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織田作先生の備忘録




 私は小説というものをそれなりに理解しているつもりだ。文字の羅列、その連なり、そういった簡素な説明では到底表現しきれないもの。
 小説には様々な形がある。叙述的なものもあれば仰々しいものもあり、写実的なものもあれば抽象的なものもあり、あるいは言葉の響きを重視した詩という形態に近いものもある。作品の長さによっても分類があり、そして勿論内容によっても分類がある。兎角とかく小説とは幅が広い。
 けれどどの小説も共通している点がある。
 それは「小説と新聞記事は違う」ということだ。「小説と覚書メモ書きは違う」ということだ。私が初めて読み耽ったあの小説はまさしく「人を書いたもの」であり、そしてそれは日頃目にする様々な文章とは明らかに異なっていた。私は小説というものを見知ってはいるが、その本質はというと何も理解できてはいない。けれど唯一わかっていることがある。あの小説のようなものを書きたい――否、あの髭の男が残していった小説の下巻、その続きをいつか書かなければいけない――その思いだけは揺るぎなく私の中にある。つまり私が書かねばならない小説というものは、出来事を記述するだけでは足りないのだ。
 では何を書けば良いのか。
 何故あの小説は小説たり得ていたのか。
 私は街を歩きながら人々を見渡す。会話の間にあるものを探す。台詞セリフと台詞の間にある何かを探す。人を書く上で必要なものを探している。
 それがわかれば、きっと、私は小説というものをより理解できるのだ。
 そしてそれは、きっと、殺しを辞めた後の私だからこそ理解できることなのだ。
 私は見慣れた街を歩いていた。いつもの街並みがそこにはある。整えられた路面、行き交う人々、話し声を掻き消すエンジン音、信号の光。青色のそれが点滅し始めたのを見、横断歩道の端にいた数人が慌てて走り出す。その様子を横目に見ながら、私は歩道を歩いていた。何か用があった気がするが覚えていない。もしかしたら用など何もなく、ただ気の向くままに平穏な昼間の街を歩いていたのかもしれない。
 焦るでもなく歩いていた私は、横断歩道を渡り終えた一人の男を何ともなく見つめていた。偶然目が向いたのだ。なのでその男が丸く背を縮めたまま横断歩道を渡り終えた様子も、その後段差につまづいて転びかけたのも、手の中に抱えられていた紙封筒が落ちて中の紙束が路上に広がったのも、私は風景の一部として眺めていた。

「あわ、わわわ……」

 癖のある髪の彼は慌てた様子でしゃがみ込み、紙を掻き集め始めた。その足元に小動物がまとわりつく。猫かと思ったが意外にも大きかった。しかし犬にしては顔立ちが三角形じみている。そこで私は初めて、目の前に現れたその男と小動物に目を凝らした。

「……たぬきか?」

 私の呟きは存外大きかったらしい、紙を拾っていた男がびくりと顔を上げて私を凝視してくる。目の下の隈の濃い男だった。

「……アライグマである」

 男はぼそぼそと小さな声で答えた。アライグマ、と私はその一言を反芻はんすうした。私の呟きに応えるように例の小動物が男の背へとよじ登って私を見上げ「きゅッ」と鳴いた。

「……初めて見たな」
「そうそう見かけることもないと思うので……」

 男は答えに困ったとばかりに顔を逸らした。道端で突然小動物の名前当て遊びをされるとは思わなかったのだろう。紙を集めて封筒の中にしまった後、男は背を丸めたまま立ち上がって私を窺い見た。その腕の中に仕舞い込まれた紙束へ私の目が釘付けになっていたことに、私よりも先に気付いたようだった。

「……興味があると?」

 彼はその小さな声で訊ねてきた。私は素直に頷いた。

「ああ。興味がある」

 僅かに見えたそれは、文字の並んだ紙だった。そして文字の並び方からするに、小説と呼ばれる形態の文章がそこに書き込まれていたのだった。


***


 アライグマを連れた男はポオと名乗った。最近日本に来て、今はヨコハマで探偵業をしている友人に自作の推理小説を持ち込む日々を送っているらしい。

「推理小説か」

 近くの喫茶店のテラス席で向かい合って座り、私はテーブルの上に置かれた茶封筒を見つめた。無論穴の開くほど見つめたところで封筒に穴が開くわけもなく、その文面が見えるようになるわけでもない。

「推理小説を読んだことは?」
「少しだけだ。今は様々な本を読むようにしている。以前は読む時間がなかったからな」
「なかなか忙しい生活だったのであるな……」
「わかるのか」

 私はポオへと顔を上げた。封筒を穴が開くほどに見つめていた私の視線を受けて、ポオは隠れるように顔を逸らした。

「小説は娯楽、時間がない人にはなかなか手に取ってもらえないものである。乱歩君は最初の数ページで話の結末を言い当ててしまうけれど……」
「乱歩?」
我輩わがはいの友人である」

 髪に埋もれるかのように首を縮めていたポオが、途端に胸を張って満足げな笑みを浮かべる。

「乱歩君は素晴らしい探偵なのである。現場を一瞥いちべつするだけで事件の真相を見抜く世界が誇る力、この世の何にも勝る才。我輩、少し嫉妬はしたものの……今も少しは嫉妬しているのだ、我輩は乱歩君の好敵手ライバルなので。とはいえもはや感嘆の域なのである」
「そんな奴がいるのか。このヨコハマに」
「ふふん、実はいるのである。乱歩君を知らぬとは大損、何なら我輩の紹介で乱歩君の素晴らしい能力を目の当たりにしてもらっても……いやでも、乱歩君との時間が減るのはちょっと……昨日も『ちょうど良い事件なくて最近つまんない、小説じゃなくて事件が良い』って言われたし……ヨコハマの治安と我輩、関係ないのに……寂しいのである……」

 段々とポオの声が小さくなっていく。元々小さいそれが何を言っているのかわからなくなってきたところで、頼んでいた珈琲コーヒーが二つ運ばれてきた。それが目の前に置かれる様子を眺めつつ、私は乱歩という名を考える。
 聞いたことがあった。最近、誰かが口にしていたような――いや、それよりも前、思い出すのに時間がかかるような遠い昔に、雨音の中で誰かが言っていたような――誰だっただろうか。誰が、その名を私との会話の中で言っていただろうか。
 一度目を伏せる。このことについて考えても答えはすぐには出て来ないようだった。

「ポオは小説を書くんだな」

 カップに口をつけながら、私は切り出した。

「なら一つ、たずねたいことがある」
「我輩で良いなら……」
「小説を書くにはどうすれば良い」

 私の言葉にポオは口をつぐんで押し黙った。彼の足元にいたはずのアライグマが彼の肩によじ登ってきて「きゅ?」と首を傾げた。何のことかと言いたげなそれは、まるで主人の内心を代弁したかのようだ。その仕草を見て「突然訊ねるにしては曖昧な質問だったらしい」と私はすぐに思い至ることができた。
 私は以前出会った髭の男の話をした。自分が暗殺を手掛けていた点だけは伏せて、男とのやり取りをポオへと話した。他人に話したことのないそれを語るのは思ったよりも難しくはなかった。既視感すらあるほどだ、記憶にないだけで、既に誰かへこの話をしたことがあったのだろうか。
 私の話をポオは口を挟むことなく全て聞いてくれた。そして私が話し終わった後、顎に指を当てて考え込む素振りを見せた。

「人を書くとは何か、とはなかなかに難しい考え方なのである……」

 そうなのか、と私は言った。ポオは一つはっきりと頷いた。

「さして難しいことではないからである。推理小説を書きたければ推理の過程を書けば良いし、戦争小説を書きたければ戦争の様子を書けば良い、それが小説というもの。ただそれだけの話なのである」
「だがそれなら新聞記事と小説は同じものになる。俺が読んだあの本は、確かに小説だった。何故かはわからないが確かに違ったんだ」

 私は私の言っていることがまるでわからなかった。曖昧にも程があるだろう。もっと明瞭なことを言いたかったが、生憎と相応しい言葉は見当たらなかった。感覚の表現というのはかなり難しい。

「……なるほど」

 けれどポオは何かを会得したかのような呟きと共に丸めていた背を伸ばした。驚いたのは私だった。

「……今の俺の話で何かわかったのか。凄いな」
「わかったというか推測が立ったというか……あまり期待されると緊張するのである……」

 再度背を丸め、しかし今度は顔を上げて、ポオは私を見据えてきた。探偵が相手を見つめている時のような眼差しだった。睨むではない、しかし瞬きのない、じっと射竦めた、望遠鏡のように真っ直ぐに対象を捉え拡大する――逃げ切れないと悟らせる、絶対的な視線。

「つまり君は物語をいかにするかがわからないということであろう?」

 ――物語。

「……物語を?」
「言い換えるなら話の流れ、主題テーマ、結末である」

 ポオの肩からアライグマが飛び降りてテーブルの隅に乗った。広くはないそこで器用に後ろ足を畳み、かしこまるように腰を下ろして机上に座る。その小さな頭を撫でながらポオは続けた。

「君の言う通り、人物の描写は小説の特権ではない。新聞でも歌でも、映像でも伝聞でもそれは可能である。ならば小説の特権は何か?」
「……文字か」

 私の回答にポオは頷いた。

「小説とは文字によって物事の顛末てんまつを観衆に知らせる娯楽であるからな。では小説と新聞記事の違いは何か? 君が感じた差は何か?」

 アライグマから離れたポオの手が己の胸元に当てられる。髪で目元の隠れた顔に笑みが宿る。

「心である」

 心。

「こころ……」

 私はそれを復唱した。思いがけない言葉であるそれは、この人生の中で幾度となく耳にし目にしてきた簡素な単語だった。
 心。

「新聞にはなく小説にはあるもの、それは心である。登場人物の心象である。そして心とは人の言動の理由であり、その人生、選択、言うならば物語を紡ぐ原因――つまり物語の主観的理由・・・・・とも言える」

 トントンとポオが自らの蟀谷こめかみを人差し指で叩く。その仕草を黙って眺める。
 心。
 物語の主観的理由。

「かの御仁は『小説を書く事は、人を書く事だ』と君に言ったのであろう。そして小説とは出来事の過程だけではなくそこにいる人々、時に大気や天候、物体、神、運命、それらのこころを――その先の出来事の運びを裏付ける主観的理由をも、文章として書き出すもの。つまり」
「『人を書く』とは、『人の行動の過程を主観的理由こころと共に書き出すこと』だと?」

 私の言葉に、ポオは首を傾げて私を見遣ってきた。

「堅苦しく言えばそうなのではないか? こころ・・・が書かれているからこそ小説は新聞記事ではなくなり、読む人々のを動かす。他者の心に影響を受けるのは心持つ者の特性である」

 ポオの視線から外れるようにテーブルの上へと目を遣った。半分ほど減った珈琲がある。その黒い水面を見つめた。
 こころ。
 こころ、か。
 つまり人を書くとは、人の心を書くということか。
 やっと知りたかったことを知ることができたように思えた。けれど、「心」をあらゆるものの行動の主観的理由の総称であるとするなら、私は小説を書くために人の心というものをまずは理解しなければならない。私にできるだろうか。怒りも悲しみも快楽もないままに職業として人を殺め続けてきた私に、今はそうではないとはいえ、可能なのだろうか。
 ――お前にはその資格がある。
 あの髭の男は、私のどこに人を書く資格を見出したのだろうか。

「……俺は人の心を……人の考えていることを読み取るのは上手うまくない」

 私は呟いていた。

「その手のことは友人の方がけている。そばで見てきたが、あれを真似できるような器用さは俺にはない」
「その点は何も問題ないのである」

 私の頼りない話に、しかしポオは口で弧を描いた。楽しそう、と言うよりは嬉しそうな笑みだった。

「我々の目の前には常に人がいる。そして人とは総じて己のこころ・・・に従い動くもの。心がわからぬと言うのなら、心をもとに実際に行動している人々を書けば良いのである」

 ポオの言葉に「きゅ」とアライグマが合いの手を打つように鳴いた。私はその様子を呆然と眺めていた。

「物語とは頭の中で組み立てるばかりではないのである。物語は常に我々の目の前で心を持つものによって繰り広げられている。それを見、書き写していけば、きっと織田君にも小説の書き方が、物語の書き方が、人の書き方がわかるようになると思うのであるよ」

 ポオの腕から肩へとアライグマが伝い登っていく。それを当然のように受け入れながら、ポオが「どうだろうか」と訊ねてくる。私は黙り込んだ。
 人を書くとは心を書くことであり、心を書くためにはまず目の前の事象を文字で書き写してみれば良いのだという。私が求めていたものは目の前にあったということだ。私らしい、間の抜けた話だと思った。

「……そうか」

 そして、呟いた。

「それなら、できる気がする」

 街の中で出会ってきた人々を、夜の酒場で顔を合わせる友人達を、彼らが繰り広げる事象を思い出す。今なら、私も私の手で小説というものを書ける気がした。
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