殺人探偵と舞台女優
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その人は、微笑んだまま私達へと歩み寄ってきた。コツ、コツ、とヒールが床を叩く音。その歩みに伴って揺れるドレスの裾。ふわりと華やかな香りが鼻に入ってくる。
「はじめまして」
そう言って、青の目の女性は膝を折って軽く腰を下げた。
「リアと申します。ヨコハマの劇団で舞台女優をしている者です」
「舞台、女優……?」
ぽかんと復唱してしまった。女優さんだったのか。でも確かに、言われてみればそんな気もする。すらりと伸びた背は高く、笑顔はアイドルがするような可愛らしいものではなくポスター写真のような微笑。
「はい」
私の小さな呟きすら聞き取って、リアさんは私へと微笑んだ。ドキリとしてしまったのは、こんなに間近に女優さんを見たことがなかったせいだ。
「以後お見知り置きを。……私に何かご用でしたか?」
「え?」
「ずっとこちらを見ていらしたから」
その問いは私に向けられたものではなかった。青が綾辻先生を映す。綾辻先生もまた、目を細めて青を見遣る。
「いや」
「気のせいだったのならすみません。仕事柄、人の視線が気になるもので」
リアさんは嫌な顔一つせず、先生の簡潔で味気ない返答に戸惑うことなく、にっこりと笑う。不思議な人だ。初めて会ったというのに、何故か親しみを感じている。その笑顔のせいなのだろうか。
「もしよろしければ、お名前をお伺いしても?」
「綾辻だ」
で、と綾辻先生は私をちらりと一瞥する。
「助手兼家政婦の辻村君だ」
「助手はともかく家政婦って何ですか!」
「違ったか、ではメイドか」
「それも違う!」
「最近珈琲の淹れ方が上手くなった。練習の賜物だな」
「そ、それはどうも……っておだてないでください!」
よりによって何で人前でこんなやり取りをしなくちゃならないんだ。リアさんは「仲が良いんですね」なんて言ってにこにこと私達を見守っている。その様子は嘘をついたりお世辞を言ったりする人間のそれとは違っていた。この人は、思った通りに行動し発言する素直な人なんだ、とこっそり思う。
嘘をついたり心にも思っていないことを言ったりした瞬間、人間は一定の動作をする。視線の動きや手の動きにそれは現れる。けれど、彼女にはそのどれもがない。
リアさんの発言は全てが真実なのだ。でなければ、彼女は嘘を隠せるほどの凄腕だということになってしまう。普通の舞台女優がそれほどの腕を持っているわけがない。ここは舞台ではないのだ、どんなに凄い役者だって舞台の外ではただの人間になる。
「これでわかっただろう」
綾辻先生は呆れたように言う。その言葉は誰に向けられたものか。
「辻村君はこういう人間だ、探りを入れても何も出て来ない」
探りを入れる? 誰が? 私に?
「……ご不快にさせてしまってすみません」
綾辻先生の奇妙な一言に対し、なぜかリアさんはすまなそうに眉を下げた。
「探偵さんというのは誰もが洞察力に優れていらっしゃいますね」
「誰もが?」
「探偵の知人がおりまして」
「ヨコハマか」
「ええ。一人は北米ですが」
とんとんと会話が進んでいく。私一人が置いていかれている。会話に入りたいけれど、何について話しているのか一切わからない。
探りとは何だ? 先生は何を指摘した? そしてなぜ、リアさんは申し訳なさそうにしたんだろう? この人は普通の人だ。隠し事ができなそうだし、平和ぼけしていて、一緒にいてただただ心地良い。探りだとか何だとか、そんなことをする世界の人じゃない。
「綾辻さんは私立の探偵さんなのですか?」
「そのつもりだが、仕事を選べない上探偵事務所は常に監視されていて気を休める暇もない」
「それは……大変ですね」
話はすんなりと進んでいく。あの手この手で監視の目を掻い潜っているくせに、ぬけぬけとよく言うものだ。
と、それよりも。
「せ、先生!」
呼べば、先生とリアさんは同時にこちらを見た。
「何だ、辻村君」
「何だ、じゃないです! ちゃんと説明してください! 探りってどういう意味ですか! 私にわからない言葉を使ったり、合言葉とか暗号とか、あ、逢い引きだとかッ、そういうことは残念ですけど今の先生の立場上許されませんよ!」
「……君はつくづく平和だな」
辻村君、と先生は再び私を呼んだ。その顔は呆れ返っている。こんなこともわからないのか、と言いたげだ。けど、仕方がない。私は探偵じゃない、特務課のエージェントだ。だからこそ、わからないままではいられない。リアさんとの会話が何かを隠しているのなら、それを明らかにしなければいけないのだ。綾辻先生に秘匿は許されない。それが、綾辻行人という人が負う宿命だ。
「そのままの意味だ。探り、という言葉を知らないわけではないだろう」
「言葉の意味ならわかってます。そうじゃなくて」
「綾辻さん」
ふと、リアさんが何か言おうとした先生を制する。そして私の方を見た。
「綾辻さんのことは以前より存じ上げています」
「……え?」
「お会いしたのは今日が初めてです。……”殺人探偵”だとか”凍った血の死神”だとか呼ばれているとのことだったので、もっと恐ろしい風貌の方なのかと思っていたのですが」
凍った血の死神。
その呼び方をする人は限られている。綾辻先生の非情で無感情な異能――加えて、おそらくはその性格も――を称した、いわば嫌味。異能特務課と相容れない、司法省の関係者がよく口にしているイメージの言葉だ。
それを、なぜこの人が。
「……あなたは、一体……」
動揺を隠せないまま問えば、リアさんはにっこりと笑った。あたたかみのある、楽しげな笑顔だ。ついさっきまでこの人について疑うような心地になっていたのが勘違いだったかと錯覚するほどに、眩しくてこちらまで笑顔になってしまいそうになる、そんな。
「ヨコハマの武装探偵社という会社と親しくさせてもらっていまして、そこで聞いたことがあるんです」
ヨコハマの武装探偵社、といえばあの、少数精鋭の異能力者集団ではないか。構成員の多くが異能力者という、軍警が手に負えない事件を担当する会社。
「いつかお会いしたいとは思っていました。偶然とはいえこのような機会に恵まれてよかったです」
「橋田議員に脅されて来たのかと思ったが、そうではないようだな」
本人がこの場にいるというのに何という話題の出し方だ。
「脅されてはいませんよ。ただ、お金と立場のある方と懇意になれるというのは好都合ですから」
答える側も形の良い笑みに反して内容が生々しい。氷のような無表情で無遠慮なことを言い出す綾辻先生に、陽光のような笑顔で不穏なことを返すリアさん。相性は悪くないかもしれないが、大勢の前に二人を揃えてはいけない気がする。
『皆様』
わん、とマイクが落ち着いた女性の声を拡張して会場に響かせる。会場の正面を見れば、ステージへ照明が向けられ、明るくなっていた。ステージ横でマイクを握っているのは橋田議員の秘書、山中聡美だ。
『本日はお忙しい中ご参加いただきましてありがとうございます――』
パーティの始まりを告げる言葉と共に部屋の奥からホテルの従業員がお酒やビール瓶を運んでくる。どうやら乾杯があるようだ。私達はそれぞれグラスを手にする。が、無論私は業務中なのでノンアルコールを頼んだ。仕事なのだから仕方がない。どんな時も気を緩められないのが、監視業務だ。
皆それぞれにグラスを手に持ち、ステージの方を向いてその時を待つ。秘書に名前を呼ばれた橋田議員がステージ上で、最近の政治や自分の活躍、それを応援してくれている有権者のことなどを長々と話す。政治家は皆、口が上手い。誰かのことを面白おかしく持ち上げたかと思えば、自分の理想について真面目な顔で語り出す。部署の先輩からの説教もこのくらい面白ければ良いのに、とこっそり思った。
『それでは皆様、お待たせいたしました!』
もはやマイクの要らない大声で橋田議員がグラスを掲げる。
『乾杯!』
誰もが待ちに待った一言が発せられた。皆が一斉にグラスを軽く掲げ、一口含み、そしてテーブルにグラスを置いて拍手をする。
こうして、橋田議員のパーティは幕を開けたのだ。