願いが叶う教会
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***
やっと、会える。
ただその思いだけを胸に、クリスは駆け出していた。水を跳ねさせながら駆け、曲がり角を曲がって渡り廊下を通り抜け、辿り着いた棟の中、曲がり角の向こうへと飛び込む。
「――ウィリアム!」
この世にいない人の名を叫ぶ。
けれど
「……え?」
息を呑む。突然のことに、思考が止まる。
そこには誰もいなかった。廊下があるだけだ。
長い廊下。この小さな教会にあるはずもない、直線的な。果ては闇に隠れて見えない。そちらへと導くように穴の一つもない硬質な木製の床が真っ直ぐに張られている。壁は白く蜘蛛の巣の一つもなかった。雑草も苔も、水たまりもない。
呆然と目の前の光景を見つめる。そうして、くるりと背後を見る。自分が通ってきたはずの渡り廊下はそこになかった。壁があるだけだ。そこにはまっていたガラスは割れておらず、しかし外を映してはいない。真っ暗な闇が、窓の外にも廊下にも広がっている。まるで夜のようだ。けれど視界はこの廊下の形状を把握している。それは、眩しいほど真っ白な霧が周囲に充満しているからだった。
霧の満ちる、見知らぬ夜の廊下。
「……ここ、は」
喉に白い霧が入り込む。水分ばかりのそれが喉を詰まらせ、咳き込んだ。息苦しい。
ここはどこだろうと考える。先程まで、誰かを追っていたような気がする。ここではないどこかで――否、初めからこの小綺麗で静かな場所にいたような気もする。一人で、ずっと、この場所に。
記憶が、はっきりしない。
「……ッ、は」
呼吸が浅い。壁に手をついて、深呼吸を試みる。足元を覆う白い霧は濃く、自分の足すらも見えなくしていた。脳内で警鐘が鳴り続けている。逃げろと、ここは危ないと、危機感がしきりに叫んでいる。けれどそれもすぐに靄の向こうへ隠されていく。
「……だ、れか」
助けを求める声を出す。誰かが一緒にいた気がするからだ。誰かと一緒に、自分はここへ――違う、自分は誰かを探していたのだ。ずっと、ずっと、会いたかった人がいる。再会を約束して、そのまま会えなくなった誰かが――そうだっただろうか。そんな人が、自分にいただろうか。
記憶と思考が塗り替えられていく感覚。それに恐怖し対抗しようとする意思は霧の白に塗り潰されていく。
誰かを、ずっと待っていた。ここで、長いこと、ずっと。会いたい人がいた。会いたいと願い続けた人がいた。会えなくなるとわかって、二人きりでここに来て、そしてその後、旅立つその人を見送った。そうだ、と頭の中の誰かが我が事のように頷く。
ずっと、会いたかった人がいる。会いたくて、会いたくて、ずっとここで待ち続けた人がいる。
頭を持ち上げ、廊下の先を見る。果てがないように見えた暗い廊下は、よく見れば行き止まりのようになっていて、両開きの扉がその壁に張り付いていた。
見慣れた――見慣れた扉。
愛しいあの方と、一緒に、そこで、わたしは。
ゆらりと壁から手を離し、そちらへと歩み寄る。吸い寄せられるように両開きのそれへと両手を添えた。手触りの良い木製のそれを確かめるように撫で、そして金属製の取っ手を掴む。
引く。扉の奥の空気がふわりと吹き付けてきて、扉を開いていくにつれてその光景が視界いっぱいに広がっていく。
講堂だった。横長の椅子が整然と並んだ、円柱の部屋。天井に張られたステンドグラスが陽光を七色に変えている。奥は一段高くなっていて、最奥に十字架を掲げた祭壇が佇んでいた。白い霧が窓を隠し、床を隠し、物の輪郭を曖昧にしている。
十字架の手前、周囲を見回せるような一段高いその場所に、人影がいた。緑と茶色を混ぜたような古びた色の軍服、包帯が巻かれた腕。黒い短髪は手入れのされていない芝生のように乱雑で、服や体の汚れ具合から彼が戦場から帰還してきたことを窺わせる。
戦場――それはどこだっただろうか。
呆然とそちらへと歩む。祭壇の上で、その人はクリスが来ることをわかっていたかのようにゆっくりとこちらを向く。
優しい顔立ちの、煤けた頬の若い男性だった。
誰だろう。そう思う自分の中に、歓喜のようなものが湧き上がってくる。それは戸惑いを越えて思考を埋め尽くした。
嬉しい。その感情だけが自分の中にある。
「……やっと会えたね」
彼は目を細めて、笑った。
「ただいま、僕の花嫁」
花嫁。そうか、と納得する。踏み出した足がカツリと床を叩いた。ヒールの音だった。サ、と布を引きずる音が背後から聞こえてくる。一歩踏み出すごとに目の前で白いベールが揺れて、腰からふわりと広がった白いドレスの裾が赤いカーペットの上を滑った。ブーケを緊張で強く握り締めている両手は薄いレースの手袋をつけていて、露出した肩と胸元が周囲の白い霧を感じて寒いような落ち着くような、奇妙な心地を与えてくれる。
クリスは壇上へ上がり、そこにいたその人を見上げた。覚えているような、覚えていないような、不思議な気分だった。
けれど、ただ一つ確かなことは。
「……やっと、君に会えた」
その言葉に、クリスは頷き、微笑む。
ずっと会いたかった、この方にずっと会いたくて、ずっとここで待っていた。
その願いが今、叶ったのだ。
やっとわたしは――私は、愛しい人に会えたのだ。