願いが叶う教会
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***
蹴破った扉の先には講堂があった。しかし奇妙な講堂だった。白い霧が充満しているだけではない、綺麗すぎる。まるで最近まで手入れされ掃除され、大切に使われてきたかのような。
壁にも天井のステンドグラスにもヒビ一つない。神々しさすら覚えるほどの柔らかな日光が天井から差し込み、壇上を照らしている。
そこに立つ、二つの人影。一人は軍人だった。そしてもう一人は。
「……クリス」
白いベールに覆われた亜麻色の髪、白いレースのドレス。その丈は長く、床をも覆い、まるで雪の中に現れた妖精のよう。手元の白と桃色を基調とした花束が荘厳な講堂に華やぎを与えている。レースが光を反射する。露出した肩が目映い。白い霧が彼女を包み、輪郭を曖昧にしていた。
ウェディングドレスを着た少女がこちらを見る。既に濡れていた青色の目に再び涙が溜まり、その白い頬を伝い落ちていく。色の増した唇が何かを呟きかけて震える。
息を呑んだ。
――純白の美が、そこにはあった。
これは、これはどういうことだ。混乱が脳を強張らせる。荒れ果てた教会の隅、同じく荒廃した講堂へ入り口の板をある程度外してから壊れた扉を蹴破った。そこにあるのは、市警の資料にもあったような荒廃した講堂であるべきだったのだ。
なのに。
祭壇に掲げられた十字架、その前に佇む二人の男女。まるで二人きりの婚礼を挙げている最中のような、この光景は一体。
「さあ、僕の花嫁」
軍人が彼女を促す。それに従い、彼女はそちらへと顔を向ける。その横顔に浮かぶ相手への思慕に、傍観者でしかない国木田の心臓が突然脈拍を強く速くする。それは決して心地良いものではなかった。嫌悪に似た、動悸。
「もう離れないよ。ずっと、ずっと一緒にいよう」
軍人の片手が彼女の肩に触れ、軽く抱き寄せる。ぞっと何かが背筋を這う。
それは戦闘経験によって培われた危険予知でもあった。
軍人のもう片方の手が何かを持っている。柔らかな陽光を受けて鋭く輝いたそれに、叫びすらもできないまま駆け出そうとする。けれど両足はそこに食い止められているかのように動かなかった。白い霧がドロリと足に、全身に、まとわりついている。
動けない。それでも、目の前の光景は止まらない。
「やめろッ……!」
手を伸ばす。制止するには遠い距離。
届かない先、七色の陽光が二人を祝福しているその下で。
「――一緒に逝こう、死んだ”僕”が唯一再会を願った人」
男は軍刀を彼女の胴へと突き刺した。
かは、とクリスが血を吐いた。それはドレスに落ち、白を赤く汚していく。胸元にも同じ色が広がっていった。花束がクリスの手から落ちる。
国木田はそれを見ていた。血が、赤が、白い彼女を汚していく様を、見ていた。全身から力が抜けていく。それこそその場に落ちていく赤が自らのものであるかのように、血の気が引いていく。ドロリとした霧に自分そのものが溶けていくような虚無感。
「……ッ」
ぐ、とクリスの手が軍刀を掴む。軍刀と彼女の手の間から新たな血がこぼれ落ちていく。それとは反対に、クリスは顔を上げた。自分を刺した男を見上げたその表情に、国木田は肉を裂くような胸の痛みで叫び出したくなる。
彼女は――そっと、微笑んでいた。
受け入れるように。長らく手に入らなかった答えを、手に入れたかのように。優しく、喜ばしげに、彼女は微笑んだ。
別れ際に涙を堪える乙女のように、微笑んだ。
わかっている。その笑みの意味を、国木田は知っている。
彼女はずっと、望んでいたのだ。遠い昔に殺めてしまった友人との再会を、彼への謝罪の言葉を伝える機会を、そして。
彼に、断罪される日を。
今、偽りの相手によってそれは成された。
「……君は、その、顔は」
男は目を見開く。信じ難いものを見たかのように、そして――これこそが、と求めていたものを探し出せた歓喜に口元を緩ませながら。
「君だ……君だったんだ、”僕”が会いたがっていたのは君だったんだ! やっと見つけた! 他の人は違った、けど君は確かに……確かに、彼女なんだ……!」
突き放すようにズルリと軍刀が引き抜かれる。血がさらに傷口からあふれ出る。床に崩れ落ちたクリスを気にすることもなく、男は血に汚れた軍刀をさらに振り上げた。
「”僕”が向こう側でもう待ってる! さあ逝こう、”僕”が愛した唯一の人!」
「やめろおおおおおおお!」
国木田は駆け出した。泥の中を走るように強引に手足を動かす。鍛え上げた体でも数歩で息が切れた。けれどそのまま力ずくで祭壇へと駆ける。振り下ろされる軍刀の柄を引っ掴み、男のみぞおちに拳を突き入れ、そのまま殴り飛ばす。
「ぐあッ」
男が吹っ飛び、講堂の壁に衝突する。静かに漂っていた霧がぶわりと乱れる。それを見守ることもなく、国木田は床に倒れ込んでいたクリスへ手を伸ばし、その背に腕を回す。腕に、胸に、じわりとあたたかな血が染みてくる。血臭に息を詰めながら、普段よりも華やかなドレス姿の彼女を横抱きに抱えた。
まずはこの講堂から出なければ。ここは明らかに奇妙だ、クリスの服と様子もだが、昼間だというのに霧が濃く、動きも呼吸もままならない。ここを訪れた女性を錯乱させる異能なのだろうか。これが傷害事件の真相なのだろうか。詳細はまだわからない。とにかく外へ、と講堂の中を突っ切り扉の外へと飛び出す。
飛び出そうとした。
「な、に……?」
国木田は走っていた。走っていたはずだった。走った先で、両開きの扉の向こうへと飛び出していたはずだった。けれど気付けば、国木田は講堂の中央で佇んでいる。天井からステンドグラスを通った陽光が七色になって降り注ぎ、両脇には長椅子が一方向を向いて整然と並んでいた。白い霧がゆらゆらとたゆたっている。もう一度、両開きの扉の向こうへと駆け出した。
けれど、扉を通り抜けた先はやはり講堂の中央で。
おかしい。明らかに、おかしい。
「何だ、これは……」
「僕は願いを叶える」
決意に満ちた声が講堂に木霊する。振り返るも姿はない。声だけが、まるで講堂そのものであるかのように国木田へと降り注いでくる。
「それが僕の役割だからだ。それを叶えない限り僕は死なない。そして僕はようやく本当の”僕”の花嫁を見つけた。外へは出さないよ。僕はやっと、彼女を見つけ出したんだ」
言っている意味がわからない。けれどこの奇妙な現象の原因がこの男であることは確かなようだ。
それがわかってしまえば、やることは一つ。
――敵を、倒す。
近くの長椅子の背へ寄りかからせるように、クリスを床に座らせた。霧に埋もれる白いドレスを、その白さを斑に汚した赤を見つめた。花嫁姿、白い花弁。誰もが夢見る人の姿が、目の前にある。
願わくば。
ベールに隠れかけた頬へと指を伸ばし、顔を寄せ――ベールの端が鼻先に当たる前に、止めた。
これ以上は、きっと駄目だ。
きっと、駄目なのだ。
「……う」
ただ添えるだけになった手の下で、クリスが小さく呻く。ベールの向こうで、まつげが震え青が覗く。
「……クリス」
名を呼ぶ。それに答えるように、クリスはその青に国木田を映し出す。唇が何かを発しようと動く。
「……あの方、は」
――呟かれたのは国木田の名ではなかった。
失望に言葉を失う。思わず指を離した先で、青が何かを探すように周囲を見回す。
「あの方の、ところに、戻らなければ」
「クリス」
「わたしは、ずっと、あの方を、待っていたのです」
「クリス……!」
「あの方を、もう、一人には、できません。戻って、もう一度、今度こそ、あの方と」
「思い出せ!」
怒鳴る。その細い肩を掴んで強引にこちらを向かせる。
「思い出せ、クリス! あれはあなたの何でもない!」
「離して……わたしは、あの方の、ところへ」
「思い出せ!」
叫ぶ。
「頼むから……思い出してくれ……!」
どうしてその青は俺を映しているのに。その声は記憶にあるのと同じ響きを持っているのに。その頬の描く笑みを俺は覚えているというのに。
その青は、あの湖畔の色を俺に見せてくれない。
クリスは力のない様子で国木田を見つめるだけだった。その青は色味を変えず、ただなぜか涙ばかりがその目尻から零れていく。人形のような美しさに失望が重なる。
駄目なのか。
市民の一人である彼女を守りたいと思い続けてきた。常に笑い、常に楽しげにしている、そんな人生を歩んでいって欲しかった。それが国木田の描き続けている理想的な世界だったからだ。それは彼女がクリスでなくとも揺らぐことはない、国木田の信念だ。
けれど彼女は――クリスは他の誰よりも理想からほど遠い場所にいる。他者を苦しめ、己を苦しめ、笑顔の下に涙を隠している。だから、彼女をどうにか理想に近付けようと強く思い続けてきた。それは彼女が国木田の前に現れた時から定まった、国木田の使命だった。
なのに。
どうして。
俺は。
「そろそろ良いかな、お兄さん」
声が聞こえてくる。それは明らかに、国木田の背後に立っていた。自分の体で隠すようにクリスの肩を片腕で引き寄せ、腰に手を伸ばす。
腰から拳銃を引き抜きつつ睨み上げた先に、軍刀を手にした男がいた。
「僕の花嫁なんだ。返してくれるよね」
「人違いだ」
「そんなわけがあるものか」
男は当然のことのように言う。
「彼女こそが僕の探してきた花嫁だ」
「違う」
繰り返す。
「違うのだ。彼女は……貴様の探し人ではない。貴様の花嫁ではない。彼女は」
彼女は。
「……俺の隣にいるべき人だ」
腕の中でクリスは驚いたように身を竦めていた。きっと今の国木田は、愛し合う二人を引き裂く部外者なのだろう。わかっている。けれど、諦めるわけにはいかない。
ぐ、と胸元を彼女の手が掴んでくる。縋るような動きに、彼女を抱える腕に力が入る。
――クリスは決して渡さない。
「俺は探偵社の社員だ。人探しならそこで請け負ってやる」
「探偵社?」
男は不思議そうに首を傾げた。聞いたことがない、と言いたげだった。この男、この街の人間ではないのだろうか。ヨコハマではそこそこに有名であると思っているのだが。
とにかく、と国木田は拳銃を握り締めたまま男を睨み上げる。
時間を稼ぐ。そして、この誤解を必ず解いてやる。
彼女をこの見知らぬ男の花嫁になどしてやるものか。
「特別にここで請け負ってやる。探し人の名前は? 特徴は? 背格好や髪型、目の色、痣やほくろの有無、何だって良い。言ってみろ」
「彼女はそこにいる。答える必要はないよ」
「なら確認だ。彼女が貴様の花嫁であるという確認を取る、だから答えろ」
男はふつりと黙り込んだ。
「彼女は」
言いかける。しかしその続きはない。
「彼女、は」
カタ、と金属の音。軍刀の刃先が震え、床を掠った音だった。
「彼女は……」
目が大きく見開かれる。今初めてそれに気付いたかのように、男は呆然と口を半開きにする。
「どんな、だったっけ……?」
「何……?」
「思い出せない……覚えていたはずなのに……でも、でもその子なんだ、それは間違いないんだ。あの笑顔は彼女だった。別れ際に見た彼女の笑顔だった。今までの誰もそんな顔はしなかった。その子だけだったんだ、その子だけが、彼女だったんだ。そうだ、見間違えるはずかない」
自分に言い聞かせるように男はそう繰り返す。
「何度も思い出してきたんだ……森衛生科長の元で何度も戦場に出ながら、何度も生き返りながら、ずっと彼女と会いたいと……願って、願って、何度も僕は生まれたんだ。忘れるはずがないんだ。そんなはずがないんだ」
戦場。
国木田は男を見つめた。疲労の窺える煤けた頬、包帯の巻かれた腕、何度も繕い何度も洗濯してきたかのような軍服、大量生産型の古い軍刀。
「貴様、まさか……」
「『死に際に願った願いを一つだけ叶える』異能は何度も発動して、僕を形作った。人生にただ一度だけのはずだったその異能に、僕は気付かないまま何度もただ一つの願いを願い続けていた。だから、何度もなぞった線のように、僕は”僕”になったんだ。願いを叶えるために、彼女に会って、もう一度式を挙げるために、もう二度と離れないために、僕はここにいる」
だから、と男は軍刀を振り上げた。
「彼女を殺す! そうすれば、僕は――”僕”と彼女は、やっと再会できる……そのために僕は何度も生まれたんだ!」
殺戮のために量産された刃が、七色の陽光に煌めく。
「話を聞け! それが本当なら、貴様の花嫁は、もう――」
「邪魔するな! もう誰にも、僕と彼女を引き裂かせるものか!」
振り下ろされるそれへ、国木田は銃口を向ける。どこを撃つ、と思考する間もなく照準器は男の胸元へと据えられる。
この男は死者だ。助からない魂だ。あの世に行きそびれた憐れな男なのだ。であれば、できることは一つしかない。
救う方法は、一つしかない。
引き金に指をかける。軍刀が宙に一閃を描いて振り下ろされる、その輝きを目に焼き付ける。
この一発が――この男への、弔いになれば良い。
そう祈りながら。