殺人探偵と舞台女優
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橋田議員の死は事件の結末と共に報じられた。しかし内務省が圧をかけたのか、大きく取り上げられることはなく、数日でそのニュースは数多の事件の中に埋もれていった。今後も表沙汰になることはないだろう。
綾辻は一人、路地裏に佇んでいた。灰塗装のされていない灰色一色の壁、それに囲まれた空間で一人、煙管を手にぼんやりと前方を見遣る。
「何を見ているんですか?」
その声に、綾辻はそちらを見た。
若い女がそこにいた。肩程の長さの亜麻色の髪、暗闇でも光を放っているかのような青の目。会ったことはない。しかし、その楽しげな笑みを浮かべつつも針のように相手を射貫く眼差しを、知っている。
「……君は」
「”はじめまして”」
彼女はそう言ってにこりと笑う。
「先日は良い見世物をありがとうございました」
「見世物、か」
「ところで、何を見ているんです? ホテルでも時々、何かを見ているようではありましたけど……誰かいるんですか?」
女は綾辻の前方を一瞥し、首を傾げる。ため息をつき、綾辻は煙管を軽く振って答えた。
「厄介な知人だ」
「へえ……そういう系もいける方なんですね」
幼い子供のような軽やかな声に、目の前で老人が満足そうに笑う。む、と眉をひそめ、綾辻は手で前方を振り払った。ゆらりとその姿は消える。しかし、気配はそのまま綾辻の周囲を漂っていた。本当に厄介だ、邪魔で仕方がない。
綾辻の様子に、女は少し困ったようにしながらも一歩歩み寄ってきた。
「”探偵事務所は常に監視されていて気を休める暇もない”……ではなかったんです?」
「彼らの動きを見ていれば対応策は自ずと思いつく。抜け出すのは容易だ」
「脱走の名人でもいらっしゃったんですね」
「……これほど口の回る人だったとはな」
「褒めていただけて光栄です」
笑みを絶やさず、女は綾辻と会話をする。親しみを覚えさせる、二十歳前後の女性。それ以外の印象を抱かせない、癖のない仕草。
「けど驚きました。まさかあなたに出会った瞬間に私が辻村さんを――特務課の人間をターゲットにしていると気付かれるなんて」
「簡単な話だ」
綾辻は指先で煙管を弄ぶ。
「会場に入ってきた瞬間、君は会場全体を見回して橋田議員はどこかと言った。目の前にいたにも関わらず、だ。橋田議員の顔は誰もが知っている、政治家との繋がりすらも好都合だと捉えるような人間なら尚更見逃すわけがない」
――橋田先生はいらっしゃいますか?
あの言葉は、橋田議員を呼んだものではない。声をかけることでその場にいる全員に顔を向けさせ、目的の人物をいち早く探し出そうとしたのだ。
そしてこの女は、見つけた。
辻村を。
「辻村君は表向きただの探偵助手だ、わざわざ政治家のパーティに顔を出してまでして会いに来るような相手ではない。となると、辻村君をターゲットにした理由は辻村君の本来の職業故――”特務課のエージェントだから”だということになる」
そして、特務課のエージェントを気にするのは――異能者だ。
「やはり探偵さんは皆凄い方なんですね」
女はにこやかに笑う。自身が異能者であると知られたにしては落ち着いていた。その点はさして重要ではないということか。
「何が目的だ?」
ひやりと冷え込んだ問いに、女は寒さをも気にならないとばかりにあっさりと肩を竦めた。
「大したものでは。ただ、特一級危険異能者を監視する人間というものがどんなものなのか、気になっただけですよ」
「それは君も”危険異能者”だからか」
綾辻の問いに、女はふと笑みを消す。光の差さない路地裏で、一対の青だけが氷柱のように煌めく。
「……先程の言葉を取り消しましょう。わたしが辻村さんに近付いた目的は一つ――”辻村深月”という人物を探しているからです。ご存じありませんか」
「辻村君なら会っただろう」
「彼女ではありませんでした」
綾辻の前で、女は何かを思い出すように目を細める。僅かな動きさえも見逃さないような、一般人がするものとは全く違う目つき。
少しの油断が死を呼ぶ、戦場を生きる者の目。
「特務課の資料によれば、十数年前に既に活躍している女性です。しかし詳細は不明、生死すらわからない。その名前すら、削除され損ねていた資料に書かれていただけ。しかしあの辻村さんは若いし経験も少ない。同姓同名の別人だと判断します」
「その”辻村深月”を追ってどうする」
「真相を聞きに」
真相。
「わたしは特務課に一般的な異能者として登録されています。けれど最近わかったことですが、特務課からは重要人物として見張られている。その指示を出したのが、どうやら”辻村深月”という人物らしいんです。……彼女がなぜわたしを監視するよう指示を出したのか、気になりまして」
ご存じありませんか、と女は再び尋ねてくる。嘘などすぐに看破するであろうその青を、見返す。
辻村深月――その名が指す人物は二人いる。一人は新人エージェントの辻村深月、そしてもう一人は。
「いや」
短く言う。それは否定の言葉でありながら肯定の意味を有していた。
もう一人の辻村深月を――新人エージェントの辻村深月の母を、綾辻は知っている。しかし、彼女は既に”死んでいる”。だから否と答えた。
そしてこの女は、綾辻のこの意図を全て読み取るだろう。
「……そうでしたか」
女はそう言って微笑んだ。柔らかで、それでいて何かを得たことを示す挑発的な笑みだった。
「楽しい時間でした」
女は笑みを深める。
「またいつかお会いできると良いですね、”綾辻先生”」
「ああ」
綾辻は気のない声で答える。
「その時は犯人の側に君がいないことを祈っている」
「では」
女はくるりと背を向けて、路地を出て行こうとする。その背に声をかけた。
「リアというのは芸名だろう。本名は何だ」
足を止め、しばし女は黙り込む。そして、半身振り返り――ゆっくりと、唇に人差し指を当てて笑んだ。
教える気はない、ということか。
再び背を向け、女は歩き出す。やがてその姿が見えなくなった頃、入れ替わるようにして誰かが駆け込んできた。
「綾辻先生!」
騒がしい様相で叫ぶのは、見慣れた監視役――もとい、使い勝手の良い召使いだ。
「何度も言わせないでください! 勝手に事務所を抜け出すなんて! 顔を出したら先生がいなくて、どれだけ肝を潰したと思ってるんですか!」
「外に出る、と報告したところで許可は出ないだろう。なら言っても言わなくても同じだ」
「同じじゃないです! ……でも」
ふと、辻村は眉間のしわを消し、不思議そうな顔をする。
「珍しいですね、私が来る時間帯に先生が抜け出すなんて。それに」
自身が入ってきた路地の入り口へと顔を向け、辻村は呟くように続ける。
「若い女の人とさっきすれ違いましたけど……綾辻先生の居場所を教えてくれたのもその人だったんです、『辻村さん、綾辻さんならあちらですよ』って。でも私、その人に全然面識がなくて……誰だったんでしょう? 先生は知ってます?」
「さあな。ただ一つ言えることは、君はとことん周囲を見ていないということだ」
「え?」
綾辻はすたすたと歩き出す。数秒後、置いて行かれたという事態を把握した辻村が慌てて追いかけてきた。
「ちょっと、先生! 先に行かないでください! それにさっきのこと、周囲を見ていないってどういうことですか!」
「そのままの意味だ。君はなんとなくで人間を見定めている。君だけではないがな」
先程出会った女を思い出す。少女とも呼べそうな、幼く親しみすら感じさせる雰囲気を持った女だ。髪色と目の色が同じだったからわかったものの、それらも変えられていたらあの舞台女優と同一人物だと気付かなかった。気配すらまるで違っていた。辻村は彼女とすれ違い会話をしたというのに、あの女優と同一人物だと気付かなかったらしい。
変装、などという話ではない。別人だ。演技者だからできる代物ではない、才能と呼ぶにも物足りなくなるほどの技術。
加えて、橋田議員の遺体を初めて見た時の彼女の反応は薄かった。無傷とはいえ動かなくなっている知り合いが床にいるというのに、彼女はそれを一瞥しただけで、すぐに綾辻の名を呼んできた。あれは死体を、それも凄惨な状態の死体を見てきた者の反応だ。ヨコハマは異能者が闊歩しマフィアが夜を支配している魔都だが、一般人がそういった死体にそうそう出くわせるものではない。
そして。
――それは、君も”危険異能者”だからか?
あの問いに、彼女は答えなかった。肯定もせず、そして否定もしなかった。
これらが指し示す彼女の正体は、一体。
「綾辻先生?」
黙り込んだ綾辻の顔を、辻村が覗き込む。
「どうしたんですか?」
「……辻村君」
「はい?」
何を言われるのか全く予想できていない様子で、辻村はきょとんとしている。その顔へ、綾辻は指を向けた。
「ラテを飲んだ後に口紅を塗り直すなら、もっと巧妙に直せ。先日俺が君の朝の行動を逐一推理したのを根に持っているのだろうが、その顔で隣を歩かれては困る」
「……へ?」
慌てたように、辻村は自分の唇へ手を遣る。おそらく鏡を見ずに口紅を上から重ね塗りしたのだろう、わずかに色味が異なっていた。言ったことを全て鵜呑みにする素直さは賞賛に値するが、これほど顕著では逆に滑稽に見える。これでいて「ミステリアスな女」を自称しているのだから幸せなことだ。
『――これはこれは』
ふと、声が聞こえてくる。辻村の横を、肩を並べて歩いている老人がいた。口紅を気にしている辻村がそれに気付く事はない。なぜならそれは影、綾辻にしか見えない幻覚だからだ。
『面白いのう、綾辻君』
老人は――京極夏彦は、綾辻をちらりと見て笑う。
『あの娘、ただの異能者ではないじゃろうて。君に会ったのも何かの縁、もし再び会おう時が来たのなら、楽しみなことよ』
「楽しみ、か」
短く言う。その声に、辻村が「え?」と顔を上げてこちらを見る。
「何か言いました?」
「……いや」
「じゃあ……京極ですか」
辻村は困ったように眉を下げる。綾辻にだけ見える存在なのだから困惑するのも仕方がない。京極がクツクツと笑っているのが目障りだが、腕を振り回したところで煙のように消えるだけだ、その存在は常に綾辻の脳内に棲み着き、時折こうして視界に姿を現す。厄介なことこの上ない。
奴は無視するに限る。時折重大なヒントを落としていくが、今回はただ綾辻をからかいに出てきただけだ。
すたすたと歩みを早める。辻村が慌てて歩調を合わせてくる。興味がないので聞き流しているが、先程から京極のことやら口紅のことやらを一人で長々と話している。どこからどう見ても政府のエージェントには見えない。
「綾辻先生、聞いてます?」
「いや、全く」
そう言えば、辻村は「先生!」と憤慨した様子で呼んでくる。その問い詰めるような視線から逃れるように、空を見上げた。
青がある。単一で薄い空色だ。湖を思わせるあの青とは違う。あれほど色味の変わる目を、綾辻は見たことがなかった。
相手の感情をも左右する目だ。怒りを消し、疑いを逸らし、自らに親しみを抱かせる目。そして時折、殺意に似た鋭さを帯びる。あれは平和に埋もれた人間が放つ気配ではなかった。おそらくは、逆だ。
――またいつかお会いできると良いですね、”綾辻先生”。
あの青が告げた言葉に、そうだろうか、と思う。本当に再び会う時があったのなら、その時は。
おそらく自分は、彼女を事故死させる気がするのだ。
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「殺人探偵と舞台女優」 完