殺人探偵と舞台女優
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私の名は辻村。異能特務課のエージェントだ。悪を叩き市民を救う、一流のエージェント――になる予定だ。予定、というのは、私が新人だから。けど新人だろうが何だろうが、仕事をきちんとこなせばいつか、スパイ映画の主人公のように格好良いエージェントになれる。たまに敵に嵌められて銃撃戦になったり、殺人犯に仕立て上げられそうになったり、散々だけれど、いつかそうなってやるんだ。私は毎日努力する。戦闘訓練をかかさず、身内との連携も絶やさず、常に周囲を警戒し、そしてどんな仕事だってきちんと成し遂げてみせる。
それが例え、車の運転だとしても。
「そこを左だ」
助手席から唐突に声が上がる。無感情で簡潔な指示。声の主はというと、やはり冷たい眼差しで手元の新聞を眺めている。景色を見ているわけでもないのに、その遮光眼鏡の奥の両目は車の位置を正確に把握しているようだった。
ゆったりとした座席にゆったりと腰掛けた、色素の薄い肌にくすんだ金髪の男性。珍しくスーツを着たその人は無論、私の恋人でも上司でもなく、仕事仲間でもない。強いて言うならば”仕事の対象”か。
綾辻行人。万人を死なせることのできる、特一級危険異能者。核爆弾並みの危険人物。それがなぜ私の車の助手席で偉そうに行き先の指示を出しているのか。答えは簡単、仕事だからだ。
私は何も言わずに左へウィンカーを出した。ブレーキを踏んで減速、ハンドルを回して曲がり角を曲がる。ちら、とルームミラーを見、尾行がないことを確認。ついでに僅かに映った自分の前髪を確認。うん、キマっている。目力もいつも通り、鋭くて油断ない。
「次の信号を右だ、辻村君」
パサ、と新聞のページをめくりながら綾辻先生は言った。
「前を見て運転したまえ」
「してますよ」
「なら上目遣いをし続けるのをやめた方が良い。後方の車の運転席の様子はミラーでよく見える、先程から前の車の運転手が君を見て笑いを堪えているぞ」
「え、本当ですか!」
慌てて前方の車へと目を向ければ、赤のセダン車はブン、とエンジン音を唸らせてスピードを上げた。まるで逃げるかのようにぐんぐんと距離が空く。市街地なのだからあまりスピードを上げないで欲しいものだ。それに、このタイミングでその動きは、正直なところ傷付く。
「君はもう少し周囲を見る癖をつけろ」
落ち込む私へ全く見向きもしないまま、綾辻先生はパサリと新聞を折り畳んだ。
「周囲は見ていますよ。私だって特務課のエージェントなんですから」
周囲を見る癖なんて、むしろエージェントになるための訓練を受けていた頃から身に付いている。敏腕エージェントなるもの、尾行の確認から監視カメラの位置から死角の有無まで、どこを歩いていても走っていても運転していても、無意識下で全て行っているのだ。
「なるほど、そうか」
綾辻先生は興味がないとばかりに腕を組む。
「なら、先程の信号を直進した理由は何だ」
「え? あ、ああっ……!」
しまった。さっき先生から「次の信号を右だ」と教えてもらっていたのに、会話に夢中で通り過ぎた。
「……次の信号で右折します」
「是非そうしたまえ」
弱々しく言った私に、綾辻先生は文句を言うことも冗談を言うこともなく、淡々と返してくる。愚痴愚痴と言われるよりはマシかもしれないが、これはこれで身に染みる。早目に出てきたので約束の時間に遅れるようなことはないだろうことだけが私の救いだった。
次の信号でようやく右折する。瞬間、視界にそれは入ってきた。
高層建築物の長辺に沿うように設置された分厚い看板。そこに書かれた洒落た横文字。
"Fin du monde"
綾辻先生が呼ばれたパーティの会場がある、高級ホテルだ。