、顔を出したままこちらを見下ろしている者、思い思いの姿でエマを見ている。
全員が、見ていた。
圧に足がすくんで、エマは反射的に背後を振り返った。
男がいない。
さっきまで隣を歩いていたはずの白銀の男が、いつの間にか上にいた。椅子のひとつに収まって、金色の瞳をこちらへ静かに向けている。
「……え、いつの間に」
呆然と口から漏れた言葉に、誰も答えなかった。
「今宵、城の外に異質な気配があった」
ゼムナスの声が部屋に静かに広がった。
「確認に向かうと、この娘が倒れていた。我々の世界の者ではない——それはすぐに分かった。纏う気配が、根本から異なる」
金色の瞳が一瞬だけエマを捉えて、また前へ向く。
「どこから来たのかは不明だ。ただ容易く辿り着けるはずのない場所に突然現れた、それだけでこの娘には調べる価値がある。しばらくここで預かる——部屋を与えろ」
それだけだった。反論を待つ間もなく、ゼムナスの傍らに暗い裂け目が生まれる。ゼムナスはそこへ静かに歩み入って——跡形もなく、消えた。
エマはその場所をしばらく見つめたまま、動けなかった。さっきまで確かにそこにいたのに、煙のように消えてしまった。ここはどこで、あの人たちは何者で、自分はこれからどうなるのか——頭の中で問いがぐるぐると回って、でもひとつも答えが出てこない。
それを合図にするように、機関員たちが動き始めた。
最初から興味がなかったように無言で回廊へ消える者、腕を組んだまま一瞥だけくれてそれきり立ち上がる者。エマの方をちらりと見て何かを言いかけて、やめて消える者もいた。誰もエマに直接声をかけようとはしない。
「こんな子をここに置いていくの」
上から声が降ってきた。金髪をオールバックに流した女が口を尖らせてこちらを見下ろしていて、不満をそのまま空気に放るような言い方だった。エマに向けているのか独り言なのか、判断がつかない。
「俺は歓迎するけどな~」
茶寄りの金髪の男がへらりと笑いながら回廊へ消えていく。その軽さにどう反応すればいいかも分からなくて、エマはただ目で追うことしかできなかった。
1人、また1人と回廊に消えていく。部屋がどんどん静かになるにつれて、取り残されていく感覚が膨らんでいく。どこへ行けばいいのか、何をすればいいのか、何も分からないまま立ち尽くしていると、背後から不意に声がかかった。
「迷子みたいな顔してんな」
肩が跳ねた。振り返ると、赤い髪の男が腕を組んだまま立っていた。ツンツンと逆立った赤髪、目の下の雫模様、緑色の眼がこちらを見ている。
「部屋、案内してやるよ。ついてきな」
ぶっきらぼうだったけれど、今まで聞いた声の中では一番普通の温度だった。エマは「あ……はい」と小さく返事をして、その背中を追った。
通された部屋は、天井が高くて大きな窓がひとつある簡素な部屋だった。ベッドと机と椅子だけで、他には何もない。窓の外には暗い空が広がっている。
「何かあれば誰かに聞け」
赤髪の男はそれだけ言って扉を閉めた。
エマはベッドの縁に腰を下ろして、ゆっくりと息を吐いた。鞄を床に下ろして、背中を丸める。窓の外の見知らぬ空、静かすぎる部屋、白い壁。何がなんだか分からないまま今日は終わろうとしていて、でも頭は妙に冷えていた。
——とりあえず、荷物を確認しよう。
中身が無事かくらいは確かめておかないと、と思って床に下ろした鞄へ手を伸ばした。座ったまま少し身を屈めるような体勢になったその時、視界の端に何かがさらりと流れてきた。
髪、だ。でも色がおかしい。
手が止まった。
一房を掴んで目の前に引き寄せると、そこにあったのは蜂蜜みたいな淡いオレンジ色だった。エマの黒い髪じゃない。
鞄を放り出して床に座り込み、ポーチを引っ張り出して手鏡を開く。自分の顔を映すと、顔のつくりは変わっていないのに黒かったはずの髪が淡いオレンジになっていて、瞳の色まで——透き通った空色になっていた。
「……え? ちょっと待って、なんで」
鏡と髪を何度も見比べて、頬を両手で挟んでもう一度確かめて。全部本物で、全部今のエマで、でも全部知らない色だった。さっきまでの冷静さが崩れて、鏡を持ったまま床にへたり込む。
「なんで髪の色が……っ」
扉の向こうに誰かが居るかもしれないことも忘れて、声が漏れた。
廊下では、赤髪の男——アクセルが壁に背を預けて腕を組んでいた。
扉の向こうから微かに慌てた気配が伝わってきて、何かに気付いたんだろうと目を細める。中で何が起きているかまでは知らないし、知る必要もない。
「アクセル」
廊下の奥から足音が近付いてきて、振り向くとサイクスがいた。眉間の傷、金色の眼、無駄のない足取り。
「その娘から目を離すな。ゼムナス様のご命令だ」
「監視ってことね。了解」
「余計なことはするな」
言い置いて、サイクスは踵を返した。足音が遠ざかり、廊下に静寂が戻る。
アクセルは視線を扉に戻して、また壁にもたれた。扉の向こうはしばらく静かで、それからまた微かに物音がした。
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