地下の話

 カツカツと単調な音が響く。足音のしない俺とは真逆に異様な存在感を放つそれは、どう足掻いてもまともな人間ではなかった。地下一階から直接最下層を繋ぐこの階段を俺と男は無言で歩いている。
 恐らく地下三階に指し当たっただろう場所でふいに足を止める。目の前を歩く男はそれに気付くでもなく相も変わらず単調な音を鳴らしている。俺が五年間過ごした場所だ。壁越しに伝わる殺気と歪みが胸を打ってやっとそれで、俺の心臓は動いているような気すらする。
「どうしたの」
 暫く先を歩いていた男は振り返ったらしい。薄暗く顔色は伺えないが、不思議そうな声音で問うた。
「何でもない」
 そのまま歩き始めた俺に男は溜め息を吐いてそう、と返した。

 足を進めること数分、ひとつの扉を前に二人は立ち尽くす。男が声を発さなければ俺も口を開かない。気まずいとすら思った。男と俺はどんな関係だっただろうか。
「華虞」
 日本人の発音で名前を紡ぐ。男の生まれ育ちは中国だのに、日本語の方が馴染みがあると知ったのは丁度一月前。
 視線だけで用件を促すが、それでは足りないと言うように口の端を上げた。
「何だよ、黎舜」
「ここの人間は死んで当然なんだよ。人間のくせに人間の売買をしてるし、地下層っていう掃き溜めで不必要なほど金を持ってる。おかしいよね。追われて地下に逃げ込んだはずなのに、人並み以上の生活を送れてるんだ。三階より、ここの方が住み悪くなきゃいけないんだよ。華虞も思った事ない?何でそんな事があるんだろうって」
 一気に捲し上げるとYES以外を返せないような威圧感を放つ。そんなに非道だろうか、三階という場所は。スリとクスリと殺人と、あと合成獣と。確かに言い尽くせない悪事が滞る場所ではあったが、人身売買より非道とは思えない。それが何よりの治安の悪さに思えたし、そう疑わなかった。
「俺は最下層では生きていけない」
 言葉の意味を理解できない男ではない。つまらないといった顔をしたがすぐ笑顔を張り付け乾いて笑い始めた。
 最下層が住みよいなんて、最下層の人間しか思わない。いくら殺しと窃盗を繰り返した俺でも、足を踏み入れたいと思った事はない。つまりは男は生まれこそ知らないものの、ずっと最下層で育ってきたのだ。その事実を叩き付けて俺は無言で扉を開く。
「だって三階は、」
 笑顔を張り付けたまま不貞腐れた口調で、否殺気を隠しもせずぽつりぽつりと漏らす。この感じは嫌いじゃないが、この男はどうにも恐怖を抱かせる。
「通ると物を盗まれるし
 平気で命も狙われる」
「…」
 確かにその通りだ。三階の住民同士日々戦争、外部からの来訪者は格好の餌。最下層から這い上がってきた人間も被害に遭う。最下層の人間からしてみたら治安も最悪かも知れない。
 すーっと人間の心も体も腐った臭いが鼻孔に広がる。もう吸い慣れた、嫌な吐き気を彷彿とさせる臭いだ。
「妹がよく最下層の人間に拐われそうになった」
 月経がくる前から体を売った妹。地下層での生活が祟って病院での生活を余儀なくされている。拐って、それを当たり前のように商品として並べる根性。俺には分からない。
「人間の売買は嫌い」
 男の言葉と同時に真剣な、訴えかけるような眼。はと想像していた人間像と少し違うのかも知れないと気が付いた。
「一緒なら、手を」
 有無を言わさない眼。狂喜。
「ここをいずれ一掃する」
 自然と手が触れる。手を取らせた黎舜と、手を取った俺。関係は明確に成り立った。これから俺は黎舜の共犯者だ。
「会わせたい人が居る」
 打って変わった嬉しそうな笑顔で、悪魔は俺の手を引いた。

 最下層は地獄に成りうるか。
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