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織田作先生の備忘録




 ふと、思うことがある。
 それは考えても仕方のないことだ。考えたところでどうにもならないことだ。けれど、何をきっかけにするでもなく唐突に、私はそれを思ってしまう。
 もしも、と。
 もしもあの時、違う言葉が言えたのなら。違う行いができたのなら。
 そうしたら、未来は、今は、どのような様相となっていただろうか。

「失せろ」

 数秒前に目が合ってしまった黒い眼差しは、その鋭さをさらに研ぎ澄ませて私に吐き捨ててきた。

「貴様に用はない。失せろ。そして二度とやつがれの前に顔を見せるな」
「俺もお前に用があったわけじゃない」

 親指を横に突き出して、私は今ほど出てきたばかりの洗濯店クリーニングを指した。

「ここに用があっただけだ。お前もそうだろう」

 黒一色と言うには肌の白さが目立つ彼は、機嫌の悪さを見せつけるかのように顔を背けた。その手には大きめの風呂敷。中に衣服が入っていることは容易に想像がつく。風呂敷の柄が可愛らしい小花模様なのは同居しているという妹のものだからなのだろう。そんな話を太宰から聞いたことがある。

「……確かに、そうだな」

 私は一人頷いてしまった。それを見逃すこともなく、芥川はぎろりとその眼差しで私を切り裂かんとばかりに睨み付けてくる。

「何だ」
「大したことじゃない」
「言え。言わねば殺す」
「短気にもほどがあるだろう。……お前がそういったものを持っていると何とも言えなくなるという話だ。いくらお前とはいえ少しは可愛らしく見えるものだろうとその時は言ったが……」

 再び、その全身を眺め見る。黒い外套、殺意そのものと言わんばかりの獣のような顔立ち――ポートマフィアの遊撃隊長になったとは聞いていたが、気迫は以前会った時よりもさらに洗練されている。出会う者全てを敵と見定めていた荒々しさはそのままに、しかし相手を静観し一撃で仕留めようとするかのようなそれは荒れ野の肉食獣よりも猛禽類のものに近くなっている。
 そしてその手に握られた、花柄の風呂敷。

「……何と言えば良いのか確かに困るな、これは」
「……殺す」
「短気にもほどがあるだろう」
「貴様も人のことが言える立場ではあるまい」

 芥川が私の手元を見遣る。ああ、と私はそれを持ち上げた。
 簡略化された電車達や兎のキャラクターが点々と描かれた、子供用の手提げ布鞄が数個。

「子供達の服を入れてきたからな。もうすぐ衣替えの時期だからと施設の職員に頼まれた」
「ふん、殺しすらできぬままマフィアから姿を消した貴様には似合いの代物だな」
「そうか、それは良かった」
「……褒めたつもりはない」
「そうか」

 芥川はやはり素っ気なく目を逸らした。一瞬、何と言えば良いのかわからないとばかりの沈黙を向けられた気がしたが、気のせいだろうか。

「今し方出てきたということは用は済んだのだろう。ならば去れ。貴様と話すことは何一つない」

 芥川がくるりと身を翻して洗濯店クリーニングに入ろうとする。彼と顔を合わせた回数はかなり少ない。一度か、その程度だ。けれど彼は私のことを一目見るなり威嚇じみた警告を発してきた。私のことを覚えていたらしい。それがどうにも意外だった。

「最近仕事の方はどうだ」

 そう話しかけてしまったのは私のことを記憶していたという事実があったからだろう。互いに互いを覚えていたほどの関係だったのなら「現在の相手の様子が気になった」というのも無理のない言い訳にできる。だがその黒い眼差しが刃のように私を射竦めてきた瞬間、余計な一言だったのかもしれないとようやく思い至った。

「貴様に話すことは何一つない。そう宣告したはずだが」
「そうだったな」
「理解したのなら早急に立ち去れ。……貴様に何を話したところでやつがれの功績になるわけでもない。あの人に伝わらねば……あの人が認めねば、この程度……何にもならぬ」

 視線は既に逸らされている。けれど、その顔に殺意とは違うものが浮かんだのを、私は見ていた。
 それは懐古に似ていた。郷愁とも思えた。悔恨に近く、悲嘆を被っていた。けれど諦念は欠片も含まれていなかった。強く、真っ直ぐに、けれど脆さを微かに匂わせる――いつか枯れゆくはずの花が数年咲き続けているのを見ている気分だった。
 それと似たものを、見たことがある。
 あの時。
 彼と初めて顔を合わせた時――そうだ、あれは確か太宰がマフィアを抜ける前、海外から訪れた組織との抗争の最中、私は美術館での戦いで生き残っていた芥川を担ぎ出した。芥川は満身創痍の中私へ黒衣の異能で攻撃してきた。怪我よりも敵よりも優先すべき激昂がそこにはあった。

 ――なぜ太宰さんはやつがれを……!

 そうだ、と思い出す。あの時も彼は太宰の名を口にした。太宰の友人を名乗った最下級構成員へ、芥川は怒りを露わにした。
 太宰治。ポートマフィアの最年少幹部として闇に君臨していた少年。今は探偵社で市民を手助けしている陽気な自殺志願者。
 かなり様変わりした太宰の背を、その曲がりない思いは追い続けている。今もそうなのだ。他へ目を向ける余裕すら持たないほどの、一途な願望。

「……太宰は、お前の活躍を知っている」

 言えば芥川はやはり私を睨み付けてきた。貴様が代弁などしてくれるな――そう言いたいのだろう。彼に必要なのはあいつからの直接の言葉なのだろうから。
 それでも、私は。
 あの時言ってやれなかった言葉を、仮に伝えられたのなら、と。
 考えたところでどうしようもないもしもを、今ここで叶えようとしている。

「……あいつはお前を見ている。だから、お前もお前自身を見てやれ」
五月蝿うるさい。貴様に何がわかる」
「何もわからない。だが、そうだな、俺が口出しすることではない気もするが」

 私は芥川から洗濯店クリーニングへと視線を移した。服が並んだ店内をガラス越しに見つめる。白い蛍光灯に照らされた白いワイシャツの群れを見つめる。
 あの日々にもあったはずの、白というその色を見つめる。

「……行く先がわかるというのは良いものだ。迷うことがない。だがそればかりを追うな、芥川。辿り着いた先に新しい目標があったのなら良い、だが仮にその先に何もなかった場合、俺達は見失った願いを前に立ち竦むことしかできなくなる」

 私の目は店内を見ていなかった。脳裏に浮かんでいるのは見慣れた顔だ。子供達の、安吾の、太宰の。
 ――酷く懐かしい心地がするのはなぜだろうか。

「お前を理解できるのはお前だけだ、芥川。だからせめて、お前だけでもお前自身を見てやってくれ。でなければ」

 そこまで言い、私は口を噤んだ。何を言おうとしていたのか、自分でもわからなかった。
 でなければ、何だろうか。
 何かを一途に追ってしまったが故に行く先を見失った誰かを、私は知っているのだろうか。
 知っている気がした。けれどそれが誰だったのか、そこまでは思い出せなかった。

「……奇妙なことを言う」

 ふと声が聞こえてきた。硬質なそれは、私のものではなかった。

やつがれやつがれを既に見知っている」

 芥川だった。彼もまた、洗濯店クリーニングの中の白色をその黒い目に映しながら――けれどそれではない何かを見つめながら――ゆっくりと口を開いた。

「嫌というほどにな。奴を憎む心もやつがれのもの、あの人を追う心もやつがれのもの。であればこそ、やつがれは己の思うがままに突き進む。いつか奴を殺し、それ以上の戦果を得、あの人に認められるまで。……やつがれはあの人の友ではない。今や部下でもなく、あの人にとっては敵ですらないだろう。やつがれは何者でもない。けれどだからこそ、それらではない何かに……名もなき何かにやつがれはなることができる。そのためにやつがれは突き進む。どこまでも、この先が地獄であろうと」

 芥川が私を見据える。焦点の合ったそれは、確かに私を見ていた。そして、そこに憎しみはなかった。ただ真っ直ぐな眼差しが私へと向けられている。
 黒衣が風に翻る。昼間の日光が差し込んでくる。路面が光を反射し、黒色を照らし出す。
 昼の日差しの中に佇む、消えぬ闇。
 眩しく思えるのはなぜだろうか。

「何者にも邪魔はさせぬ。あの人がやつがれを認める前に死すことも許さぬ。そして仮にあの人を誰かが殺めたとしても、もしくはあの人が自ら死したとしても、やつがれはあの人に認められるまで進み続ける」
「……滅茶苦茶だな」
「構わぬ。それがやつがれの唯一の願い、唯一の未来。やつがれやつがれであるが故の選択、己が己を理解しているがゆえの結末。他者がやつがれを間違っていると指摘してきたとて、この思考をも含めて全てがやつがれそのもの、正すつもりはない。――貴様はどうだ、織田とやら」

 芥川の黒い目に私の姿が映る。日光に照らされた私の姿が――明瞭に、映り込む。

「貴様は貴様自身を解し、己の結末を選び取ったのか」

 私が、私自身を。
 己の結末を。
 何のことを言われているのか戸惑ったが、何のことについて答えれば良いのかは何故かわかっていた。

「……どうだろうな」

 私は思った通りに答えた。

「だが、後悔はしていない」

 芥川に比べれば、私には確かなものがない。曖昧でその場限りの考えなしだ。馬鹿にされるだろうか、「やはり貴様にはあの人の友は相応しくない」と貶されるだろうか。どれでも良い、これが私の答えなのだから。
 芥川と同じく、これら全てが私という一人の人間なのだから。

「ならば良し」

 芥川は改めて私から顔を逸らして洗濯店クリーニングへと向かっていった。ウィン、と自動ドアが開いて芥川を迎え入れる。その背を、私は見送った。

「……そうか」

 自動ドアが閉まる。薄壁が私と芥川をへだてる。ガラス越しの黒衣の背を見つめる私の姿が透明なそれに鏡映しになっていた。
 その顔は驚いているようにも見え、しかしやはり一人の男の真顔でしかなかった。
 見慣れた私の顔だった。

「そうか」

 私は再度呟いた。そして、ガラス戸に映った自分から目を逸らして、手にしていた子供達の衣服を持ち直して、日光が差し込む路上を歩き出した。
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