殺人探偵と舞台女優
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場が落ち着いたところで、綾辻先生は部屋に集まった人々を見回した。
「そ、それで、どういうことですか」
動揺の収まらない秘書山中聡美が声を震わせる。
「橋田先生は、病死されたのでは……?」
「実に巧妙な事件だ」
綾辻先生はそう言って、足元を見る。橋田議員の遺体は俯せに床を這ったまま、綾辻先生の推理を待っている。
「扉には鍵、窓ははめ殺し、争った形跡もなし。被害者が部屋に入り第一発見者が遺体を見つけるまでの間、防犯カメラに不審な人物の姿はもちろん部屋に立ち入った人物もなし、第一発見者が遺体を見つけてからは俺達が常に現場を見張っていた。高血圧の病気持ちで、その点については裏が取れている」
「じゃあ……!」
「それを見てみろ」
突然、綾辻先生が部屋の壁を指差した。正確には、テーブルの上に置かれた備え付けのグラスだ。二つ揃って並んでいる。使った痕跡はない。――否。
「あれ……?」
歩み寄り、グラスをまじまじと見た。透明で菱形模様の入った普通のグラスだ。これとは別にマグカップも備えてあるし、やはりビジネスホテルとは違う。
「これ……」
「ど、どうしたんですか、探偵助手さん」
マジシャンの北見真也がおそるおそる尋ねてくる。私はグラスの一つを指差した。
「これ、一度使われてます」
「ええッ?」
「布か何かで水気を拭き取ってありますけど……水痕がついてますね」
「そ、それが何か?」
議員の友人枠で参加していた元議員の小林智が興奮しながら口を挟んでくる。探偵による推理というテレビ番組のような状況を、不謹慎にも楽しんでいるらしい。
「コップを使った後、洗って元の場所に戻したのでしょう。それが何か、重要なポイントなのですか?」
「簡単な話だ」
綾辻先生は呆れを隠さないままため息混じりに言った。
「橋田議員はものを片付けない性格であることが予想される。ベッドの上に投げ置かれた服や鞄の中身が整頓されていないことを見れば誰でもわかることだ。その程度で友人を名乗っていたとはな」
「何ですって?」
小林がぴくりと眉を動かす。相手は一応政治家なのだから、あまり挑発して欲しくはないのだが。
私の心配を横に、綾辻先生は「つまり」と付け足した。
「あのグラスを片付けたのは被害者本人ではない。犯人だ。理由は、あらかじめグラスに塗っておいた毒物を洗い流し、被害者が毒を服した可能性を隠すため」
「ど、毒?」
現場がどよめいた。綾辻先生は口調も顔色も視線も変えず、淡々と続ける。
「毒と言っても特殊な毒ではない、日常に存在し、被害者にとって猛毒であるだけのものだ」
そんな都合の良い毒があるだろうか。考えつくのは、それこそ例の林間学校での殺人事件で使用されたボツリヌス菌の毒素だが。
「綾辻先生」
ハッと私は「まさか」と呟く。けれど綾辻先生は首を横に振った。
「”奴”は関係ない事件だ。本人もそこで楽しげに成り行きを見守っている」
そこ、とは言いつつもその方向を指すようなことはせず、綾辻先生は眉をしかめた。たぶんだけれど、その横か上か、近くで”奴”――京極夏彦が綾辻先生のことを楽しげに見ているのだろう。
京極の姿は綾辻先生にしか見えない。先生に取り憑いた妖怪、というとわかりやすいだろうか。時折先生の視界に入ってきては、自分が仕掛けた事件のヒントを言い出したり、過去の未解決事件について話し出すらしい。
京極のことはともかく、毒とは一体何だろう。”日常に存在し、被害者にとって猛毒であるだけのもの”とは。
「なるほど」
不意に声が聞こえてきた。その場にいた全員の視線がそちらを見る。
顎に歩く手を当てて考え込んだ後、リアさんは顔を上げた。その青が綾辻先生を映し出す。その色は空とも海とも違うようだった。静かで、さざ波の立たない、淡くて透明で、角度によって色の深みを変える、湖。
その水面が鋭く輝く。
「食品アレルギーですね」
「そうだ」
綾辻先生が頷く。
「被害者はパーティの最中特定の食品――ナッツを含む料理を一切食べていなかった。被害者のことを注意深く見ていれば誰でもわかったことだ」
この人は私の食べっぷりだけではなく橋田議員の食べっぷりすらも見ていたのか。そういう人だとわかっていても、恐怖に似た尊敬を覚えてしまう。
「そ、そんなはずはない!」
小林が悲鳴じみた声を上げる。
「そんな話は一度も聞いたことがない……!」
「政治家というのは常に敵に囲まれているような職業だ、アレルギーという自分の弱点を隠そうとする人間がいてもおかしくはない。アレルギーそのものは年齢に関係なく発症するしな」
「だ、だが……!」
「君が納得しようがしまいが俺には関係ないが」
綾辻先生は目を眇めて小林を見遣る。
「有益なことを話すわけでもないのに話を遮られるのは不快だ。――橋田議員は二つの問題を抱えていた。一つは高血圧、もう一つは食品アレルギーだ。橋田議員には避けるべき食品が二つあったことになる。ナッツ、そしてグレープフルーツ。高血圧の薬を服用している時はグレープフルーツを食してはいけないからな。同時に摂取した場合、血圧が過剰に下がり、頭痛や目眩、ほてりなどの症状が出ることがある。しかし橋田議員はとあるきっかけで、グレープフルーツを摂取してしまった」
「とあるきっかけ……?」
「そして血圧が下がり、頭痛を覚えた橋田議員は一旦部屋へと戻った。そして頭痛止めを服用。薬の殻はゴミ箱に入っている。水道水を飲むのに使ったのはそこにあるグラスだ」
「そ、それで」
「橋田議員は頭痛止めを飲み、しばらくしてグラスに塗られたアレルゲンによってアレルギー反応が起きていることに気付いた。そして、とある物を求めて床を這った」
すい、と綾辻先生は遺体を指差す。そしてその指先を、遺体が向かっただろう方向へ――部屋の出入り口の方へと動かし、途中で止めた。
そこにあったのは、橋田議員の鞄だ。
「議員の下のカーペットに体を引きずった痕があるのはそのためだ。携帯端末はベッドの上だったことから外部と連絡を取るための行動ではない。では何を鞄に取りに行ったのか?」
「そうか!」
北見が声を上げた。
「注射だ! 聞いたことがあります、アレルギーが重症化しやすい人は常に、注射を持ち歩いているって……!」
「その通りだ。アレルギー症状の重篤化が懸念される人間はアナフィラキシーショック症状を一時的に押さえるアドレナリン自己注射製剤を持ち歩く。橋田議員もそうだろう、体を這ってでも鞄へ向かったのは、それを注射するためだ」
けど、実際に鞄の中からそのような物は見つかっていない。見つかっていたなら、軍警も私も、アレルギーショックによる死の可能性に思い至ったはずだ。
「つまり……死因の偽装……?」
私の呟きに綾辻先生は頷いた。
まとめると、被害者は"グレープフルーツを摂取したことにより自分の部屋へ薬を飲みに行くこととなり、そこで準備されていたアレルゲン付きグラスを使って死に至った"ことになる。
これは死への誘導だ。そこに殺意があることは明白。
これは不慮の事故ではなく、殺人事件なのだ。
「後は君達でもわかるだろう」
綾辻先生は腕を組んで私達を見下ろしてくる。
「被害者のアレルギーを把握し、被害者の部屋にあらかじめアレルゲンを仕込み、被害者の鞄からアドレナリン自己注射製剤を盗み出し、他人にも本人にも怪しまれずにグレープフルーツを摂取させ、死体発見後他の人が来るまでに速やかにグラスを片付ける……これほどのことができる人物が犯人だ、つまり」
誰もがそちらを見た。被害者の第一発見者にして被害者と最も近い、秘書――山中聡美だ。
「ち、違います!」
彼女は顔を歪ませて大きく首を横に振った。
「違います! 私じゃない!」
「使用後のグラスが片付けられていた点から、君が犯人であることは確実だ」
綾辻先生の声は低くもなく高くもない。興奮もしていないし、疲れているわけでもない。何を考えているのかわからない、棒読みのような声。それが先生の冷徹さを感じさせる。
「グレープフルーツを仕込んだのはおそらく、パーティの前に飲んでいた咳止めの薬、それと共に飲んだペットボトル飲料だろう。被害者がそれを手にした時、ペットボトルには口近くまで飲料水が入っていた。しかし被害者がそのキャップを開けた際、開封の音はなかった。既に開けられていたということだ。あらかじめキャップを開け、グレープフルーツ果汁を数滴入れていたと推測できる」
「そんな、言いがかりです!」
山中はこれでもかと大きく首を振る。首が座っていない、ボロボロのぬいぐるみのような動きだ、もうすぐ捥げてしまいそうに見える。
「未開封の飲料水を渡しました! あの時、周囲は賑やかでしたし、音は聞こえなかったんじゃないですか? もうあのペットボトルは捨ててしまいましたし、証拠には……!」
「ペットボトルを捨てたのはホテルの外だな」
先生の指摘に、ヒッ、と山中が引きつった声を出した。
「隣のビルに設置されている自販機横のゴミ箱だ。パーティ開始の前、ホテルの外へ数秒出て行ったのを監視カメラで確認している」
いつの間に。おそらく私が軍警と状況確認の打ち合わせをしている時か、特務課の上司である坂口先輩に電話をかけている時に映像を確認したのだろう。勝手な行動はいつものことながら、こうも簡単にやられると私の面目がない。
「証拠はまだある。アドレナリン自己注射製剤だ。未使用の薬を現場近くのゴミ箱に廃棄すると悪目立ちする。なら、犯人は持ち帰って処分しようと考える。手荷物はもしかしたら検査されるかもしれない。となると犯人は今、アドレナリン自己注射製剤を持ち歩いている。犯人の鞄や部屋の冷蔵庫を見れば、グレープフルーツやナッツクリームといったものも見つかるかもしれないな」
綾辻先生の言葉に誰もが口を噤んだ。そして、山中を見つめる。注目の的になった彼女は俯いて黙り込んでいた。ぎゅ、と拳が握りしめられ、服の裾を掴む。
「や、山中さん」
「……父は」
気遣うように名を呼んだ小林に答えず、山中は口を開いた。
「父は、この男に殺されたんです。資金横領の濡れ衣を着せて、自殺に追いやった……だから、いつか殺し返してやろうと思って、偽名で秘書を続けていたんです」
ふと山中は顔を上げた。そこにあったのは――満面の笑み。
「それが終わった、やっと終わったんですよ探偵さん。味方のふりをして奴の隣に居続けることほど苦しくて虚しいことはなかった……それが、今日、終わったんです! 成し遂げたんです! 罪なんて全く怖くない! 好きなだけ、私を裁けば良い!」
「……ほう」
綾辻先生が短く呟く。
「そうか」
「そう! そうよ!」
何かから解放されたかのように、山中はくるくると踊る。オルゴールの上で曲に会わせて回る人形のように、くるくると。部屋の中がダンスホールであるかのように、山中は窓側へと移動する。そして窓の外の景色を背に――無数に立ち並ぶ高層ビルの街並みを背にーー両手を大きく広げて空を仰いだ。
「ねえ父さん、私やったよ! 復讐した! もうこの街に、あいつはいないんだ! ふ、ふふ、あはは……!」
壊れたのだ。不意に思う。誰もがそう思っているに違いなかった。沈黙の中、山中は歓喜の笑い声を上げ続ける。
「それは残念だ」
綾辻先生だけが違った。その氷のような眼差しを少しも変えないまま、先生は。
「君には元より、罰を受ける権利すらないのだからな」
そう、言った。
瞬間。
ピシリ、と何かが軋む音がした。それは窓の方から聞こえてくる。ピシリ、ピシリ、とそれは重なり、大きくなっていく。
「……まさか」
リアさんが弾かれたように飛び出す。何かに気付いたように、窓際で踊り狂う山中へと駆け寄ろうとする。
その腕を、綾辻先生は掴んだ。
「……どういうことですか」
リアさんが綾辻先生を睨む。美しい風貌から放たれるそれを、綾辻先生は顔色一つ変えず受け止める。
「これは必然の事象だ」
その淡々とした声は、軋みの音に紛れる。
「巻き込まれたくなければここにいることだな」
ピシリ、ピシリ、と音が無限に重なっていく。山中の笑い声がそれを装飾する。
そして。
ガラスが擦れ合う音。それと同時に、山中の背後で、整然とビルが立ち並ぶ光景が歪む。
はめ殺しだった窓ガラスがまるまる一枚、窓枠から外れた。
突風が部屋に吹き込む。体をよろめかせた山中が、足をもつれさせ、のけぞり。
――窓ガラスと共に都会の風景の中へ、落ちていった。
「……ッ!」
リアさんが綾辻先生を振り切って窓辺へ駆け寄り、下を覗き見る。けれど何もできないまま立ちすくんだ。
「……そんな」
「これで理解したか?」
綾辻先生の声はパーティが始まる前からずっと変わりない。無関心さすら感じられる、無感情で単調な声。
「俺が”殺人探偵”と呼ばれる理由を」
リアさんはゆっくりと振り返った。風がリアさんを煽る。まるで彼女を縁取るように、その周囲に渦巻く。
「……ええ」
リアさんは、微笑んだ。けれど目を細めたその笑みは、今日出会ってから何度も見たそれとは全く違っていて。
「そうですね」
その柔らかかった声は固く、綾辻先生の目のように冷え込んでいた。