織田作先生の備忘録
10
そうだ、と私は気付いた。私は私の経験した日々を書き留めていた。それがこれだ、この物語だ。
私は私を書いていたのだ。私は私の物語の中で生きていた。私は、私によって書かれた人間の一人だった。それは奇妙な感覚だった。これを書いている私と、これに書かれている私。どちらが本当の私なのだろうか。
どちらでもあるのかもしれない、と私は不意に思った。私は人間であり私は私という人間を書き続けていた。それは、私が人間の一人である以上矛盾することのない事象だ。どちらも私であり、私という人間なのだから。であればその点を深く追及する必要はないだろう。
私は目を開けた。今までも目を開けていたはずだが、今の私の目の前には見慣れたカウンター席はなかった。友の姿も、琥珀色の蒸留酒の透けた色味もない。私は暗闇の中で一人立ち尽くしていた。
不思議と頭は落ち着いていた。ここがどこかもわかっているような気がした。そして、ここに誰がいるかもわかっていた気がした。
「やっと来たか」
私はそちらを見た。視界の端に入っていてもおかしくない位置に彼は立っていた。声を聞くまで気付かなかったのは、私が彼の存在を忘れていたからだろう。
疲れの見える銀の髪、鋭さの衰えていない鼠色の目。纏う布は端が千切れ、過酷な環境にいたことを告げてくる。
「……ジイド」
「随分と長い別れの挨拶だったな」
「別れの挨拶?」
「貴君が今まで見てきたものだ」
ジイドは全てを知っているかのようにその低い声で笑った。私は周囲を見回した。ただ、暗い闇がどこまでも続いているだけだった。スツールはない。音楽も聞こえてこない。喉を潤した酒の匂いだけは、何故か鼻の奥から漂っている。
「……夢だったのか」
「いいや、現実だよ。仮想世界でもない。ここに辿り着くまでに見たものは全て現実だ。『仮に己の死の先にある未来を見ることができたのなら』という可能性だ。生者にとっては可能性とは唯一を除き全て虚像、達し得ぬまま消えるもしもの未来だが、我々死者には未来はない。それゆえに全ての可能性が現実となる。未来がないのならば未来の選択も必要がない、唯一を選択しないということは全てを選び取るということと同じだ」
「……理解が難しいな」
「何、理の外に出た者は理の戒めを受けぬという話だよ。天へと昇る魂に物理法則が当てはまらないことと同じだ」
なるほど、と私は返した。正直よくはわからなかったが、魂に重力がかからないという例えには納得した。どうやら私は、私が当然と思っていた原理が働かない、特殊な場所にいるらしい。
私の短い返しにジイドは応えるように短く笑った。
「難しく考える必要はないよ、サクノスケ。そうであったというだけの話だ。その証拠に、貴君は今『可能性の一つだったもの』を手にしているだろう?」
言われて初めて、私は手の中に何かを持っていることに気が付いた。見下ろし、それを持ち上げてみる。
本だった。赤い糸栞のついた薄い文庫本だ。その古びた色合いの表紙を開き、そして左の親指を紙の側面に滑らせて頁 を繰 った。パラパラと軽い音が手元から聞こえてきた。
十章ほどの短編集だった。三人の男が飲み交わす場面と一人の男の日常がおおよそ交互に書かれている。しかし奇妙なことに、最後の章は白紙だった。章番号が始めに書かれているだけで、本文がなかった。
まだ書ける、と私は思った。
この物語はまだ終わっていないのだ。まだ、続きがある。続きが書ける。その空白の最終章はそう訴えている気がした。
「……小説家になりたかったんだ」
表紙を見下ろしながら、私は呟いていた。
「それを、友人が応援してくれていた……様々な人に会って、様々なことを学んで……それから、あいつらの未来を知った」
「貴君が死んだ後の未来か」
「そうだ」
私ははっきりと答えた。今なら、自分がどんな状態なのかを把握することができていた。
私は死んだ。ジイドと撃ち合い、酒を飲むことも咖哩 を食べることもなくなった。
であればここは、いわゆる黄泉路 だ。
「俺が死んだ後の二人の様子を……二人の同僚や知り合いの様子を見た」
「どうだった」
ジイドは促すように訊ねてくる。私は迷うことなく頷いた。
迷う必要などなかった。
「良かった。二人とも、先へと顔を上げて歩き出せていた。唯一の心残りだった友人も良い顔をしていた。私が遺してきた未来は悪いものではなかったようだ」
「そうか」
ジイドが静かに言った。そこに、あの亡霊じみた不確かさはなかった。
「お前はどうだった」
私の問いかけにジイドは微笑んだ。死に際に見た彼の表情と同じだった。
「大切なことを思い出せたよ。軍人として祖国を守っていた頃の……己を誇りにし、顔を上げて祖国の旗を見上げていた頃のことを」
「過去を思い出したということか」
「いいや、現在の話だ」
ジイドが首を横に振った。
「待っていたんだよ、貴君のことを、ここでずっと。彼らと共に」
彼ら、とは誰のことか。
それを訊 く必要はなかった。
名前を呼ぶ声が聞こえてきた。それを聞きその方向へと顔を向ける前に、それらは私の体へと飛びかかってきた。足に、胴に、背に、腕に。合計五つの小さく重い塊が貼り付いてくる。
「遅いぞ!」
襲撃が失敗に終わった後のような悔しげな顔で、最年長の少年が背後から顔を覗かせて唇を尖らせた。
「いつまで待たせてんだよ!」
私は何も言えなかった。
「ずっと待ってたんだよ」
少年の一人が腕にしがみついたまま恥ずかしげに笑った。
「そこのおじさんと一緒に、ここで。暗くて怖かったけど」
「置いていくのは嫌だなって思って」
少女が少年の後を継いで答えた。足にしがみついてきた少年が嬉しそうに跳ねた。
「おじさんが『もう少しで来る』って教えてくれたから、じゃあ皆で待ってようってことになったんだ」
「ここは留まって良い場所ではなかったがな」
ジイドが肩を竦めた。その様子を、私は見つめていた。
「……守ってくれたのか」
「成り行きだ。……祖国にも子供はいた。乃公 達が守るべきだった――いや、守り通した 祖国の民がな。それを思い出す良いきっかけになった」
ジイドへと子供の一人が駆け寄り、その胴へとしがみつく。懐いているようだったが、ジイドは困ったようにその小さな頭へ手を置くだけだった。
「軍人としての矜持 を思い出した。それは形がなくとも良かったのだ。我々が捨てられ朽ちたとしても……守るべき場所や人が守れたのならば、乃公 達は誇りと嘆きを打ち捨ててでもそれに殉ずるべきだった」
「お前達はそれが難しかったんだろう。誰だって守るべき相手の笑顔を見たいと思う、そこにあり続けると思っていたものを失ったら怒りと悲しみでわけがわからなくなる。改めて他の守るべきものを探しに行くなどできようもない。地獄から抜け出す努力さえできないまま『誰か早く終わらせてくれ』と願うしかない。それは悪ではないんだ、この世にあるのは善悪だけじゃない。人は必ずしも善というわけではないが、確実に悪ではない。俺達は」
私はまとわりついてくる子供達へと手を伸ばした。順に頭を撫でれば、皆嬉しそうに顔を綻ばせた。最年長の少年だけが不満げな表情をしたままだったが、それでも拒むことなく私の手を受け入れていた。
彼らを失った時のことを思い出す。あの時、太宰の言ってきた通り、何かを期待していたのなら――何かを待っていたのなら、何かが変わっていたかもしれない。あるいは他の孤児を彼らの分も込めて養っていれば――しかしそれは妄想に過ぎなかった。幾度考え直しても、私にはあれ以上のことはできなかっただろう。
そうだ、私は。
私達は。
「……俺達は一途で不器用だっただけだ」
唯一の願いに殉じることしかできなかった、似た者同士だ。
「……そうだな」
ジイドが笑う。昼間の日差しが似合う、穏やかな笑みだった。
私は顔を上げた。暗闇の中の一点を見つめる。どこも均一な闇でしかないはずなのに、何故か行き先は自然とわかった。
「行くか」
私は子供達とジイドへ言った。
「一緒に行こう。俺達が行くべき場所へ」
「ああ」
歩き出す。子供達がついてくる。二人の大人と五人の子供が、何もない暗闇の中を真っ直ぐに歩き始める。行き先はやはり暗いままだ。それでも、私達の一人として不安を抱く者はいなかった。
私の手には本があった。最終章が白紙のそれの表紙には、表題が書かれていた。
『織田作先生の備忘録』
これは私の備忘録だ。忘れぬようにと書き留めた人生の一部、可能性の一欠片。これを持って私は行くべき場所へと向かう。その最終章は書き終わっていない。まだ、続きがある。私がそれを書くことはきっとない。今の私は人を殺めた私だからだ。
けれど、もし。
この備忘録を幾度も読み返して、あの日々を忘れかけるたびに読み返して、思い出し、追体験し、これを書いた時のように人の心を書き出すことができるようになったのなら。
――いつかこの備忘録の続きを、そしてあの下巻の続きを書いてみたい。
そう、思っている。
そうだ、と私は気付いた。私は私の経験した日々を書き留めていた。それがこれだ、この物語だ。
私は私を書いていたのだ。私は私の物語の中で生きていた。私は、私によって書かれた人間の一人だった。それは奇妙な感覚だった。これを書いている私と、これに書かれている私。どちらが本当の私なのだろうか。
どちらでもあるのかもしれない、と私は不意に思った。私は人間であり私は私という人間を書き続けていた。それは、私が人間の一人である以上矛盾することのない事象だ。どちらも私であり、私という人間なのだから。であればその点を深く追及する必要はないだろう。
私は目を開けた。今までも目を開けていたはずだが、今の私の目の前には見慣れたカウンター席はなかった。友の姿も、琥珀色の蒸留酒の透けた色味もない。私は暗闇の中で一人立ち尽くしていた。
不思議と頭は落ち着いていた。ここがどこかもわかっているような気がした。そして、ここに誰がいるかもわかっていた気がした。
「やっと来たか」
私はそちらを見た。視界の端に入っていてもおかしくない位置に彼は立っていた。声を聞くまで気付かなかったのは、私が彼の存在を忘れていたからだろう。
疲れの見える銀の髪、鋭さの衰えていない鼠色の目。纏う布は端が千切れ、過酷な環境にいたことを告げてくる。
「……ジイド」
「随分と長い別れの挨拶だったな」
「別れの挨拶?」
「貴君が今まで見てきたものだ」
ジイドは全てを知っているかのようにその低い声で笑った。私は周囲を見回した。ただ、暗い闇がどこまでも続いているだけだった。スツールはない。音楽も聞こえてこない。喉を潤した酒の匂いだけは、何故か鼻の奥から漂っている。
「……夢だったのか」
「いいや、現実だよ。仮想世界でもない。ここに辿り着くまでに見たものは全て現実だ。『仮に己の死の先にある未来を見ることができたのなら』という可能性だ。生者にとっては可能性とは唯一を除き全て虚像、達し得ぬまま消えるもしもの未来だが、我々死者には未来はない。それゆえに全ての可能性が現実となる。未来がないのならば未来の選択も必要がない、唯一を選択しないということは全てを選び取るということと同じだ」
「……理解が難しいな」
「何、理の外に出た者は理の戒めを受けぬという話だよ。天へと昇る魂に物理法則が当てはまらないことと同じだ」
なるほど、と私は返した。正直よくはわからなかったが、魂に重力がかからないという例えには納得した。どうやら私は、私が当然と思っていた原理が働かない、特殊な場所にいるらしい。
私の短い返しにジイドは応えるように短く笑った。
「難しく考える必要はないよ、サクノスケ。そうであったというだけの話だ。その証拠に、貴君は今『可能性の一つだったもの』を手にしているだろう?」
言われて初めて、私は手の中に何かを持っていることに気が付いた。見下ろし、それを持ち上げてみる。
本だった。赤い糸栞のついた薄い文庫本だ。その古びた色合いの表紙を開き、そして左の親指を紙の側面に滑らせて
十章ほどの短編集だった。三人の男が飲み交わす場面と一人の男の日常がおおよそ交互に書かれている。しかし奇妙なことに、最後の章は白紙だった。章番号が始めに書かれているだけで、本文がなかった。
まだ書ける、と私は思った。
この物語はまだ終わっていないのだ。まだ、続きがある。続きが書ける。その空白の最終章はそう訴えている気がした。
「……小説家になりたかったんだ」
表紙を見下ろしながら、私は呟いていた。
「それを、友人が応援してくれていた……様々な人に会って、様々なことを学んで……それから、あいつらの未来を知った」
「貴君が死んだ後の未来か」
「そうだ」
私ははっきりと答えた。今なら、自分がどんな状態なのかを把握することができていた。
私は死んだ。ジイドと撃ち合い、酒を飲むことも
であればここは、いわゆる
「俺が死んだ後の二人の様子を……二人の同僚や知り合いの様子を見た」
「どうだった」
ジイドは促すように訊ねてくる。私は迷うことなく頷いた。
迷う必要などなかった。
「良かった。二人とも、先へと顔を上げて歩き出せていた。唯一の心残りだった友人も良い顔をしていた。私が遺してきた未来は悪いものではなかったようだ」
「そうか」
ジイドが静かに言った。そこに、あの亡霊じみた不確かさはなかった。
「お前はどうだった」
私の問いかけにジイドは微笑んだ。死に際に見た彼の表情と同じだった。
「大切なことを思い出せたよ。軍人として祖国を守っていた頃の……己を誇りにし、顔を上げて祖国の旗を見上げていた頃のことを」
「過去を思い出したということか」
「いいや、現在の話だ」
ジイドが首を横に振った。
「待っていたんだよ、貴君のことを、ここでずっと。彼らと共に」
彼ら、とは誰のことか。
それを
名前を呼ぶ声が聞こえてきた。それを聞きその方向へと顔を向ける前に、それらは私の体へと飛びかかってきた。足に、胴に、背に、腕に。合計五つの小さく重い塊が貼り付いてくる。
「遅いぞ!」
襲撃が失敗に終わった後のような悔しげな顔で、最年長の少年が背後から顔を覗かせて唇を尖らせた。
「いつまで待たせてんだよ!」
私は何も言えなかった。
「ずっと待ってたんだよ」
少年の一人が腕にしがみついたまま恥ずかしげに笑った。
「そこのおじさんと一緒に、ここで。暗くて怖かったけど」
「置いていくのは嫌だなって思って」
少女が少年の後を継いで答えた。足にしがみついてきた少年が嬉しそうに跳ねた。
「おじさんが『もう少しで来る』って教えてくれたから、じゃあ皆で待ってようってことになったんだ」
「ここは留まって良い場所ではなかったがな」
ジイドが肩を竦めた。その様子を、私は見つめていた。
「……守ってくれたのか」
「成り行きだ。……祖国にも子供はいた。
ジイドへと子供の一人が駆け寄り、その胴へとしがみつく。懐いているようだったが、ジイドは困ったようにその小さな頭へ手を置くだけだった。
「軍人としての
「お前達はそれが難しかったんだろう。誰だって守るべき相手の笑顔を見たいと思う、そこにあり続けると思っていたものを失ったら怒りと悲しみでわけがわからなくなる。改めて他の守るべきものを探しに行くなどできようもない。地獄から抜け出す努力さえできないまま『誰か早く終わらせてくれ』と願うしかない。それは悪ではないんだ、この世にあるのは善悪だけじゃない。人は必ずしも善というわけではないが、確実に悪ではない。俺達は」
私はまとわりついてくる子供達へと手を伸ばした。順に頭を撫でれば、皆嬉しそうに顔を綻ばせた。最年長の少年だけが不満げな表情をしたままだったが、それでも拒むことなく私の手を受け入れていた。
彼らを失った時のことを思い出す。あの時、太宰の言ってきた通り、何かを期待していたのなら――何かを待っていたのなら、何かが変わっていたかもしれない。あるいは他の孤児を彼らの分も込めて養っていれば――しかしそれは妄想に過ぎなかった。幾度考え直しても、私にはあれ以上のことはできなかっただろう。
そうだ、私は。
私達は。
「……俺達は一途で不器用だっただけだ」
唯一の願いに殉じることしかできなかった、似た者同士だ。
「……そうだな」
ジイドが笑う。昼間の日差しが似合う、穏やかな笑みだった。
私は顔を上げた。暗闇の中の一点を見つめる。どこも均一な闇でしかないはずなのに、何故か行き先は自然とわかった。
「行くか」
私は子供達とジイドへ言った。
「一緒に行こう。俺達が行くべき場所へ」
「ああ」
歩き出す。子供達がついてくる。二人の大人と五人の子供が、何もない暗闇の中を真っ直ぐに歩き始める。行き先はやはり暗いままだ。それでも、私達の一人として不安を抱く者はいなかった。
私の手には本があった。最終章が白紙のそれの表紙には、表題が書かれていた。
『織田作先生の備忘録』
これは私の備忘録だ。忘れぬようにと書き留めた人生の一部、可能性の一欠片。これを持って私は行くべき場所へと向かう。その最終章は書き終わっていない。まだ、続きがある。私がそれを書くことはきっとない。今の私は人を殺めた私だからだ。
けれど、もし。
この備忘録を幾度も読み返して、あの日々を忘れかけるたびに読み返して、思い出し、追体験し、これを書いた時のように人の心を書き出すことができるようになったのなら。
――いつかこの備忘録の続きを、そしてあの下巻の続きを書いてみたい。
そう、思っている。
