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織田作先生の備忘録




「ねえ織田作、安吾」

 ふと太宰が口を開いたのは、私達の会話の切れ目、私達がそれぞれのグラスへ各々口をつけたその後だった。

「君達に一つ、いてみたいことがあるのだけれど」
「珍しいですね」

 安吾が水をもう一口飲んでから言う。

「太宰君が僕達にそのようなことを言ってくるとは。何か困ったことでも?」
「困っているのはいつもだけれどもね、なかなか心中相手が見つからないし、うずまきの女給じょきゅうさんは口説き落とせないし。――いやね、君達だからこそ訊いてみたいことなのだよ」

 太宰の目の前にコロッケが置かれた。ありがとマスター、とにこやかにカウンターの向こうへと礼を言い、太宰は箸を片手にそれへと目元を緩ませる。

「二人にとって、この街はどんなものかと思ったのだよ」
「この街?」

 私の声に、太宰はこちらへと顔を向けてきた。包帯の巻かれていない眼差しが、光を見通しその裏に潜む闇をも見通してきたかのような眼差しが、私を射竦めてくる。

「そう、このヨコハマという名の街だよ」

 ――私の奥底にいる私を見つめるように、薄く笑いかけてくる。

「関東随一の港町であり、マフィアが蠢く都市でもあるこの街は、君達にとってどんなものなのだろうね」
「何、と名を付けられるものではありませんが……」

 安吾が顎に手を当てて眉をしかめた。

「街ですよ、普通の街です。人がいて経済が根を張る、日本の一部。残念ながらそれ以上の意味は見出せません」
「安吾らしいね。いや、国家公務員らしい、と言った方が正しいのかな」

 安吾の方へと顔を向けて太宰は茶化すような口調で言った。私にはその横顔しか見えなかったが、太宰は安吾の回答を悪くは思わなかったらしい。

「そういう人がいるからこそ、この世界は悪と善を巡り巡るのだろう。だからこそ、世界には善と悪とその境の人間であふれ返る」
「その境、ですか」
「そうさ。善と悪の境、どちらも内包しどちらとも言い難いもの、そういった曖昧で厄介なものがこの世界にはごまんとある。 だからこそ人は迷い、間違い、立ち止まる。全てが善と悪だったのなら、人も思考もどちらかに区分されていたのだろうけれどもね」

 太宰はそう言って笑った。何かを嘲笑あざわらうでもなく、何かをしいたげるでもない、ごく普通の笑みだった。

「けれどその迷いこそが人間であることの証なのだろう」

 太宰はまれにこの笑顔を見せる。人の良さそうな、相手の警戒心をく笑みだ。しかし太宰がそれを浮かべている時は必ずと言って良いほどそこにいる誰のことも見ていない。どこか遠くを眺めているその横顔を、私は懐かしむような心地で眺めた。

「この手の話題の時のお前はまるで他人事のように話すんだな、太宰」
「そう?」
「……俺の気のせいかもしれないが」
「いや、織田作が言うならそうなのだろうね」

 太宰は私を見ないままコロッケをつついた。濃茶色の衣の真ん中に箸の先を突き刺し、ビニール袋をこじ開けるように広げ、コロッケを二分にする。

「他人事か、そうか、他人事ね。……ところで、織田作はどう?」

 くるりと両目を大きく見開いて、無邪気な子供のように太宰は声を明るくした。そこには他人事のように人間を論じた男はいなかった。いたのは、私の回答を心待ちにする一人の少年じみた男だ。

「織田作にとって、この街はどんなものだい?」

 私を真っ直ぐに見つめるその眼差しは薄暗い照明を反射して、溶けかけた氷のようにきらきらと輝いている。その眩しさから逃げるように私は手元のグラスへ目を落とした。そうだな、ととりあえず呟く。

「俺にとって」

 この街は。
 この街は、何だろうか。
 住まい、仕事場、それ以上の何か。

「……難しいな、生憎と丁度良い言葉が見つからない」
「何、構いやしないさ。思ったことを言えば良い」

 太宰はスツールの後方へと背筋を伸ばして両手を広げた。

「織田作がその手の話をする機会は少ないからね、是非とも聞いてみたい」
「それは私も賛成です」

 マスターからモツ煮を受け取った安吾がそれへと箸を伸ばしながら、疲労の窺えるくまの濃い目元を笑ませた。

「織田作さんはいつも、悩んだり思い詰めたりすることなくさらりと物事をこなしてしまいますから」
「俺はそんなに器用じゃない」
「器用だと思いますよ。でなければポートマフィアの何でも屋なんてできません」
「運が良かっただけだ」
「ご冗談を」

 安吾は楽しげに目を伏せつつ口元を綻ばせた。彼は情報員としてポートマフィアに潜入していた諜報員だ。マフィアの内情を誰よりも深く知っているはずなのだが、どうしてかこうも私を買い被ってくるので返事に困る。お世辞にしても過剰だ。

「冗談ではないんだが……困ったな、安吾を説得できる自信がない」
「織田作、この場合は反論せず『ありがとう』と褒め言葉を受け取ると良いよ」

 グラスの中の琥珀色をゆっくり一口飲んだ後、それをカウンターの上に置いてから太宰が口を挟んできた。

「安吾が手放しに相手を褒めるような性格ではないことも知っているだろう? 現に私達は初めて安吾に出会った時かなり直接的に非難されたし。ねえ?」
「懐かしい話を持ち出さないでくださいよ」

 太宰の茶化すような一瞥いちべつに、安吾は露骨に嫌な顔をした。

「というかあの時の件、私は一生忘れませんからね」
「あの時の件って?」
「あの一張羅いっちょうら洗濯店クリーニングに出しても臭いがなかなか取れなかったんですよ? 恨みますから」
「なあんだ、そんなこと」

 安吾の声音と表情は、太宰の罪悪感を引きずり出すには足りなかったらしい。元最年少幹部は当時には見せなかった心地良いほどからりとした笑顔をあっさりと浮かべて片手を広げた。

「言ってくれれば幹部級の人達が使ってる一流の洗濯店クリーニングを紹介したのに」
「そういう問題ではありません。仕事中の初対面の他人に死臭を引っ付けないでいただきたい」
「あ、わかった。それはあれだね、『押すなよ! 絶対押すなよ!』のやつだね」
「違いますから!」
「オーケー安心したまえ安吾、最近はあれ程の抗争にお目見えしていないけれど、似たような臭いは探せばいくらでもある。その手の探し物は得意でね……うふふ」
「やめて!」

 安吾が金切り声を上げた。それを横目に私はグラスを持ち上げて口をつける。当時から何も変わらない慣れた味が、そのグラスの中に入っていた。
 不思議なものだ。当時と場所も人間も酒も同じはずなのに、当時とは何か違う気がする。

「……変わらないようでいて、変わっているもの、か」

 ふと呟いたそれは独り言のつもりだった。しかしすぐさま隣で太宰がこちらを向き、カウンターに片手を置いて身を乗り出してくる。

「それが織田作の答えかい?」
「……聞かれているとは思わなかったな。安吾と話していたんじゃないのか」
「話してたよ。何をどうしたらあの頃の街の臭いが再現できるかって話を」
「それ、ものを食べるところでする話題じゃないです」

 安吾がモツ煮をつつきながら当然のように言った。

「それで? 織田作さんは何と」
「……変わらないようでいて変わっているものだ」

 先程こぼした言葉をそのまま繰り返す。

「街並みも人も味も、何も変わっていない。だが確実に、何かが違う……俺にとってこの街はそういう場所だ」
「それはこの街に限らないことなのでは?」
「そうかもしれない」

 そうなのだろう。どこの街であれ、時が経つにつれて人は歳を取り経験を積み何かが変わっていく。変わらないと思っていたこの酒場でさえ、何かが変わっていた。変わっていないのは、ここに集う人間の顔くらいなものだ。

「それが織田作の答えか」

 太宰は一人納得したように頷いた。どうやら、私の答えにも悪い気はしなかったようだった。

「そうだねえ、私も変わった。安吾も変わった。織田作も変わった。組織を出て、それぞれの場所でそれぞれのことをしている。でも私達はあの時から変わらず、この場所に集う」

 トントン、とその指がカウンターを叩く。

「全てが変わることもなく、全てが変わらないこともない。それを人は当然のように受け入れている。不思議なものだね。ずっと同じ時が続けば良いと願うことはよくあるのに、ずっと同じ時を演じようとはしないのだから」

 箸を持ち直して太宰はコロッケの欠片を口に放り込んだ。それを眺めている私の前にコトリと皿が置かれる。エイヒレだった。

「ありがとう」

 マスターに言い、香ばしく焼き目をつけたそれを一つ摘み取る。少しばかり熱いそれを見つめて、焦げ方が一定ではないそれを眺めて、私は隣の茶外套コートの男へと話しかけた。

「それが良いんだろう」

 変わらないもの、変わるもの。街の形は大規模工事をしない限り変わらない。けれど人は一日を経るだけで、一分を経るだけで、変わる。変わらないものの中に変わりゆくものが蠢き、顔を合わせ、語り合う。

「そうなのだろうね」

 太宰は単調に返した。

「きっとそうなのだろう。その結果、その毎日が突然崩れ去るとしても……それもまた、人の歩みであり日々の変化だ」

 それは誰かに言い聞かせるような響きだった。目の前に聞き分けの悪い子供がいるかのようだ。けれど太宰の周囲のどこにも子供の姿はないし、太宰は子供ではない。一体誰に話しかけているのだろう。
 わからないまま、私はエイヒレを口に入れた。硬くもなく柔らかすぎもしないそれを咀嚼そしゃくする。ふと気が付けば、隣で太宰と安吾が何かを話していた。

「そうだ、ニンニクを焼こう! マスター、ニンニクと七輪頂戴。安吾、上着貸して」
「嫌ですよ! なぜニンニクを焼くのに上着を貸さなくてはいけないんですか!」
「ニンニクの臭いを繊維の奥まで染み込ませるため」
「悪意しかない!」

 賑やかだった。

「それになぜ七輪なんですか。マスターに焼いてもらえば良いでしょう?」
「その方が雰囲気出るじゃない。車の中みたいで」
「それ良くない雰囲気ですよね!」
「大丈夫、一酸化炭素中毒は苦しいから私やらないよ」
「当然でしょう!」

 安吾が珍しく大声を上げ続けている。カウンターの奥ではマスターが「七輪はありません」と静かに首を振っていた。ないなら仕方がない。

「私は明日も明後日も仕事なんですよ! スーツ一つ駄目にされるのは薄給の身に堪えるんですからね!」
「今日の安吾は良く喋るな」
「徹底抗戦です!」

 安吾は何やら必死だった。脱いでいた上着を庇うように抱えている。そうか、と私は少し考えた。

「そんなに給料が少ないのか、異能特務課も大変なんだな」
「話の主題はそこじゃないです……今、現在進行形で物凄く大変な思いをしていますよ」

 なぜか安吾はため息と共に脱力した。目の下の隈がさらに色濃くなったような気がした。

「突っ込みが追い付きません」
「じゃあ突っ込まなければ良いじゃない」
「そんなことをしたらあなた達が暴走するでしょう」
「律儀だなあ」
「太宰君に言われたくはありません」

 安吾の言葉に太宰は声を上げて笑った。そうしてグラスを持つ。安吾もまた、水を口に含んだ。私もならってグラスの縁に口をつける。
 一瞬、統一感のある沈黙が降りた。
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