願いが叶う教会
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銃声が講堂に木霊する。硝煙が霧に混じる。
けれど銃口は、明後日を向いていた。
「……ッ」
息が引きつる。
国木田の銃口は寸前で逸らされていた。血に汚れた白い手袋が、銃身を強く押しのけていたのだ。国木田の前に、国木田の姿を男から隠すように、赤に染まりきった白い背が立ち塞がっている。
目の前に切っ先がある。振り下ろされたそれは、明らかに国木田を狙っていた。けれど、今、国木田の眼前で、それは。
すでに肉へと突き刺さり、血を滴らせている。
「……ッあ……」
呻き声、吐き出される血。ぼたた、と血が落ちる音が耳に届く。膝上にその一部が落ちて、国木田のズボンにいくつかの赤い円を描く。叫べない、呼べない。声が、出ない。
音を出しただけに終わった銃が床に落ちる。それでも庇うように、彼女の腕は国木田の前にかざされたまま動かない。胸に軍刀を受けたまま、赤と白のウェディングドレスを纏った花嫁姿の彼女は二人の男の間に立ち塞がっていた。
「……もう、傷付けなくて、良いのです」
彼女は彼女ではない誰かの声で呟く。
「もう、良いのです。私はあなたのそばに、こうして、現れました。もう、あなたは、誰も……傷付ける必要は、ないのです」
「……やっぱり、君が」
軍人が呆然と彼女へと呟く。
「君が、僕がずっと会いたがっていた花嫁なんだね」
「はい」
「クリス……!」
引き戻そうと手を伸ばす。自分の前にかざされた腕を掴もうとし――その腕が変わらず国木田と軍人との間に差し出されていることに気付いた。
彼女が未だにまやかしに踊らされているというのなら、国木田を庇うように立つ理由はない。
これは。
「……クリス」
まさか。
「お会いしたく、思っておりました」
軍刀を胸に受けたまま、クリスは――クリスが演じる花嫁は、肺に穴が空き空気が漏れていく痛みに抗いながら声に笑みを乗せる。
「ずっと、この場所で……お待ちして、おりました」
「……やっと、やっと会えた」
「はい」
「本当に、君なんだね」
「はい」
軍人の声にも喜びが乗る。震えるそれは、歓喜によるもの。家族と戦争に引き裂かれたまま死に別れた愛しい人の登場に、耐えきれなくなった感情の嵐。
「ごめんね」
その震える声が、今まで呟かれなかった言葉を紡ぎ始める。
「ごめんね、帰って来れなくて……ずっと待たせて、苦しい死に方をさせて、ごめんね」
「何も苦しくなど、ありませんでした」
クリスが微笑む。それはきっと、誰よりも、何よりも、優しく、愛おしげな、聖女の微笑み。
「あなたともう一度、会えると……信じておりましたから」
軍刀の先が白い霧に薄れ始める。クリスと軍人の姿もまた、白い霧に包まれ始める。朝霧に差し込む陽光のように、天井からの光が二人を柔らかく照らし出す。
「参りましょう、あの別れの先へ。もう二度と……失われることのない、幸福の先へ」
「行こう、一緒に。”僕”が待ってる。これで僕もようやく終われる……君と一緒に、向こうへ行くよ」
光に包まれるかのように白い霧が二人を覆っていく。講堂が煌びやかな内装を失い、色褪せていく。
軍人の姿が軍刀と共に白い霧に溶けていくのを、国木田は見つめていた。霧はクリスと国木田以外のものを包み、あるべき姿へと戻し、そしてあるべき場所へと戻そうとしている。
終わったのだ。
彼の長い放浪が、目的の叶わない人生が。
出会えないまま悲劇として終わるはずだった、物語が。
彼女の手で。
昼間の強い陽光が講堂だった天井のない廃墟に差し込んでくる。割れたステンドグラスが床に散らばっていた。キラキラと目を刺す痛みが七色のガラスから放たれる。神々しさの微塵もない、現実的な光景だった。
目の前に佇む白いドレスが七色に照らされていた。編み上げられた亜麻色を覆うようなベールが廃墟に流れ込む風に揺れていた。やがてそれは、彼女の動きに合わせて上へと舞い上がり――クリスが床にしゃがむようにくずおれる。
反射的に手を伸ばす。抵抗なく、その体は国木田の腕の中に収まる。糸の切れた人形のようにだらりと腕が床に垂れ下がり、国木田の胸に彼女の頭部がころんと寄りかかる。
クリスは、動かなかった。
二箇所の傷を生々しく露出させながら。目を閉じ、胸の上下もないままに。
何も。
――まるで。
「クリス!」
今まで忘れていたかのように国木田は怒鳴った。揺すった。叫んだ。呼んだ。
「クリス、起きろ! おい! 目を覚ませ!」
白いドレス、それを染めながらもこれ以上の広がりは見せない赤。
――白い着物に広がっていく赤。
重なる。思い出す。
『国木田様』
聞こえてくる。
「させるか!」
床に残っていた白い霧が彼女をも掻き消そうとでも言うようにたゆたっている。その白から掬い上げ遠ざけるように抱き上げ、抱き締め、叫ぶ。
「二度とこの手の中では誰のことも死なせん! 死なせるものか! 俺は、もう二度と! 我が理想にかけて!」
祈る。
「俺は必ず、あなたを救うと! 救う、と……! だから……!」
白い霧が白く輝く。陽光を反射したそれは、自ら発光するように――陽光を反射した春の残り雪のように――講堂を白く、白く、覆い尽くしていく。
人の死には二つ、あるのだという。
一つは肉体が生命活動を停止した時。
そして、もう一つは――人の記憶から、忘れ去られた時。
風雨に晒された講堂の中で、一人の男がひざまずいていた。壊れたステンドグラス越しに昼間の陽光が床へと突き刺さり、その腕の中に眠る少女の肌を白く輝かせる。まるで二度と手放さないとばかりに、男はそれの肩口へと顔を埋め、背を丸めていた。
祈るように。
十字架が見下ろす、講堂の中央で。
――ぴくり、と少女の腕が動く。
錯覚のようなその微かな動きは、そのまま、腕を持ち上げ、男の頭部へと指先を伸ばした。陽光を受けて金に輝くそれへと少女の指が添えられる。ハッと男が顔を上げ、手の中の少女へと目を落とす。
「……どう、したんですか?」
男の頬に手のひらを滑らせながら、少女は不思議そうに目を瞬かせた。
「国木田さん」
男の名を、呼んだ。
「……クリス」
「はい」
「どうして」
「そう尋ねられても……」
亜麻色の髪の少女は観察するように自らの腕を眺め、そして簡素な己の服を見下ろす。
「特に怪我もないですし。えっと……気を失ってしまったんでしょうか? ここ、どこです? 講堂ですか? いつの間に入っていたんでしょう? 教会の方の調査は終わったんでしたっけ?」
「……覚えていないのか」
「何をですか?」
きょとんとする少女に、男は黙り込んだ。沈黙が静かな廃墟に広がっていく。答えのないその静けさに、少女は困ったように口を噤んだ後「あ、でも」とふと呟く。
「何だか……大切な、愛しい人に会った気がします。ウィリアムのような人に……夢ですかね?」
男は呆然と手の中の少女を見つめていた。その視線に気付いた少女は逃げるように視線を逸らして、逃げだそうとするように体を捩って、俯いて、そのどれもが無駄に終わった。
「あ、あの、えっと、国木田さん。ち、近……いや、その、とにかく大丈夫なので、離していただいても良……ってあの……!」
うわ、と悲鳴にしては可愛げのない声が少女から上がると同時に、男は再び少女の肩口に顔を埋めるように抱き締めていた。あわわ、と少女が何かを言いかけて失敗したような奇妙な声を上げる。
「あの、あの、えっと、あの!」
「……良かった」
「ふえ? え? 何、何ですか、何なんですか……!」
わたわたと少女が両手足をばたつかせる。それでも離れない男の腕の強さに何かを思ったのか、少女はやがて混乱を表現するのを止めた。手足をそっと脱力させ、再び腕を持ち上げて、指を金糸へと乗せる。慈しむように、それを撫で、抱き寄せる。
「……ただいま、戻りました」
少女の報告に、返事はない。荒れ果てた講堂に相応しい静寂の中で、光の筋だけが二人を照らしている。
まるで、死者が二人を見守るように。