殺人探偵と舞台女優
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綾辻先生は探偵だ。綾辻探偵事務所という、大通りに面した煉瓦造りの建物で仕事をしている。とはいえ、綾辻先生が何の仕事をするかを本人が決めることはできない。特一級危険異能者である綾辻先生の行動は常に見張られていて、許可なしに依頼を受けることは固く禁じられているからだ。
綾辻先生の異能は、犯人を事故死させる能力だ。対象者が犯人として先生に犯行を明らかにされた場合、それは誰にも例外なく訪れる。不可避で、絶対的。誰の意思もそこにはない、必然的な結末。つまり綾辻先生はその気になればあらゆる人を事故死させられる。だからこその「特一級危険異能者」という区分であり、事務所は常に狙撃手によって監視され、私は先生の身近な場所で先生を見張っているのだ。プライバシー侵害も甚だしい監視を受けている本人はというと、大した抵抗はなく、しかしふと気が付けば私達の監視網をひょっこり抜けて好き勝手しているのだから困ったものである。
そんな綾辻先生だけれど、その推理力は確かなものだった。この前なんて林間学校で起きた児童殺人事件において難なく不可能犯罪を看破し、犯人を言い当て、そして――犯人を事故死させた。後に京極夏彦という人物へと繋がるこの事件については、まあ、別の機会に話すとして。
綾辻先生がこんな高級ホテルのパーティに呼ばれた訳はその事件がきっかけだった。先生の噂を聞きつけたとある政治家が先生のことをいたく気に入ってしまったのだ。異能や特務課を認識し理解し支援しているその人から是非会いたいと言われ、断るに断れなかったらしい。
異能特務課は内務省の組織だ。しかし特務課自体は公になっておらず、表向きにはないことになっている。だからこそあらゆる特権が許されており、そのことから司法省からはかなり睨まれていて、少しの失敗が課の存続を脅かしてしまう状態だ。そんな特務課が自分達を容認してくれている政治家の頼みを断れるわけもなく、私の監視を含めた複数の条件を付けることで何とかパーティ参加を実現させた。
「うわあ」
車から降りてホテルの中へ入った瞬間、私は大人気なく間抜けた声を出してしまった。吹き抜けのエントランスホールの天井を飾る大きなシャンデリア、白い大理石の床、細やかな彫刻の入った壁。どこからどう見ても高級そのものだ。
「凄い……」
「口を開けていても餌は降ってこないぞ」
呆然とする私を置いて、綾辻先生が横をすり抜けながらあっさりと言ってくる。いつの間に話をつけたのか、白いシャツに黒いパンツ、小さな黒い蝶ネクタイの男性が――そのきっちりとした態度からして、おそらくホテルの従業員だろう――綾辻先生をどこかへ案内しようとしている。
「わかってますよ! というか餌って何ですか! 鯉じゃあるまいし!」
しょうがないじゃないか、こんな豪華な建物に入る機会なんてそうそうないのだから。特務課は政府の機関だ、つまり薄給の公務員。仕事の過酷さに対してお給料はそんなに良いわけじゃない。こんなところに泊まるくらいなら別のことに散財する。
「なら、その阿呆面は辞めた方が良い」
隣に並びながら反論した私へ、綾辻先生は呆れもせず真顔で続ける。
「記者に記事を書かれるぞ。タイトルはそうだな、『政治家のパーティに大口を開けた女エージェント、その正体は未公然の秘密組織の構成員か』。君の阿呆面のおかげで特務課もようやく日の目を見るわけだ」
それは困る。困るどころではない、大問題だ。グッと唇を引き締めながら、けれど私は耳に引っかかった一言を反芻せずにはいられなかった。
「記者?」
「雑誌記者だ。ロビーのソファに一人、先程トイレから出て来た男もそうだろう。予め呼んだのだろうが」
ちら、と背後を見遣る。綾辻先生が言った人達は確かに存在はしていた。ロビーのソファに座っている男が一人、男性用トイレから出てきたばかりの男が一人。けれど彼らはカメラを持っているわけでもメモ帳を持っているわけでもない。どうして記者だとわかったのだろう。
会場へ向かいながらそれを訊くと、綾辻先生は露骨に嫌そうな顔をした。
「そのくらい自分で考えろ。脳を使わないとさらに劣化するぞ」
「元々劣化しているみたいな言い方しないでください!」
「なら彼らを記者だと見抜けるようになるんだな。彼らは常に記事のネタを探している。通りすがる人の顔だけではなく手元、鞄の持ち方、服のブランド、そういったことにも目を光らせている。あの二人のようにな。――君は周囲を見ていなすぎる。特務課の存在が世間に知らされるのも時間の問題だな」
とはいえ、と先生は案内人の背中を見つめながら続ける。
「君達のことだ、その記事が出る前に揉み消すだろうが」
そこは否定できない。あらゆる自由が許容されている日本国内ではあるが、それは表向きの話。特務課の存在は異能者の管理に不可欠だ。異能者の管理のためならば、特務課は事件そのものをなかったことにすることもするし、犯罪者の犯罪を揉み消すことだってする。そうやって私達はこの国を騙し、国民から隠匿し、平穏を偽装し、そうして皆に平和を与えている。国民が平穏を享受できているのは、ひとえに異能特務課が未公然の組織だからだ。つまり特務課の秘匿性は絶対に崩されてはならない。
案内人の誘導で、私達はとある部屋へと辿り着いた。大きな会場だ。結婚披露宴を開けそうなほどの、カーペットも壁も天井も豪華な一部屋。席の場所は決められておらず、どうやら立食式のようだった。既に多くの人が集まっていて、それぞれ知り合いと話したり名刺交換をしたりしている。何だか場違いな気もしてくるような、華々しい世界がそこにあった。
「み、見てください先生!」
私は浮き立つ声を抑え切れないまま、綾辻先生のスーツの裾を引っ張る。
「あれ、国民的人気歌手のMですよ! 彼女と話してるのはハリウッド俳優のエドワード・ジェンキンス! ああっ、その奥にいるのは尾崎春隆じゃないですか!」
「今年のノーベル化学賞受賞者か」
「凄い、凄いですよ! 後でサイン貰わなきゃ……!」
「君はあくまで俺の探偵助手としてこの場にいることを忘れるなよ、凄腕エージェント」
皮肉めいた綾辻先生の言葉さえ聞き流せるほどに、私は興奮していた。ホテルの内装以上に豪華だ。こんなパーティに参加できる日が来るだなんて、この仕事をしていて良かったと心の底から思う。
「やあ、探偵さん!」
たくさんの人達に囲まれていた恰幅の良い男性が両手を大きく広げて歩み寄ってきた。豪快で朗らかな大声だ。途端、一気に視線がこちらに集まってくる。
「はじめまして、橋田と申します。お会いできて光栄ですよ!」
広げた両手で空気を寄せ集めるかのように腕を動かして、その人は綾辻先生へ両手を差し出す。綾辻先生は慣れた様子で片手を伸ばした。それをがっちりと両手で握り、男性はにこやかな笑顔のままブンブンと大きく綾辻先生の手を振る。
橋田誠国会議員。元内務省大臣、つまり私達異能特務課の元ボス。その立場故にこの人の駄々を拒み切れず、特務課は泣く泣く綾辻先生をこのパーティへと参加させることにしたわけだ。歳は五十二。三十三歳の時大手企業を辞め政治家を志すのを機に離婚。三年前に二十歳年下のバツイチ一般女性と再婚したことで世間を賑わせた。今は妻の連れ子である小学生の娘と息子がいるとか何とか。
「橋田議員、この度はご招待感謝する」
「いえいえ、こちらこそ来ていただけて嬉しいですよ! まさか本当にお会いできるとは! いやはや、何と素晴らしいことか!」
大声のままそう言って、橋田議員はガハハと大口で笑った。体格も動きも声も大きな人だ。内緒話が苦手そうなのに現役議員なのだから、きっと姑息な手で地位を確立しているような輩とは違うのだろう。人柄も良いと評判で、国民からの信頼も厚い。ただ、何でもかんでも率直に口に出してしまうので、敵がいないわけではないようだ。
「先日はお世話になりました! おかげで息子は今も問題なく学校に通えております! いやあ、息子の林間学校でまさか殺人が起こるとは!」
そこまで言い、橋田議員はふと周囲にいた人々へ向き直った。紹介するように綾辻先生を手のひらで指し示し、その大声を張り上げる。
「こちらの綾辻先生は私立探偵でしてな、私の息子が巻き込まれた殺人事件をあっという間に解決してくださったのですよ!」
「おお、それは凄い」
「まるで探偵小説のようなお話ですねえ」
橋田議員の話に、誰もがにこにこと頷く。まるで台本を演じているかのような一様な動きは奇妙だった。が、相手は国会議員、皆ご機嫌を損ねたくないのだろう。
「ええ、ええ、息子も同級生の死に面したことよりも先生の推理力に脱帽したようでしてな! 毎日先生のお話ばかり」
そこまで言って、橋田議員はふと顔をしかめた。顔を背けて口に手首を当てて「ごほ、ごほ」と咳を数回する。そばに控えていた女性秘書が「先生」と何かを差し出した。薬包紙だ。
「ちょいと失礼」
苦しげに言いながら、橋田議員は薬包紙を開けて上を向き、中の粉薬を一気に口の中へ注ぎ込む。そして秘書が手渡したペットボトルの飲料水をグイグイと飲んだ。
「いやあ、何せこのでかい声でして」
透明な飲料水を飲み干した後、橋田議員は大きく口を開けて笑った。
「喉がね、痛くなってしまうんですわ。家の近くの婆ちゃんが店をやってる漢方の薬がよく効くもんでねえ」
「びっくりしましたよ先生」
この光景を見慣れているのだろう、隣でスーツを着こなした男性が冗談めかして橋田議員の顔を覗き込む。
「アブナイお薬なのかと」
ドッと笑いが起きた。橋田議員が「いや、その話題は良くないですよお」とわざとらしいしかめ面を作る。橋田議員の元妻が違法薬物の所持で逮捕されたのは今から五年前のことだった。離婚した後の妻の不祥事など全く関係ないだろうに、ここぞとばかりに追及されるのだから政治家は大変だ。
「もしもの時は捜査をお願いしますよ、探偵さん」
橋田議員の周囲からの冗談に、綾辻先生はピクリとも笑わずに肩を竦めた。
「さてな。捜査は専門外だ」
それもそうだ、綾辻先生は探偵であって捜査官ではない。それもわかっていたのだろう、再びドッと笑いが起きる。何とも賑やかな人達だ。
「おお!」
ふと橋田議員が私達の後ろへと意識を向けた。誰かが新たに会場へ入ってきたようだ。何の気なしに、私は背後を振り向く。
初めに見えたのは、ラメが煌めく緑の布地だった。朝霧の中の若葉を思わせる鮮やかなそれは、着用者の動きに合わせてふわりと揺れる。カツ、と同じ色のヒールが床を叩いた。
目を奪われる、という表現が一番適切だったと思う。私はその人から目が離せなかった。ドレスの裾から覗くすらりとした足。布地が張り付いているにも関わらず理想的な輪郭を保っている腰。小さなポーチをさり気なく持ち、彼女は赤い唇で形の良い笑みを浮かべる。
「すみません、少し遅れてしまったようで」
張りのある、しかし艶やかで聞き心地の良い声。緩く弧を描く目元。
「橋田先生はいらっしゃいますか?」
「おお、よく来てくださった!」
橋田議員が底抜けに明るい声を上げた。
「突然の招待にも関わらず出席していただけて光栄の極み! 私が橋田です! 先日の公演は素晴らしかった!」
橋田議員の大声に嫌な顔一つせず、彼女は「ありがとうございます」とにっこり微笑む。編み込まれた亜麻色の髪には宝石が輝いていた。けれど照明を反射してキラキラと輝くそれに負けんばかりの、青い目が印象的だ。それが柔らかく笑むと、女である私でさえ身動きすることを忘れてしまいそうになる。見惚れてしまいそうになるほどの美しい人だ。
「……綾辻先生」
僅かに顔を寄せて、私は先生にこそっと囁く。
「あの人のこと、知ってます?」
「……いや」
綾辻先生はいつもと変わらず淡々と答えた。けれど先生にしては短い、端的な答えだった。
「公演、ってことは芸能人なんだと思うんですけど……テレビではあまり見たことがないです、誰なんでしょう?」
「さあな。興味のないことは覚えていない」
「とか言ってますけど、先生ったらずっとあの人のこと見てるじゃないですか」
少しの悪戯心から、指摘してみた。すると先生はその絶対零度の眼差しをそのまま私へと向けてくる。不機嫌そうだ。彼女から目を離さないことを指摘されたからだろうか。
「辻村君」
「はい?」
「君はとことん残念な生き物だな」
「……はい?」
「良く見ろ」
そう言って綾辻先生は再びそちらを見る。見たことのない綺麗な人が、橋田議員やその取り巻きとにこやかに話している光景。
「あの女……」
綾辻先生は何かを言ったらしかった。けれどその声は周囲の雑音に紛れるほど小さくて、聞き逃してしまう。
「先生?」
何を言ったんですか、と私は尋ねようとした。女性から先生へ、その顔を見上げようと頭ごと視線を動かそうとした。
確かに、そのはずだった。
話を終えたのだろう、女性が橋田議員らへ軽く頭を下げる。そしてーーこちらを何気なく見た。
意図したわけではない動き。視線に気がついてそちらを見てしまった、その程度の軽い動作。
なのに。
私の視線を受け止め、焦点を合わせ、女性が微笑んでくる。雨上がりの空から落ちてきた雫のような、澄んだ青。
目が離せない。