このサイトは1ヶ月 (30日) 以上ログインされていません。 サイト管理者の方はこちらからログインすると、この広告を消すことができます。

織田作先生の備忘録




 見慣れた酒場には聞き慣れた音楽が流れていた。色褪せた照明に似合う、くぐもった金管楽器が奏でている音楽だ。それを聞きながら、私はグラスの中の氷を見つめていた。丸い氷だ。琥珀色の液体の中でぷかりと頭を覗かせている。

「そうだ安吾、一つ言いたいことがあったのだよ」

 ふと太宰がその指で手元のグラスの側面を叩いた。軽やかな衝撃音は宙を揺蕩たゆたう金管楽器の音楽に溶け込んで、打楽器のように旋律メロディを装飾する。

「何です?」
「この間、君に連絡しただろう? すぐに来て欲しいって。なのに君は『仕事があるので』って断ってきてさ」

 太宰が不満を露わにした口調で「寂しかったのだよ?」と呟く。それに対し、安吾は呆れたように眉を潜めた。

「ああ、あの件ですか。当然でしょう、聞く限り仕事を優先しても構わない事態でしたから」
「私の一世一代の大一番だったのだよ? それなのに仕事を優先するだなんて……君は私を何だと思っているんだ」
「自殺を試み続ける友人ですかね」
「大正解!」

 わかってるじゃないか、と太宰はやはり不満そうに唇を尖らせる。

「織田作は来てくれたのに」
「……ああ、あの時の話か」

 何の話かと思っていたが、ようやく思い至ることができた。あれは――いつの話だっただろうか。日中に太宰から連絡が来たのだ。嬉々とした声だったのを覚えている。

「やっと完全自殺が決行できそうだったというのに……この数年の集大成を是非君達に見て欲しかったのだよ」
「『とても良い首吊りの縄が手に入った、これは私への全宇宙からの贈呈品プレゼントに違いない、是非私の自殺を見に来ておくれ』などと仕事中に電話が来たら、普通断りますよ」
「ええー……けち」
「ケチかどうかはさて置いて、織田作さんはあれに応じたんです?」

 安吾が信じられないとばかりの顔をしながら私を見遣ってくる。私は頷いた。

「来いと言われたからな。ちょうど用事もなかった」
「国木田君や敦君にも電話したのに、国木田君に至っては『そこにいるのなら今すぐ南西五百メートル先へ行け、暴徒が二輪車バイクを走らせて近所迷惑を起こしていると通報があったから解決して来い』って言ってきたのだよ? 私は今それどころではないというのに。全く空気が読めないよねえ。眼鏡を買い替えるべきだよ」
「それは逆に空気が読めていたのでは」
「むう」

 安吾の一言に太宰は頬を膨らませた。カウンターの上に両肘をつき、両の頬をその手で包むように頬杖をつく。

「敦君も『今から乱歩さんと出るので』って断ってきてさ。まあ確かに乱歩さんの御用なら何よりも優先しなければいけないのだろうけれど、さすがに酷いだろう? 私の! 人生全てをかけた一瞬が! そこにあったというのに! ちなみにうずまきの女給さんに連絡したら『生命保険はどうしましたか?』ってさ。なんだか興が冷めてしまったから織田作と近くのゲーセンでダーツをしてから帰った」
「仕事には向かわなかったんですね……というかあなたはなぜお得意先とはいえ他所よその従業員の連絡先を知っているんですか」
「ふふふ」

 太宰はにやにやと笑った。相変わらず楽しそうな奴だ。対して安吾は何度目かもわからないため息をついて水を飲んだ。

「織田作さんも織田作さんですよ。太宰君のその手の話に逐一付き合っていたらキリがありません」
「だが『一世一代の』だとか『人生をかけた』だとか言われたら見てやらないのは悪い気がする」
「言葉通りに受け取るのはあなたらしいですが……」

 安吾は再びため息をついた。

「太宰君については特に、その手の言葉は文字通りに受け取らなくても大丈夫ですよ。彼はそこまでの全力を尽くさずとも目的を達成できる類の人間ですから」
「ええー、それ褒めてるの貶してるの?」
「お好きなように」
「酷いなあ」

 太宰が笑う。言葉とは裏腹に、彼は心底楽しそうだった。私が見たことのない類の、少年じみた顔つきだった。

「私だって人生を賭けたりする時はあるさ。それほどの価値があるものに出会えていないだけで」
「そうなんです?」
「そうさ。例えば、そうだね――」

 ふと、その横顔が薄く笑んだ。

大切な友人の叶わなかった願いが叶えられる世界に行けたのなら・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・、私は人生を賭けていたと思うよ」

 その顔は先程までの明るいものではなかった。幼い頃の思い出を語っているかのような顔だった。何かを思い出し、それに追従するあらゆる出来事を懐かしく感じている顔だった。
 この男は今、何を思い出しているのだろう。
 私がそれを考えるより先に、太宰はパッと顔を上げて安吾を見遣った。私にはその後頭部しか見えなくなった。

「そうだ安吾、安吾もそういったことをしてみると良い、そうしたら私がいつも全力で自殺を試みていることが理解できるはずだ」
「理解したくもありません。今度は何ですか。死臭は嫌ですからね」
「そんな昔の話を引き出してくるなんて、それは『是非やってくれ』という意思表示かい?」
「違います!」
「なあんだ、そうなの。――じゃあさ、安吾、写真機カメラある?」
写真機カメラ?」

 きょとんと安吾の顔から警戒が消えた。そして、何かを思い起こすように目を細めて、穏やかに――けれどどこか寂しげに――笑んだ。

「……ええ、ありますよ」

「じゃあ撮影会の開始だ。全力、全身全霊でね。織田作、安吾から写真機カメラ受け取って」
「わかった」

 私はスツールから立ち上がって安吾から写真機カメラを受け取った。見覚えのある、黒い塗装がところどころ剥がれたフィルム感光型写真機カメラだった。
 そういえば前にも、こうして安吾の写真機カメラで互いを撮り合った気がする。あの時はなぜ写真などというものを撮ったのだったか。

 ――そうだ、写真を撮ろうよ。

 あれは、そう、太宰が突然言い出したのだ。理由も聞いた。確か、あの時の太宰は。

「安吾のことだからいつものドリンク剤も持っているのだろう? それで広告風にしてみてよ」
「何ですかそれは」
「『このドリンク効きます! 私は三徹目です!』みたいな感じにさ。こう、キリッとした顔で掲げ持って、ラベルをこっちに向けて」
「あなたは何を撮りたいんですか! それにまだ二徹目です!」
「二徹も三徹も大して変わらないじゃない」
「違いますよ全然。頭痛も目眩も吐き気も違います。三徹目になると眠気がなくなりますし」
「そういう話は不都合的マイナス印象イメージだからなしで。ほらほら、私に勧める感じで。織田作こっちから撮ってよ。二人入るようにすればそれらしいんじゃないかな」

 安吾の立ち位置を調整し終わった太宰が手招きしてくる。私はそれに従って太宰の横で写真機カメラを構えた。覗き込んだ先で、太宰がテレビ通販の説明者アナウンサーのように驚いた顔をし、それへと安吾が困り顔で未開封の小瓶を向けている。目の下の隈がさらに暗く見えた。
 撮影ボタンを押す。カシャ、という音が手の中から鳴る。

「良いねえ、私もドリンク剤宣伝したくなってきた」
「太宰君がやってもただの記念写真じゃないですか。今の太宰君は世界一ドリンク剤が似合いませんよ」
「何をう。私はいつだって世の中の全てが世界一似合う男だよ? あ、じゃあ織田作、織田作これ持ってみてよ」

 私が口を挟むより先に太宰がドリンク剤を押し付けてきた。写真機カメラはいつの間にか太宰の手に渡っている。持ってみろ、と言われてもどうすれば良いのかわからない。何も思いつかないまま、手の中の小瓶の側面を眺めた。黒いラベルに刺々しく描かれた稲妻の絵。かなり効きそうなドリンク剤だ。

「うーん、織田作はそういうの似合うよねえ」

 パシャ、とあの軽い音が聞こえてきた。見れば、太宰が満足そうに写真機カメラから顔を離していた。

「自然体っていうのかな、気取らない感じ。良い写真が撮れたよ」
「俺は何もしていないが」
「それが良いのだよ、織田作は」

 太宰の笑顔は欲しがっていたものをようやく手にした子供のようだった。

「織田作はいつもそうだからね。全てを当然にこなしてしまう。それによる利益だとか、そういうことも考えずにいと思ったことをしてしまう。だから信じてみようという気になる」
「……持ち上げすぎだ。俺はそんな人間じゃない」
「ふふ、織田作にはわからないかもしれないけれどもね」

 私が手渡したドリンク剤を安吾が受け取ろうとする。その瞬間、太宰が「そのままじっとしてて」と写真機カメラを構えたので、私達はドリンク剤を手渡す格好のまま立ち竦むことになった。パシャ、と掠れた音が聞こえてくる。安吾が「変な写真ばかりじゃないですか」と眉を下げて笑った。

「それが良いのさ」

 太宰が言う。

「私達が普通の日々を過ごしたという証明さ」

 太宰の言葉は時に意味深で理解が追いつかない。けれど無意味ではないことを、私は知っていた。
 だから私は答える。

「そうか」

 短く、その一人の男の寂しげな笑みに、頷く。
 安吾が写真機カメラを受け取って私と太宰に近付くようにと指示を出してくる。すると太宰は「普通に撮るのじゃつまらないから」と私の肩口へ頭を寄せて顔の前でピースサインをかざした。「女子高生ですかあなたは」と呆れる安吾に「じゃあおまけにウインクもしてあげよう」と太宰が答える。太宰にせっつかれ、私も二本指を軽く掲げた。

「ふふ、良いねえ」

 カシャ、という音を聞くや否や太宰は私から体を離して一人笑う。

「まるで、普通の――普通の日々のようだ」

 太宰の言葉の意味はわからない。けれど私は「そうか」と肯定に近い言葉を返した。安吾の元へと太宰が駆け寄る。安吾が「一体何の撮影会ですかこれは」と苦笑する。「良いから良いから」と太宰が写真機カメラを手にし、私を安吾の横へと呼んだ。その様子を、私は眺めていた。
 この少年じみた青年と大人びた青年が心底楽しそうならばそれで良い、と安堵に似た心地でそう思っていた。
8/12ページ
拍手!