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織田作先生の備忘録




 小さなバーで明るい笑い声が上がる。その声は店内の壁という壁にぶつかり、反射し、私達のいる空間を満たしていた。

「……ふう、笑った笑った」

 ひとしきり笑った後、太宰が大きく息を吐き出す。満足だと言わんばかりのそれに、安吾は大きくため息をついた。二つの吐息――けれど質も意図も異なるそれらが薄暗い宙に消えていくのを、私達は揃って聞いていた。
 カチャ、とカウンターの向こうのマスターの手元から微かな音が上がる他は、不規則な節奏リズムの西洋風音楽がゆったりと流れてくるだけだ。

「じゃあ織田作は?」

 そしてその静けさを破るのは、いつだってその底抜けに朗らかな――あるいはそうしようとしている――太宰の声なのだった。

「織田作は最近どうなの?」
「俺の話なんて聞いてもつまらないだけだろう」
「そんなこと言ってえ。私も安吾も話したのだから、後は織田作だけだよ? 何かあるでしょ、最近面白かった出来事」

 太宰は椅子の上で直角に回転して私の方へと体ごと向き直ってきた。にっこりと笑って私へ首を傾げてくる。

「聞きたいなあ、織田作の話。ポートマフィアを辞めた後の織田作の生活は、きっと私達が知っているものとは違うのだからね」

 安吾を見遣れば、太宰の奥でグラスに口をつけていた。その口元は微笑み、視線は私を窺い見ている。二対一か、と私は早々に閉口を諦めた。この二人に敵うとは思えなかったからだ。しかし考え込んだ私の頭の中に彼らが喜びそうな出来事が浮き出てくるようなことはない。そうだろう、武装探偵社社員と異能特務課職員を驚かせるような出来事など、一般人でしかない私に起きるわけもない。

「本当に何もない。いつも通り、子供達の世話をして店の手伝いをして、街を歩いて夜にお前達と会う、ただそれだけだ」
「何か買ったり、誰かに会ったりは?」

 太宰の問いに私はグラスを持ち上げようとした手を止めた。その問いは私の頭の中の記憶を見通し掴み取ったかのように的確だった。

「……ある」
「ほら、あるじゃない。何があったの?」
「人と会った。推理小説を書いている男だ」

 私の言葉に太宰は「へえ」と感嘆を口にした。

「それは良かったじゃない」
「ああ」
「そういえば織田作さんは小説家になりたいのだと以前伺いましたが」

 安吾が太宰の後ろから顔を覗かせてくる。

「何か作品は書き上がったんです?」
「まだだ、まだ何も書いていない。時間ができたのは良いんだが、何を書けば良いかわからなくてな」
「その人がその糸口ヒントをくれたのだね?」

 太宰が断定的に言う。私は「小説を書いている人間に会った」としか言っていない。話をしたことも、その話題が小説の書き方だったことも、何も話してはいないのだ。これが、太宰の聡明さだった。

「そうだ」

 私は頷いた。

「人を書くとは人の心を書くことだと教わったんだ。小説は文字で物語が書かれている、それだけではなく人の心が書かれているからこそ小説は小説になるんだと言われた」
「なるほど確かに」

 太宰は顎に手を当てて「ふうむ」と唸る。

「心、心ね。小説は人の心の物語ということか」
「抽象的ですね」

 安吾が微かに眉を潜めた。けれどその表情は何かを疎んでいるそれではなく、今し方言われたことを咀嚼し切れていないと言うようなものだった。あの推理小説家にそう言われた時の私も安吾と似たような顔をしていたのだろう。そんなことを思いながらその端正な横顔を見る。

「ああ、抽象的だな。具体的に何を書けという話はなかった。その代わり、心の書き方の練習方法を教えてもらった」
「練習方法?」
「目の前にいる人間の言動を書き写せば良いらしい」
「そうか、なるほど悪くない。人の行動にはその人の心が反映される、それを見て書けば自ずと小説が出来上がるという寸法だね」

 私が話を続ける前に、太宰は両手を叩き合わせて歓声を上げた。相変わらず理解の早い奴だ。

「とてもわかりやすいじゃないか。つまり」

 ふと太宰は両手を広げた。バーの空間全てを指し示すような仕草だった。

「今私達がこうしてこの場所に集って会話しているという現象も、こころ・・・によって成された物語ということになる。あとはこれを文字として書き出せば良いのだね。私は小説家になろうと思ったことはないけれど、これなら私にもなれる気がしてくる。――いや、もしかして既に文字にされているのかもしれないね」
「どういう意味です?」

 安吾が問うた。

「私達が物語の一部であるという話さ」

 太宰が答えた。

「今私達がしている会話、仕草、全てが文字として既に小説に落とし込められていて、私達は誰かがそれを読んだことでその人の脳内でやり取りを再現しているのかもしれない。私達は確かにここに存在しているけれど、私達自身がどの次元にいるのかは私達には不可視だ。もしかしたら私達は、誰かが書いた小説の中の登場人物としてこの小さな酒場で和気藹々あいあいと話し合っているのかもしれないよ」
「突拍子もないことです」

 安吾の眉間にはしわが寄っていた。

「僕達はここに生きているじゃないですか。ここは原稿用紙の中ではなく現実であり、僕達は人間として生きている。今までの経験も思い出も全て実際にあったことですよ」
「原稿用紙の中の登場人物も私達と同じなのではないかということだよ。人間には心があり、心があるからこそ人間でいられる。そして小説が人の心を書くものなのだとしたら小説に書かれた者達は全て心持つ人間だ。であれば小説の中の登場人物達もまた、小説を書き小説を読む人々と同じく人間だということになる。生きている次元が違うだけの同じ生き物だということだ。だとしたなら、私達人間が小説に書かれた側なのか小説を読む側なのか、どちらの次元に生きている人間なのかは私達自身にはわかり得ないことなのではないかな」

 太宰は楽しそうだった。話している内容は難解で高次元メタ的だ、それこそ世界という枠組みを捉え直すような、哲学めいた突拍子もない話だ。けれど私は嫌な気にはならなかった。納得したかのような呟き声が私の口から小さく発されていた。
 小説の中の登場人物も、私達と同じ人間――なら、小説という文字の羅列に心が動かされ夢中になった遠い過去の体験も納得がいく。あの時の私は、小説を通してここにはいない他者の生き様を見たのだ。

「ふむ、だとすると小説というのは『切り取られた誰かの人生』か。遠くへ持ち運べるし、いつまでも取っておけるし、忘れかけても何度も見返せる人生。それが自分自身のものであるなら過去を思い出すことになるし、そうでなくても追体験ができる。良いね、じゃあ私は素敵な自殺方法を何万通り分書き記しておこうかな」

 太宰はからからと笑った。

「好きな時に好きな自殺を追体験できる! 素晴らしい! 毎日『どれにしようかな』でその日の自殺方法を選ぶのも楽しそうだ」
「じゃあ俺は咖哩カレーの話を何種類か書いておこう。具や辛さで何通りか書いておけば、読み返した時に食べた気になる」
「織田作さんまで何を言っているんですか」

 安吾はやはり眉間にしわを寄せたまま私達を見遣ってきた。「そんなこと言って、安吾だって何か考えてごらんよ」と太宰が横からその頬をつつく。太宰の手を引き剥がしながら、安吾はふと遠くを見つめた。

「……三人でこうして飲む話が、何通りか……あると良いですね」

 その声は安吾らしいものではなかった。今にも泣き出しそうな子供のようだ。私はそれを無視してはいけない気がした。
 私だけは、その声を拾い上げなくてはいけない気がした。

「わかった」

 誰かが答えた。自分の喉が発声で振動したことに気付いてようやく、それが私の声だったと知った。

「わかった」

 私はもう一度言った。言って、安吾と太宰を見遣った。その驚いた表情を、目を、見つめた。

「書いてみる。俺達の話を何通りか。それと、俺が街で経験したことも」
「良いね」

 太宰が目元を緩めた。それは笑みというよりも緊張が解れたかのようだった。何かを恐れていた状態からようやく解放されたかのような、来たるべき時が迫っていることを憂いながらも歓迎しているような、奇妙な安堵がそこにあった。
 彼が何に安心したのか――私にはわからなかった。


***


「楽しみだねえ」

 安堵の表情を待ちわびているそれに変えて太宰が言う。その当然のように呟かれた言葉に、私は驚かずにはいられなかった。

「読むのか」
「勿論。だって織田作先生の小説家への第一歩だもの。愛好家ファン一号たる私が読まずにどうするのさ」

 当然だと言わんばかりに、その両目は丸く私を見つめていた。その後ろから「私は第二号でお願いしますよ」と安吾が言う。その眉間に既にしわはない。何も書いていないというのに愛好家ファンが二人か。

愛好家ファンになるのは早いだろう、面白いかどうかもわかっていないんだからな」
「面白いに決まっているとも。織田作が書くんだから、何であろうと私にとっては素晴らしいものに違いない」
「そういうものか?」
「そういうものさ」

 太宰の声に迷いはなく、からかいの響きもなかった。そうか、と私は答えた。奴がそういう言い方をする時は、不思議と信じる気になるのだった。

「そういうものか」

 だとしたら、きちんとしたものを書かなければいけない。二人の友人の期待を裏切るわけにはいかないだろう。

「大変なことになったな」
「期待してますよ、織田作先生」

 安吾が微笑む。私は付け加えるように言われた自分への呼びかけを、暫く頭の中で反芻した。そして、言った。

「その『織田作先生』というのは何なんだ。先生というのも良くない。せめて織田にしてくれ」
「ええッ、良いじゃない、織田作先生って言い方」

 言い返してきたのは安吾ではなく太宰だった。そういえば先にその言い方をしてきたのは太宰だったと気が付く。
 私を「織田作」と呼ぶのは親しい間柄の人間だ。しかしそれは愛称の話であり、無論私の名は「織田作」ではなく「織田」「作之助」である。安吾は以前から「織田作さん」と呼んできているが、それと「織田作先生」呼びは違う気がする。そもそもまだ先生と呼ばれる段階ではない。

「さすがにおかしいだろう」
「良いと思うけどなあ、織田作先生。織田作って感じがして。――そうだ、今度から織田作が書くやつの表題タイトル、『織田作先生のお話』にしようよ」

 太宰が身を乗り出してきた。椅子から転げ落ちそうなそれを、私は彼の肩を押さえて止める。太宰が痩躯そうくとはいえ、背もたれのない椅子に座る私へ倒れ込まれては共に椅子から転げ落ちかねない。

「落ち着け、太宰。飲み過ぎか?」
「全然飲んでないよ、まだ始まったばかりじゃないか」
「店で寝るのだけはやめてくださいね」

 安吾が苦笑し、そして「表題タイトルですか」と話題を戻す。
表題タイトルを決めるのは織田作さん自身ですし、そもそも織田作さんは小説を書く練習をしたいという話だったのでは? 日記のようなものになると思いますし、言うならば日誌、記録……そういったものでしょう」
「いや、そこまで大仰なものにもならない気がする。表題タイトルすら要らないだろう」

 私は思ったことを言ったつもりだった。しかし太宰は頬をこれでもかと膨らませて私を見遣ってきた。

「駄目だよ織田作!」

 施設へ顔を出してひとしきり遊びに付き合った後の、「今日は帰る」と告げた瞬間の子供達のような顔だった。

「織田作の大切な処女作なんだから、ちゃんと決めないと。でも作者である織田作が納得しないとね。うーん…走り書き? 端書き? 覚書メモ?」
覚書メモというのはそれを忘れないように短く記録しておくものでしょう? 小説とは違う気がします」
「いや、逆にそのくらいで良い。どうせまだ覚書メモ書き程度のものしか書けない」
 二人の盛り上がりを殺さぬようにと言った意見は、太宰によって「覚書メモ書きから原稿用紙書きへ昇進するための第一歩ということだね」と華々しく解釈されてしまった。そのつもりは一切ない、初心者ですらない私が書き出すものなど覚書メモ以上になるとも思えない。だが太宰が心底楽しげに「処女作を覚書メモと称するあたり、織田作らしくて良いね」などと続けたので何も言い返せなかった。そもそも言い返す必要もないだろう、彼らは私などという小説家になりたがっているだけの人間のために、表題らしきものを考えてくれているのだから。
 私には、その事実だけで十分だった。

「でも覚書メモというのはどうにも格好が悪いなあ。織田作らしいけれど」
「では漢字表記にしてみますか?」

 安吾が鞄から小さな手帳を取り出した。最後の方の罫線が引かれた白紙のページを開き、そこへ胸元に挿していた万年筆で何かを書いていく。三文字程度のそれを書き終えた後、安吾は私達へとその紙面を見せてくれた。
 備忘録。

「良いねえ安吾」

 太宰が満足げに声を上げた。

「備忘録、備忘録か。『忘れぬようにと書き留めた、日々の小さな物語』ということだね」

 太宰の解釈に私は驚いた。まるで太宰が口にした文章そのものが物語のようだ。先程といい、大したことのない言葉が太宰を通すことで色鮮やかで価値のあるものへと変わっていく。

「お前は単語を美しく直すのが上手いな」
「太宰君は口が上手いですからね」
「教養があると言っておくれよ」

 太宰が自慢げに返す。私は隣に座るその顔を見た。暗い路地で敵の銃口へと歩み寄るような危うげな少年らしさは、その横顔には欠片もなかった。
 ふと、思う。
 この男は本当に太宰なのだろうか。あの少年の四年後の姿がこれだというのだろうか。何が、彼をここまで変えたのだろう。
 誰が、善悪のなかった少年にこれほどい発想を与えたのだろう。
 私はそれを知っている。そんな気がした。誰かが太宰へそうしろと言ったからだと、私は――私だからこそ、知っている。
 視界の隅に浮かぶ光景。火を吹く車、寂れた洋館、鼠色の目――煙草の煙。
 太宰は剥き出しの感情のそばにいることで生を見出そうとしていた。呼吸の仕方を忘れた魚のように、暗闇の中で、生き方を、生きる価値を探していた。けれど彼はそれを見つけることはできないだろうと私は思った。彼の孤独は誰にも追いつけない、孤高のものだったからだ。生死の淵を眺めていようと、活力のそばで立ち尽くしていようと、決して得られない安寧。だから、そうだ。
 私は、彼に。
 太宰という小さな子供に。
 い人間になれ、と。

「――よし、決まりだ」

 静かな舞踏室ボールルームで「そうしよう」と言ってくれたのと同じ声で、けれどあの時よりも明るく朗らかな声音で、太宰は私を丸い両目で見て、笑った。

「君が今から書いていく君の日常の小さな物語集、その作品の名は『織田作先生の備忘録』だ!」
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