織田作先生の備忘録
2
小説とは何か。私はその問いに「人を書くことだ」と答える。そう教えてくれた人がいた。それを聞いた私は手始めに人を殺すことを辞めた。けれど今、拳銃すらも捨てた今、「人を書く」ということがまだわかっていない。
人を書く。それは、その見た目を描写することではない。その内側、感情だとか思考だとかと呼ばれる一人称的動静――その主観的理由によって生じた現象 、それを文字へと起こすことだ。先日知り合った小説家にそう教えてもらった。しかしそこまでわかっていながらも私は「人を書く」ということはわかりきっていない。人とは何か、人の感情とは、人の思考とはどのようなものなのか。やっと拳銃を手放した程度の私には、まだそれを小説という形にできるほど理解できていない。
私はヨコハマの街を歩いていた。前の職場から、少しばかりの用事を頼まれていた。
大きな通りには絶え間なく車が行き来している。エンジン音、タイヤが路面を擦る音、重い物体が走り去っていく轟音、それらを装飾する行き交う人々の話し声。その大通りを逸れて脇道を行けば、喧騒は遠のき沈黙に似た静寂が昏睡ガスのように充満する空間になる。密集した建物の間から漏れ出てくる太陽光が白く暗闇を切り取っていた。
さらに奥へ。すると、大通りと並行に走る通りが現れる。整然と並んだ入荷用のプラスチック籠の中に、さらに整然と並ぶ野菜、果物。その隣には鮮魚店、その向かいには小物が所狭しと天井からぶら下がる土産売り場。店と呼ばれる壁と屋根だけの建物の中で、商品が戸のない入り口から奥の壁に至るまで陳列されている。
その内の一つ、青果店へと歩み寄る。そこにいたのは割烹着姿の高齢女性と若い黒スーツの男だ。女性の方は歩く私に気付いてすぐに、その柔和な顔を綻ばせる。
「あらぁ、織田作ちゃんじゃないの。久し振りねえ」
「ああ。変わりないか」
「いつも通りよお。織田作ちゃん、最近見ないと思ったら、警備会社辞めてたのねえ」
寂しいわあ、と彼女は笑った。そうか、と私は頷く。そのやり取りを横目に、黒スーツの男性は「後は頼みました」と言い残して足早に去っていった。青い顔をしていたが、体調が良くなかったのだろうか。前の職場の同僚から「例の青果店のおばちゃんから逃げられない奴がいるから助けに来てくれ」と連絡が来た時から予想はしていたものの、体調が悪かったのなら尚更大変だっただろう。
そんなことを考えている間にも、青果店のおかみの話は先へと進んでいた。
「小畑さんったら今度は私の方を見てね、『このくらい頑張ってもらわにゃあ困る』って。私何も頑張ってなんかない、へらへら生きてるだけよって返したんだけど」
何の話だろうか。
「小畑さんといえば、昨日隣の山崎さんのお孫さんがね」
店の奥で若い夫婦が店主の親父から大根を買っている。
「原田さん、この間宝くじが当たったんだってねえ。三百円」
学校帰りの子供達がワアッと追いかけっこをしながら走り去っていく。
「カナちゃんったらついこの間までよちよち歩きだったのに、もうランドセル背負っちゃって」
青果店の親父がこちらをちらと見遣って苦笑を向けてきた。私は黙って軽く頭を下げる。その仕草が視界に入ったのか、おかみはようやく「あら」と声を上げて私の顔をじっと見つめた。
「また長々とお話しちゃったわね、ごめんなさいね」
「いや、大丈夫だ。慣れている」
「慣れてるだなんて、もう!」
おかみは楽しげに笑った。バシンと強めに腕を叩かれたが、それもいつものことなので驚きはしない。叩かれた箇所を軽くさすりながら、私は「他に話すことはないか」と確認を取った。
「他に、なら……そうねえ」
「おいおいお前待てよ、織田作ちゃんだって忙しいんだからよお」
親父がたまらずといった様子で割り込んでくる。するとおかみは先程私にしたように、夫の腕を強く引っ叩いた。
「良いじゃないの、あんたより聞き上手な織田作ちゃんとお話していたいんだよ私は」
「痛 ってえ、相変わらずの馬鹿力」
「失礼だねえ!」
「本当のことだろうが。なあ、織田作ちゃん」
痛そうな素振りで眉根を潜めた親父がこちらを見上げてくる。その隣で、不満そうな顔のおかみも見上げてくる。二つの顔に、私は頷いてみせた。
「ああ。力があるのは良い。何でもできるからな」
「やぁだ、もう!」
おかみがまた強く私の腕を引っ叩いた。こればかりはかなり痛かった。
***
青果店からようやく離れ、私は久し振りに商店街を歩くことにした。前の職場に勤めていた頃は良く顔を出していたが、今はもう疎遠だ。家からの距離のせいでもあるが、前職の縄張りであるということが何よりも私の足を重くした。
立ち止まり、空を見上げる。青い空がそこにはある。そしてもう一つ目に入るのが、青を貫くように立ち竦む黒い高層建築物だ。それはとある組織の本拠地であり、最上階には顔も知られていない一人の男が君臨している。かつての私の、そして太宰の上司 であった男、安吾を使いその権威を公のものにしてみせた男だ。その姿を直接見ることのできる人間は少ない。けれど私は一度、その顔を、微笑みを、見たことがある。
正直――正直なところ、あの手の人間は苦手だ。何かを統べる者としてはこれ以上ないほどに相応しいとは思う。だが、あの変わらない笑みで馘首 を言い渡されるのかと思うと、体は恐怖に似た何かで凍りつこうとする。さながら蛇に睨まれた蛙だ。跳ねて逃げることも無駄だとわかっている、何をしても逃れられない死への悪寒。
――人気のない寂れた洋館の、広大で天井の高い舞踏室 に溜まった冷風のような。
「すみませーん」
ふと、底抜けに明るい声が聞こえてきて、私は高層建築物からそちらへと顔を向けた。道の向こうから少年が駆け寄ってきている。金髪の鮮やかな、元気という言葉の似合う少年だ。
「俺か?」
「はい。ちょっと道を教えていただきたくて」
言い、彼はとある組織の名前を口に出した。
「この人達の事務所に行きたいんですけど、道に迷っちゃって」
私はまじまじとその少年を見つめた。養っている孤児達の最年長と変わりないほどの、幼さも残っている少年。友達の家に遊びに行くかのように気軽に告げたその組織の名は、ここら一帯を仕切る暴力団 だ。ポートマフィアと特に関係は持っていないが彼らに逆らえばどうなるかは理解しているようで、今までその手の行動を目論 んだことはない、大人しい――暴力団にそんな言葉を使って良いかは置いておいて――大人しい組織だ。
「何か用なのか」
思わず聞いてしまったのは、私の性格故なのだろう。
「ええ。少し聞き込みを。この間、そこの通りで自動車同士の正面衝突事故があったんですけど、どうやらそれが仕組まれたものらしいんです。それについて調査しています」
そこの、と近くの交差点を指差しながら少年は明るい声音を変えることなく告げた。
「調査?」
「はい。……あ、僕武装探偵社ってところで働いているんです」
「なら太宰の同僚か」
「あれ、太宰さんのお知り合いなんです?」
少年はきょとんと目を瞬かせた。私が名を名乗ると、少年も「宮沢賢治です」と名乗った。
「太宰さんのお知り合いにこんなところでお会いできるなんて。あなたも何かの調査なんですか?」
「いや、俺はそういったことをする人間じゃない。用があって近くの商店街に行っていただけだ」
「そうだったんですね」
少年は朗らかに笑った。
「何だか最近、小競 り合いと言いますか、勢力争いが激しいみたいなので気を付けてくださいね」
「ああ、知っている。この時期はどうしても荒れやすい」
「そうなんですよね、季節の変わり目はどうしても。組織の長が長齢だと風邪をこじらせるだけでも大騒ぎになってしまって」
皆さん敬老精神がよろしいようで、と少年は言う。時と場合によっては流血沙汰になるそれを、そんな言葉で表現できるとは思わなかった。なるほど、と私は頷く。
「敬老精神か」
「年上を敬う心は皆平等に持ち合わせていますから」
「そうか」
「そうですよ。織田さんもそうでしょう?」
それはおそらく、私への気遣いだったのだろう。彼の言った皆に通りすがりの私も例外なく含まれているのだという優しい思いやり。そして私は「そうだと良い」などと返せば良かったのだと思う。
そこまでわかっていながらも、私は返事に窮した。
「……どうだろうな。自分のことはよくわからない」
それは本心だった。私は私を顧みたことがない。常にその場限りの行動をしてきた人間だ。その時思いついたことをしてきた人間だ。そこに強い意志はない。強い願望もない。ただ、そうしようと思ったことだけをしてきた、薄っぺらな人間だ。だからこそ、人とは何か、などという根本的で初歩的な問いかけに頭を悩ませている。
私の曖昧な答えに少年は戸惑うことなくにっこりと笑った。
「そうですね。僕も自分のことはよくわかりません」
「……そうなのか」
「自分の顔は自分で見れませんから。でも、織田さんの顔は僕が見ることができます。同じように、僕の顔は織田さんが見ることができます」
丸い両目が私を見上げている。
「僕には織田さんが良い人に見えます」
「……それは違う」
私は首を振った。
「俺は……良い人間であろうとしているだけの、何でもない人間だ」
「そうでしたか。でも、少なくとも織田さんは悪い人ではありませんよ」
出会ったばかりの少年はそう言い切った。
「お日様を悪い奴だなんて言う人はいません。日照りで作物が枯れたりすることはあっても、その上で水を引いてきたり、雨を待ったりします。この世界には悪い側の人はいないんです。だから、あなたは悪い人ではありません」
奇妙な理論だと思った。けれど、悪い気はしなかった。
「そうか」
私は呟いた。呟いて、頷いた。
「そうだと良い」
人とは何か、私にはまだわからない。けれど、もし人というものが善と悪でわけられるものではないのだとしたら、それは一つの答えになるような気がした。
小説とは何か。私はその問いに「人を書くことだ」と答える。そう教えてくれた人がいた。それを聞いた私は手始めに人を殺すことを辞めた。けれど今、拳銃すらも捨てた今、「人を書く」ということがまだわかっていない。
人を書く。それは、その見た目を描写することではない。その内側、感情だとか思考だとかと呼ばれる一人称的動静――
私はヨコハマの街を歩いていた。前の職場から、少しばかりの用事を頼まれていた。
大きな通りには絶え間なく車が行き来している。エンジン音、タイヤが路面を擦る音、重い物体が走り去っていく轟音、それらを装飾する行き交う人々の話し声。その大通りを逸れて脇道を行けば、喧騒は遠のき沈黙に似た静寂が昏睡ガスのように充満する空間になる。密集した建物の間から漏れ出てくる太陽光が白く暗闇を切り取っていた。
さらに奥へ。すると、大通りと並行に走る通りが現れる。整然と並んだ入荷用のプラスチック籠の中に、さらに整然と並ぶ野菜、果物。その隣には鮮魚店、その向かいには小物が所狭しと天井からぶら下がる土産売り場。店と呼ばれる壁と屋根だけの建物の中で、商品が戸のない入り口から奥の壁に至るまで陳列されている。
その内の一つ、青果店へと歩み寄る。そこにいたのは割烹着姿の高齢女性と若い黒スーツの男だ。女性の方は歩く私に気付いてすぐに、その柔和な顔を綻ばせる。
「あらぁ、織田作ちゃんじゃないの。久し振りねえ」
「ああ。変わりないか」
「いつも通りよお。織田作ちゃん、最近見ないと思ったら、警備会社辞めてたのねえ」
寂しいわあ、と彼女は笑った。そうか、と私は頷く。そのやり取りを横目に、黒スーツの男性は「後は頼みました」と言い残して足早に去っていった。青い顔をしていたが、体調が良くなかったのだろうか。前の職場の同僚から「例の青果店のおばちゃんから逃げられない奴がいるから助けに来てくれ」と連絡が来た時から予想はしていたものの、体調が悪かったのなら尚更大変だっただろう。
そんなことを考えている間にも、青果店のおかみの話は先へと進んでいた。
「小畑さんったら今度は私の方を見てね、『このくらい頑張ってもらわにゃあ困る』って。私何も頑張ってなんかない、へらへら生きてるだけよって返したんだけど」
何の話だろうか。
「小畑さんといえば、昨日隣の山崎さんのお孫さんがね」
店の奥で若い夫婦が店主の親父から大根を買っている。
「原田さん、この間宝くじが当たったんだってねえ。三百円」
学校帰りの子供達がワアッと追いかけっこをしながら走り去っていく。
「カナちゃんったらついこの間までよちよち歩きだったのに、もうランドセル背負っちゃって」
青果店の親父がこちらをちらと見遣って苦笑を向けてきた。私は黙って軽く頭を下げる。その仕草が視界に入ったのか、おかみはようやく「あら」と声を上げて私の顔をじっと見つめた。
「また長々とお話しちゃったわね、ごめんなさいね」
「いや、大丈夫だ。慣れている」
「慣れてるだなんて、もう!」
おかみは楽しげに笑った。バシンと強めに腕を叩かれたが、それもいつものことなので驚きはしない。叩かれた箇所を軽くさすりながら、私は「他に話すことはないか」と確認を取った。
「他に、なら……そうねえ」
「おいおいお前待てよ、織田作ちゃんだって忙しいんだからよお」
親父がたまらずといった様子で割り込んでくる。するとおかみは先程私にしたように、夫の腕を強く引っ叩いた。
「良いじゃないの、あんたより聞き上手な織田作ちゃんとお話していたいんだよ私は」
「
「失礼だねえ!」
「本当のことだろうが。なあ、織田作ちゃん」
痛そうな素振りで眉根を潜めた親父がこちらを見上げてくる。その隣で、不満そうな顔のおかみも見上げてくる。二つの顔に、私は頷いてみせた。
「ああ。力があるのは良い。何でもできるからな」
「やぁだ、もう!」
おかみがまた強く私の腕を引っ叩いた。こればかりはかなり痛かった。
***
青果店からようやく離れ、私は久し振りに商店街を歩くことにした。前の職場に勤めていた頃は良く顔を出していたが、今はもう疎遠だ。家からの距離のせいでもあるが、前職の縄張りであるということが何よりも私の足を重くした。
立ち止まり、空を見上げる。青い空がそこにはある。そしてもう一つ目に入るのが、青を貫くように立ち竦む黒い高層建築物だ。それはとある組織の本拠地であり、最上階には顔も知られていない一人の男が君臨している。かつての私の、そして太宰の
正直――正直なところ、あの手の人間は苦手だ。何かを統べる者としてはこれ以上ないほどに相応しいとは思う。だが、あの変わらない笑みで
――人気のない寂れた洋館の、広大で天井の高い
「すみませーん」
ふと、底抜けに明るい声が聞こえてきて、私は高層建築物からそちらへと顔を向けた。道の向こうから少年が駆け寄ってきている。金髪の鮮やかな、元気という言葉の似合う少年だ。
「俺か?」
「はい。ちょっと道を教えていただきたくて」
言い、彼はとある組織の名前を口に出した。
「この人達の事務所に行きたいんですけど、道に迷っちゃって」
私はまじまじとその少年を見つめた。養っている孤児達の最年長と変わりないほどの、幼さも残っている少年。友達の家に遊びに行くかのように気軽に告げたその組織の名は、ここら一帯を仕切る
「何か用なのか」
思わず聞いてしまったのは、私の性格故なのだろう。
「ええ。少し聞き込みを。この間、そこの通りで自動車同士の正面衝突事故があったんですけど、どうやらそれが仕組まれたものらしいんです。それについて調査しています」
そこの、と近くの交差点を指差しながら少年は明るい声音を変えることなく告げた。
「調査?」
「はい。……あ、僕武装探偵社ってところで働いているんです」
「なら太宰の同僚か」
「あれ、太宰さんのお知り合いなんです?」
少年はきょとんと目を瞬かせた。私が名を名乗ると、少年も「宮沢賢治です」と名乗った。
「太宰さんのお知り合いにこんなところでお会いできるなんて。あなたも何かの調査なんですか?」
「いや、俺はそういったことをする人間じゃない。用があって近くの商店街に行っていただけだ」
「そうだったんですね」
少年は朗らかに笑った。
「何だか最近、
「ああ、知っている。この時期はどうしても荒れやすい」
「そうなんですよね、季節の変わり目はどうしても。組織の長が長齢だと風邪をこじらせるだけでも大騒ぎになってしまって」
皆さん敬老精神がよろしいようで、と少年は言う。時と場合によっては流血沙汰になるそれを、そんな言葉で表現できるとは思わなかった。なるほど、と私は頷く。
「敬老精神か」
「年上を敬う心は皆平等に持ち合わせていますから」
「そうか」
「そうですよ。織田さんもそうでしょう?」
それはおそらく、私への気遣いだったのだろう。彼の言った皆に通りすがりの私も例外なく含まれているのだという優しい思いやり。そして私は「そうだと良い」などと返せば良かったのだと思う。
そこまでわかっていながらも、私は返事に窮した。
「……どうだろうな。自分のことはよくわからない」
それは本心だった。私は私を顧みたことがない。常にその場限りの行動をしてきた人間だ。その時思いついたことをしてきた人間だ。そこに強い意志はない。強い願望もない。ただ、そうしようと思ったことだけをしてきた、薄っぺらな人間だ。だからこそ、人とは何か、などという根本的で初歩的な問いかけに頭を悩ませている。
私の曖昧な答えに少年は戸惑うことなくにっこりと笑った。
「そうですね。僕も自分のことはよくわかりません」
「……そうなのか」
「自分の顔は自分で見れませんから。でも、織田さんの顔は僕が見ることができます。同じように、僕の顔は織田さんが見ることができます」
丸い両目が私を見上げている。
「僕には織田さんが良い人に見えます」
「……それは違う」
私は首を振った。
「俺は……良い人間であろうとしているだけの、何でもない人間だ」
「そうでしたか。でも、少なくとも織田さんは悪い人ではありませんよ」
出会ったばかりの少年はそう言い切った。
「お日様を悪い奴だなんて言う人はいません。日照りで作物が枯れたりすることはあっても、その上で水を引いてきたり、雨を待ったりします。この世界には悪い側の人はいないんです。だから、あなたは悪い人ではありません」
奇妙な理論だと思った。けれど、悪い気はしなかった。
「そうか」
私は呟いた。呟いて、頷いた。
「そうだと良い」
人とは何か、私にはまだわからない。けれど、もし人というものが善と悪でわけられるものではないのだとしたら、それは一つの答えになるような気がした。
