願いが叶う教会
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部屋を検分している最中、廊下で興味なさそうに壁を見つめていたはずのクリスが、突然廊下を駆け出した。滑る床を、水を跳ねさせながら駆けていく。
「クリス!」
叫ぶ。しかし制止しようと上げたその声は彼女には届かなかった。腐った扉を跨ぎながら廊下へと顔を出せば、廊下の曲がり角へとその姿はあっという間に消えていく。舌打ちし、その背を追おうと国木田も駆け出した。
嫌な予感がした。
クリスの、何かを見つけそれの元へと行こうとするかのような行動。この教会にある噂話。そして、クリスがこの教会へ来たがった理由。
辿り着く答えは一つだ。しかし今は昼。そんなことはあり得ない――と声に出して言い切りたい。
「クリス!」
渡り廊下を駆け、叫びながら曲がり角の奥へと飛び込む。この先にはもう一つの棟があり、部屋が並んでいるだけだ。
けれど。
「……クリス?」
寂れた廃墟らしい内装が、そこにあるだけだった。誰の姿もない。見失ってしまうような距離ではなかったはずだ。どこかの部屋にでも入ってしまったのだろうか。そう思う、そう願う。けれど国木田の鋭い目と思考は、そういった甘い願望を見事に打ち砕く。
「……ッ」
信じ難い心地のまま、足元を見下ろす。薄く張った水面に、自分の靴が浸っている。少しずらせば、その下の泥に靴裏の紋様がくっきりと描かれていた。
だというのに。
そのまま、ゆっくりと視線を上げていき、廊下の床の全面を見渡す。自分より先に彼女が駆け込んだはずのこの棟のどこにも――足跡が一切、ない。
彼女の足跡が、渡り廊下で途切れている。
衝撃と焦りが頭頂を突き上げた。
「クリス!」
叫ぶ。呼ぶ。耳を澄ます。返事はない。この壊れかけた建物に響く足音もない。泥を踏んで苔と雑草を踏みつぶしながら棟の中を駆け回る。すぐそばの部屋へと駆け込み、引き返しては次の部屋に飛び込んでいく。
いない。
いない。
どこにも、あの姿が。
「クリス……!」
この名をこれほど連呼したことなど一度もない。一度呼べば、彼女は必ず聞き取って振り向いてくれたからだ。目の前にいてくれたからだ。ほとんどの場合は笑顔で、時に寂しげにしながら、稀に何かを堪えるように唇を噛みながら。
必ず、応えてくれた。
なのに。
なのにどうして、今は。
棟の中をくまなく走り回る。足跡を、その姿を、探す。渡り廊下を引き返し、先程見た部屋も全て見直し、外へ出ては手帳の記載と記憶を元に変化の有無を何度も確かめた。
何も、変わっていなかった。
新たな足跡も何もなかった。
――クリスが、消えた。
なすすべを失い立ち尽くす。呆然と空を見上げる。塗装のない十字架が空色の中で十字を描いていた。
消失。そんなことがこの真昼にあってたまるものか。けれど現に彼女の姿は消えた。
国木田の前から、唐突に。
連れ去られたのか。それにしても足跡が一切なかった。敵がどこかにいたのか、異能が使われたのか、それとも。
思考が回る。どこにも答えのない問いかけを延々と繰り返し考える。それがどれほど無駄なことかを、国木田はわかっていた。それでも思考を止めることができなかったのは。
認めたく、なかったからだ。
目の前で行われた、彼女の消失を。
ふと。
視界の隅に何かがちらつく。ハッとそちらを見た。十字架の真下、開かれた扉の向こう、日の差さない廊下。
女性が佇んでいた。見知らぬ女性だ。おさげの黒髪、質素な服装。大人しいという印象を一番に与える、若い女性。
新たな被害者だろうか、それともこの教会の噂に誘われた観光客だろうか。
「おい」
そちらへ駆け寄る。教会の中に入った途端、光の調整に手間取った瞳孔が視界を一瞬暗くする。明暗のはっきりしない中で、女性はじっと国木田を見上げてきた。
「どうしてここに……いや、今はそれどこではないのだ、人を探している」
まくし立てる国木田へ、女性は戸惑いも微笑みもなく、黙り込んでいる。
「亜麻色の髪と青い目の女性だ、見ていないか」
女性はふるりと首を横に振った。しかし国木田が落胆するより先に、彼女はある一方へと顔を向けて腕を上げる。
「あちらへ」
囁くような声が国木田の耳へはっきりと届く。指を差されたそちらへと国木田は視線を向けた。雨風により床も天井も破壊し尽くされた、日の光が差し込む渡り廊下。誰も通れないその先にある、木の板で頑丈に封じられた両開きの扉。
「……講堂、か」
確かに、国木田がまだ探していない場所はそこだけだ。しかし、と国木田は眉を潜める。
「……そこに、彼女がいると?」
女性は静かに頷いた。そうして、深く頭を下げてくる。
「どうか、あの方をお助けください」
「あの方……?」
その言い回しに疑問を抱かないわけにはいかなかった。改めて女性を見下ろす。ようやく周囲の暗さに慣れてきた視界の中で、顔を上げた女性は小さく頷いた。
「ずっと……囚われているのです。どうかお助けを」
新たな被害者が、ということだろうか。しかし「ずっと」というのは。様々な疑問が口端の昇ってくる。それを押し止め、国木田はただ頷き返すに留めた。
考えるのは後だ。今はまず、行方の知れない彼女を探し出さなければ。
先程指差された方を再び見遣る。光の差すその渡り廊下に屋根はほとんどないようなものだった。床も割れ、水たまりはぬかるんだ湿地と化している。その先にある両開きの扉には何枚もの木の板が釘によって打ち付けられている。それを施したのは他でもない、市警だ。
――講堂、この教会の中で唯一無二の、神へと祈り神の教えを説き神に歌う場所。
そして、全ての被害者が救助を要請してきた場所でもある。
この事件の被害者は必ず、閉ざされた講堂の中から救助される。市警は被害者を救助するたびに板を外し、救助し終わればすぐさま板を取り付けていた。それでも被害者は講堂の中に現れる。板を外された形跡もないまま、他に人の出入りが可能な箇所もないまま、被害者の記憶もないまま、事件は幾度も繰り返されていた。
防ぎようのない、犯人不明の傷害事件。
もし、仮に。
――クリスが事件に巻き込まれたのだとしたら。
今は昼間だ、日は高い。それでも、この状況を考えれば。
「……くそッ」
怯えなどとうの昔にどこかへ消えている。
「ここにいろ。決してどこにも行くなよ。後で話を聞く」
女性に言い、返事を待たずに身を翻して駆け出す。向かうは車を停めている場所だ。中に工具箱を積んでいる。入り口を壊すための道具だ。市警が頑丈に止めた扉を人力で蹴り飛ばすのは無駄が多い、道具を使うべきだろう。講堂の中を調査するために持ってきたものだが、まさかこうした使い方をするはめになるとは。気の焦りとは反対に思考は冷静だった。
それでも。
急げ、と自らに怒鳴らずにはいられない。
被害者は皆刺し傷一つで生還している。その誰もが、会いたかった人に会えたと証言した。しかし彼女の会いたがっている人は、そして彼女が彼に会いたがっている理由は。
なら、彼に会った後彼女が選ぶ行動、それを彼女が選ぶ可能性は――ゼロとは言い切れない。
「間に合え……!」
祈るように呟く。何にかはわからないが、ただ、そう祈っていた。