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織田作先生の備忘録




 小説を書くということを目指すようになってから、私は人を見るようになった。人と書くとは何か――その答えの一つが、人の動きを書くということだと言われたからだ。私が読み耽ったあの本にも、登場人物達の行動が細かく記録されていた。記録、と言うと違うだろうか。
 記されていた。手の動き、表情の変化、声音、それらが当人の感情を私に伝えてくれた。
 不思議なものだと思う。そこに感情を表す言葉は一切書かれていなくとも、私は彼らの考えていることがどうしてかわかり、そしてその動きを感じることができていた。人を書くとはそういうことなのだろう。小説を書くということはそういうことなのだろう。なので私は今、人を見るようにしている。
 「人を書く」ために書き出すべきもの、それを探している。
 子供達のところへ行く前に、私は近くの菓子屋に顔を出していた。子供達は皆仲が良いが報酬を目の前にするとそうでもなくなる。十分な数を、それも一人一人の配分を考えて買っておかなければいけなかった。生活に困る程ではないが財布は圧迫される、だから普段は菓子を買うようなことはしない。が、今日は少しばかり理由がある。子供達の学校で行われていた試験テスト、それが一通り終わったのを理由にせがまれてしまったのだ。「死ぬ気で頑張った」らしいのだから、死を予見したほどの底知れない努力には相応しい報酬を渡さなければいけない。
 行きつけの菓子屋は昔ながらの店構えをしている。店頭に並んだ色褪せた箱の中に敷き詰められた小包装の菓子、壁にぶら下げられた和紙製の吹き玩具おもちゃにプラスチック製の剣。玩具は増えると私への襲撃がさらに複雑化する、今でさえ手加減に苦労する瞬間があるのだ、今後はあまり買ってやれない代物だなと少しだけ思った。
 ある程度の菓子を買い、紙袋に詰めて店を出る。店を出て、少しばかり息を吐き出す。目の前には昼間の街並みがあった。鼻を突く穏やかな風の匂い、遠くから聞こえて来る車のエンジン音。腕に抱えた紙袋を軽く揺すれば、カサリという音が聞こえてきた。
 不思議なものだ。どこにも、金属が擦れ合う音も血臭も悲鳴も、爆発音も、何も――何もない。
 そんな時、私はなぜかため息をつく。疲れているわけではない。ただ、息を吐き出してしまう。意図的なそれは呼吸とは違う心地で、私の中から緊迫を追い出していく。そうしてようやく、ここが夜ではないことを知る。
 目を刺す光が街頭の光ではないことに、ようやく気付いた気になる。
 奇妙なことだ、私は確かに朝に起きて朝食をり、そして外に出かけている。今が昼以外の何かであるはずがないのだ。なのになぜか私は、息を吐き出すことで今を昼と認識する。

「あ、ここだね」

 ふと声が聞こえてきた。幼い、しかし幼いと言うにはいささか優しげな声音だった。見れば、菓子屋を覗き込む二つの人影がある。一人は白髪の少年だった。前髪が斜めに切り揃えられている。珍しい髪型だ、見たことがない。

「乱歩さんからの覚書メモはある?」
「ある」

 傍らにいた黒髪の和装の少女がどこからか紙切れを取り出し、指先で広げる。おつかいだろうか。弟や妹への、もしくはそれに値する誰かへの買い物だろうか。そう思わせる大人びた様子が彼らにはあった。自分のための菓子を買いに来たという様子ではない。

「急いで買って帰ろうか。今回の事件は乱歩さんの力が必要なものだし」

 少年の言葉に少女が頷く。彼女は物静かな性格のようだ、口数が少ない。私が養っている子供達にはいない類の子だ。だが見慣れないというわけではない。彼女のような、静かで、しかし臆病とは違う、真っ直ぐな眼差しを持つ子供を私は見たことがある。
 二人が菓子屋に入って行く様子を何気なく見送った。見知らぬ子供だという以外に彼らに特筆すべき点はない。けれどなぜか、その姿を見つめていた。

「……あ」

 店の奥で見つけた菓子を籠に入れていた少年が、ふと声を上げる。

「売り切れてる」

 少年の声は途方に暮れていた。なくては困る菓子だったのだろうか。彼らの弟や妹はこだわりが強い性格なのだろう、そういう子供がいることを私は知っている。私自身にはわからないことだが、子供でなくとも人にはこだわりというものがあり、それへの執着具合は好みというものとはまた違うらしい。

「どうするの?」
「うーん、他のお店を回って探すしか……でもそんな時間もないし……国木田さんがうまいこと乱歩さんをなだめてくれてるけど、完全に事件への興味がなくなるまであとどのくらいかなあ……」

 少年の語尾は弱い。
 覗き込むように彼らの視線を辿れば、空になった菓子置き場が目についた。どうやらその菓子が必要だったらしい。そしてそれは、偶然にも私が先程買ってしまった菓子だった。

「少し良いか」

 私は声をかけていた。買ってしまったものならばそれは既に私のものだ、そのまま持ち帰ってしまえば良い。しかし私がそうしないであろうことなど、私が一番知っている。

「……はい?」

 白髪の少年がこちらを見上げて首を傾げる。突然見知らぬ男に声をかけられたのだ、当然の反応だった。少女の方はというと、少年に隠れることなく私を凝視してくる。
 二つの眼差しを受けながら、私は腕の中の紙袋からその菓子を取り出した。

「持っていくか?」
「あ、ねるねるねるねる……」

 商品名を呟いて少年は目を丸くした。そこにあったのか、と言いたげなそれはしかし、すぐさま慌てたものに変わる。大きく両手のひらを私に向けて、彼は「いやいやいや」と首を横に振った。

「悪いですよ、だってそれ、もうあなたが買ったものなんですよね?」
「ああ」
「なら貰うわけには……だって、ほら、あなたも誰かに渡すつもりだったんだろうし、その子に悪いですよ」
「俺は他のを代わりに買う。これでなければいけないというわけではないからな」
「そ、そうなんですか……」

 少年の目がちらりと傍らの少女へと向けられる。彼女はやはり無表情のまま、しかし小さく頷いた。途端、少年の表情が和らぐ。言葉のない会話が交わされたようだった。

「じゃあ、お言葉に甘えて。お代は、ええと」
「いや、必要ない。駄菓子一つだ、大したものじゃない」
「でも……」

 取り出したがま口の財布を持ったまま、少年は眉を下げた。菓子ひとつ程度なら問題はない、私はゆっくりと首を横に振る。こうすれば、洋食屋の親父は観念して私が渡す金を全額受け取ってくれるのだ。しかし少年はというと困った顔で財布を握り締めている。

「……ええと、どうしよう鏡花ちゃん……」

 このまま無料タダで貰うのは申し訳ないし、と少年が呟くように少女に話しかける。少女はというと小首を傾げて「なら」と平然と答えた。

「等価交換」
「と、等価交換?」
「そういう考え方があるとあの場所で教わった。やられたらやり返す、殺されたら殺し返す」
「待って今そういう話してないから!」

 なるほど、と私は目を瞬かせた。

「等価交換というと、この場合は菓子と菓子をということか」
「そう。人や組織、単位が同じなら同じ数だけ返せば良い。お菓子なら同じ個数を」
「理には叶っている。悪くない」
「平然と会話が進んでる……!」

 なぜか慌てている少年を横に、少女は私へとその青い目を向けてきた。

「良い?」

 真っ直ぐな目だ、と思う。見たことのある眼差しだ。ただ一つを信じ、追い、全てを排除してでもそのために突き進もうとする、若く鋭く愚直な。彼の黒いそれは憎悪を交えていたが本質的には似たようなものだろう。迷いはなく、後悔もない。

「ああ」
「なら」

 少女が袖口から何かを取り出す。その小さな手に握られたものを、彼女は手のひらを広げて私に差し出してきた。

「これを」

 透明な袋に包まれた、ビー玉のように透き通った飴玉だった。紫と黄色が渦のように混じり、しかし色を濁すことなく球体に収まっている。

「良いの? 鏡花ちゃん」

 少年が囁く。

「それ、前に買った鏡花ちゃんのお気に入りじゃ……」
「また買えば良い」

 彼女はやはり平然と答えた。無表情ではあるがきっぱりとしている。安吾を思い出したのは、あの切れの良い言葉選びを連想させたからだろうか。

「わかった」

 私は飴玉を指先でつまむように受け取った。そして、彼女のその手のひらの上に対価を置く。

「ありがとうございます」

 少年が律儀に頭を下げてくる。それにならい、少女もまた頭を下げてきた。きちんとしている兄妹きょうだいだ、と私は思う。二人に大切にされている弟か妹はさぞ幸せなことだろう。

「こちらこそ、ありがとう」

 言い、私は店頭から代わりの菓子を一つ手に取った。彼らと共に店内の会計を済ませ、共に外へ出る。

「本当にありがとうございました」

 二人は再び頭を下げてきた。そして、顔を上げた少年が「もしよかったら」とその温和な顔立ちを凛々りりしいものに変えた。

「この先何か困りごとがあったら、是非お手伝いさせてください」
「手伝い?」
「僕達、武装探偵社というところで働いているんです。あ、僕は中島敦です。こっちは泉鏡花ちゃん。名前を言ってもらえれば取り次いでもらえます」

 武装探偵社。
 なんだ、と私は拍子抜けした。そうだったのか。
 二人は、あいつの。

「……わかった。頼りにしている」
「はい!」

 明るい声と共に再度頭を大きく下げた後、二人は両親の元へと戻る幼い兄妹のように背を向けて走り出した。それを見送り、そして私は先程貰った飴玉をポケットから取り出す。袋を破いて中身を取り出し、口に含んだ。

「……美味いな」

 葡萄と檸檬、甘さと酸っぱさが二つ感じられる瑞々みずみずしい果物の味だった。
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