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織田作先生の備忘録




 コトンと空になったグラスをカウンターに置き、「そういえば」と安吾が切り出した。

「太宰君、最近の仕事はどうですか?」
「なあに突然。私の様子を聞き出そうとしたのもそうだけれど、その訊き方も安吾らしくないじゃないか」

 安吾の突然かつ曖昧な問いかけに驚いたのは私だけではなかったらしい、太宰は安吾を見遣りながらのんびりと、しかし少しばかり声を上擦らせて言った。安吾はというと「別段怪しい理由はありませんが」と前置きし、置いたばかりのグラスを握りながら続ける。

「種田長官があなたのことを気にしていたので。長官が太宰君を探偵社に送り込んだという形になっているのですから、一応気にしてはいるのでしょう」
「種田長官?」
「僕の上司ですよ」

 私の呟きに安吾は簡潔に答えてくれた。安吾の上司ということはつまり、特務課の上層部の人間か。ならばポートマフィア最下級構成員でしかなかった私がその名を知らないのもおかしくはない。
 続きを促すつもりで沈黙すれば、それを読み取った安吾が私から太宰へと視線を戻した。

「で、どうなんです?」
「どうも何もすこぶる順調だよ」

 当然じゃないか、と太宰は笑った。

「川を流れるのはいつものこと、首吊りもお気に入りの場所が増えてきたし、泥酔した国木田君を知らない人の部屋に置き去りにする手際も良くなってきた。不発弾にしがみついたこともある。順調、すこぶる順調だ。国木田君の件は暇潰しだけれどね。素晴らしい毎日だよ、きっともうすぐ完全自殺が達成できる」

 なるほど、確かに順調そうだ。

「……太宰君が順調と言うから何事かと思いましたが、それを聞いて安心しました」

 安吾は大きくため息をついた。見るからに疲れ切っているようだった。特務課の仕事はやはり大変なのだろうか。そんな安吾に、太宰は身を乗り出して顔を寄せる。

「そう言う安吾はどうだい?」
「僕ですか?」

 予想外だと言わんばかりの声音だった。

「勿論、君の話だ。私一人が話すのではつまらないだろう?」
「太宰君の話は突っ込みによる疲労こそあれつまらないものではないですが……僕も順調ですよ。仕事の量が減れば尚更順調になります」
「なら誰かに任せてしまえば良いのに」
「僕は太宰君ほど他人頼みが上手くないんですよ。それに僕の後輩は仕事を任せ切れるほどの実力をまだ身につけていませんから」

 マスターが安吾のグラスへ手を伸ばし、安吾がそれへ頷く。無言のやり取りの後、マスターの手によって安吾のグラスに水が注がれる。透明なガラスに透明な水、それが柔らかな照明の色を映し出し蒸留酒のような色合いになる。その様子を三人で見つめながら、私達は安吾の話を聞いていた。

「まあまだ新人の領域ですから、そこまで期待はしていません。狙撃などの技術は優秀ですが、特務課のエージェントとしての経験がまだ浅い。今は監視業務を中心にやってもらっていますが監視対象に良いように扱われている節もありますし、悩みの種の一つですよ」
「手厳しいねえ、センパイ」
「そのくらいがちょうど良いというものでしょう。甘やかしすぎても手をかけなすぎてもいけない。新人教育は難しいものです。僕も彼女も器用というわけではありませんから」
「三重間諜スパイをやり切ったというのにご謙遜けんそんだねえ」

 太宰が笑う。その声は言葉のわりに明るかった。しかし安吾の顔は苦々しく歪む。嫌なことを思い出したと言わんばかりだ。

「その話はやめてください。僕が言える立場ではありませんが……」
「まあ確かに。良いよ、話を戻そう。――新人教育、ねえ。私はそんなに難しいとは思わなかったけど、でも」

 太宰がなぜか私を一瞥してくる。何を言おうとしているのかわからないまま、私は太宰のその視線を受け止めた。

「……正しかったかどうかと言われたら、返答に困るかな。私は私にできることをしただけだ、そしてそれが最適な――言い方を変えるなら、最上の結末に結び付くと断言できる――やり方だったとも思う。けれど彼らにとって一番のやり方だったかは、何とも言えないね」
「それが難しいという話ですよ。指導する側が彼らに一個人の理想を押し付けることはできます。けれどそれがあらゆる意味で最良かは私達にもわかりませんし、本人達にもわからないでしょう。未来だけが、答えをくれる」

 未来。
 未来、だけが。
 不思議な言葉だと思った。けれど間違ってはいないと思った。誰かではなくこの先の未来が、現在のやり方が正しいか否かを答えてくれる。未来にならなければ結果がわからないのなら、私達は今、現在、何をどうすれば良いのだろうか。それを今教えてくれる何かはこの世界には存在しない。私達は常に未来の自分達の顔色を窺うかのように現在のやり方を模索している。
 私には太宰ほどの聡明さがない。安吾ほどの知識もきももない。数秒先の出来事が見えるだけだ。その能力を何度も利用し、何度も助けられた。だがそれだけだ。私は数秒先を見ることができるが、数年先を見ることはできない。だからその場その場で思った通りのことをする。そしてそれが正しい選択になるよう、人間一人がどうすることもできない運命という名の巨大な何かに対して影響を与えられているかもわからない小細工を延々と繰り返す。
 未来の顔色など、私にはわかりようもない。
 果たして私が歩んできた現在の先にある未来という時間軸は、私がしてきたことを正しかったと言ってくれるだろうか。

「彼らの未来は私を恨むかもねえ」

 うふふ、と太宰は楽しげに言う。

「そうなっても仕方がないとは思っているけれど」
「そうなのか」
「そうだよ。私はね、織田作。君ほど正しい人間ではないのだよ」

 グラスの中の液体を回しながら、彼はやはり楽しそうに言うのだった。
 そうなのだろうか。確かにこの男はポートマフィアという場所にとてつもなく相応ふさわしい人間だった。闇を統べるために生まれてきたような男だと本気で思っていた。だが今はポートマフィアではない場所にいる、い続けている、い続けられている。その事実は、この太宰治という男が人並みの正しさを持っているという証拠になるのではないだろうか。ただひたすらに暗い水底みなそこを目指していた彼の、変化の証なのではないだろうか。
 だがそれを伝える言葉は見つからなかった。私の中で曖昧なものが漂うばかりで、それらは文字という形をかたどってはくれなかった。

「正しさとは時間を経ないとわからない難しいものですが、それを今すぐ確かめる方法はありますよ」

 私が何を言うよりも先に言葉を紡いだのは安吾の穏やかな声だった。

「周囲を見てみれば良いんです」

 安吾は何かを思い出すように目を細めていた。遠い、遠い記憶を見つめているかのような顔だった。安吾がそういった郷愁じみた表情を浮かべるのは珍しい。安吾にとって過去とは物体全てに宿るものであり、過ぎ去り消えた遺物であり、特別なものではないと思っていたのだが。
 そうでなければ多数の死者の人生録など作れるはずもない。

「僕も特務課の仕事をしている時にわからなくなることがあります。僕達は正しいことをしているのか、この行為は国民の利益になっているのか……特務課は特殊な場所ですからね、悪としか思えないようなことをする時もあります。その行いによって大勢を救い少人数を失うことも多々ある。……迷った時、僕は周囲を見回すんです。僕の行いは正しいものなのだという証拠を、周囲に求めるんです。そして、国民が平穏を享受しているのを見て、ああ大丈夫だと自分に言い聞かせるんです」

 悪い癖ですけどね、と安吾は苦笑した。それは自虐めいていた。

「でも悪い方法ではないと思いますよ。歴史を見ても、部下や同僚が自分から離れていくことに気付かない人間から堕落していきますから。つまり」

 安吾が太宰を見る。安吾の目に、何を言い出すのかと呆然としている太宰が映る。

「太宰君の場合は敦君達を見てみれば良いんです。彼らがあなたの名前を呼んで追ってきてくれる限りは、あなたは正しいんですよ」

 太宰は何も言わなかった。それに気付かない様子で安吾は「僕の場合は辻村君ですが……彼女は僕が何かを間違ったらすぐさま口に出してくれそうですね」と苦笑を再び浮かべて独り言を続ける。それを、私は横から眺めていた。
 太宰には同僚がいる。
 安吾にも同僚がいる。
 彼らはもうポートマフィアの構成員ではない。自分の正しさを鏡写しのように示してくれる仲間を、後輩を、隣に得ている。
 それは彼らがポートマフィアにいた頃にはなかったものだった。太宰には直属の部下がいたが、太宰自身が彼をそういった意味では見ていなかっただろう。
 そうか、と思う。

「……二人とも、立派な先輩なんだな」

 不思議な心地だ。年下の知り合いが組織の幹部であるとは違う、不思議な心地だ。隣の家の子供が就職したと聞いた時のような、記憶の中と現実の時間のずれを明確に突きつけられてしまったという戸惑いと感心が、今の私の中にある。
 どうやら二人は私が知る二人よりかなり先の未来にいるらしい。

「嫌だなあ、織田作が一番の先輩じゃない」

 こちらを向いて、からりと太宰が言う。先程までの沈黙はすでにその背から消えていた。

「先輩?」
「人生の先輩」
「人生という意味ではお前達の方が上だろう」
「うーん、それもそうか。元マフィア最年少幹部の探偵社員に三重間諜スパイ経験者の特務課参事官補佐。私達はなかなかの経歴の持ち主だからね」
「だからその話はやめてください」

 安吾が嫌そうに顔をしかめる。太宰は愉快と言わんばかりに声を上げて笑った。安吾の反応具合を楽しんでいるようだ。昔から太宰は同僚を戸惑わせることを勧んでしていたが、その癖は今も残っているらしい。とはいえ、今の太宰は敵の銃口へ歩み寄ってみせるようなやり方はしていないようで、安吾も太宰の楽しげな様子に呆れたように首を振っている。
 二人の様子を、私は静かに眺めていた。
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