人形兵器の夢と目覚め
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太宰が連れて来たクリスは探偵社に保護されることとなった。保護されたとは聞こえが良いが、要は捕虜として捕らえたのである。クリスはギルドの関係者だというのが太宰の見解だったためだ。とはいえクリスに逃亡の様子がないことから手枷足枷をつけることはなかった。
だからこうして、クリスは探偵社の入ったビルの屋上へと一人立ち尽くしている。
空を見上げる少女の髪が風に揺れる。艶やかな亜麻色はまるで人形の髪のように美しい。紺のスカートがふわりと広がり、白いブラウスが日光に映える。美しい等身大人形――そうであってもおかしくはない、無機質さがそこにはあった。
国木田はしばらく彼女の姿を見つめたまま黙っていた。ふと、彼女が何かを取り出す。指輪を通した銀の鎖だった。ネックレスだろうか。けれどそれを身に着けることなく、彼女は指で摘まんで宙へと差し出す。銀が日光に照る。指輪がゆらゆらと揺れる。それを、彼女は見つめている。何をしているのだろうか。
それを問う気はなかった。ただ、屋上の片隅に立つ少女を離れた場所から見つめるだけだった。が、どうやら視線に気付かれたらしい、亜麻色が煌めく。彼女が振り向く。白い頬、鼻筋、そして青の眼が国木田の視界に入り込んだ。
青。
緑を得た、水面の如き青。
それが、国木田を見つめてくる。
「なぜここに来たのですか?」
その眼差しのまま、クリスは問うた。出会った頃と変わりない機械じみた言葉遣いだった。
「探偵社員が白鯨へ突入したと聞きました。そちらの対処は良いのですか?」
「問題ない。太宰が指揮を執っているし、敦もいる。何とかなるだろう」
「避難は良いのですか?」
少女の声音は平坦だ。
「白鯨が落ちてきます。そういう計画です。あなた方も含め、人々を落下圏内から脱出させようとするだろうという予測が立っています。そうすべきなのではないのですか?」
クリスはギルドの構成員の一人だろうと太宰は言っていた。それに対しクリスは肯定も否定もしなかった。けれど太宰がそう言ったのだ、間違いはないのだろう。
彼女は敵だった。出会った頃から、ずっと、敵だったのだ。
拳を握り込む。油断してはいけないのだと言い聞かせてくる胸の内の声は、しかし弱い。
「……白鯨を落とす、だと?」
「そういう計画です。地上総攻撃という名の、墜落作戦です。わたしはその攻撃を回避できますが、あなた方はそうではないと推測します」
「お前にも異能があると、そういうことか」
「具体的に説明することは禁じられています」
イエスでもノーでもない回答に、そうか、と呟き、黙る。クリスもまた、何も言わなかった。
ギルドの一員で、異能力者。白鯨墜落という言葉の意味は計り知れないが、それを口にするのだからやはり彼女はただの一般人ではないようだ。
静寂。
「……それは何だ」
話題を失い、仕方なしに国木田はそれを問うた。今更敵だと身構えるのも奇妙だと思ったからだった。そもそも彼女には驚くほど敵意がない。敵意を向けろという方が難しかった。
「振り子です」
クリスは答えた。よくわからない答えだった。
「振り子?」
「心です」
またもよくわからない答えだった。
「マスターが教えてくれました」
クリスが指輪へと視線を戻す。腕を揺らし、ネックレスを、指輪を揺らす。
「これはいつもわたしの中にあるのだそうです。そして、稀に大きく揺れて、その時だけわたしはそれを感知する……いつもは感知できない。そういうものなのだと。――心とはわたしにもあるべきものなのだとあなたは言いました。なら、きっと、わたしにはこの心の振り子があるのでしょう。最近、振り子が大きく揺れることが多く発生していた気もします」
単調にクリスは言った。その横顔に感情はなかった。
「わたしはわたしがわかりません。わたしが何なのかを自分で決めろと太宰さんに言われましたが、わたしは人形であり、何かを自分で決めることはできないのです。自分が何なのかなど考えようとも思えないのです。……ですが、少しだけ、少しだけ……気になりました」
振り子と呼ばれたネックレスがゆっくりと下ろされる。同時に、クリスがこちらを見つめてくる。
青い、湖畔。光差す幻想風景。
「わたしは人形ですが、化け物でもあるのかもしれません。心というものを持っているのかもわかりません。人間なのかどうかも今や判断ができません。けれど、もし、叶うのなら」
ふと、その口元に動きが現れる。小さく小さく、端が持ち上がり、それと同じほど少しだけ、目元が和らぐ。
「……心というものを、いつか……理解してみたいと、そう思います」
呆然とそれに見入った。
そこにいたのは、人形然とした少女だった。けれどその表情は人形と評するには美しく、柔らかな――微笑み。
息を呑む。瞬きを忘れる。
「……そうか」
呟く。呟き、そして国木田は微笑みを返した。
「それが、お前の夢か」
「夢……そうかもしれません。わかりません。けれど仮設定した夢も達成できていません」
「なら両方を夢に見ておけ。夢や願いは一つでなくてはならないというわけではない」
「了解しました」
こくりとクリスが頷く。そしてネックレスをそのままポケットに戻そうとした。
「身に着けないのか」
思わず声を上げてしまったのはなぜだろうか。国木田の言葉にクリスは手を止めて瞬きを数回挟む。
「身に着ける? 心をですか?」
「そうではない。……いや、お前にとってはそうなるのか」
心、と彼女はネックレスのことを称した。きっと彼女にとってはそうなのだ。可視化された己の「心」なのだ。であれば否定する必要はないだろう。むしろ好都合かもしれない。
自分は人形なのだとクリスは言った。化け物なのかもしれないと、心を持っていないかもしれないと。人間かどうかもわからないと。
違う。
彼女は人間だ。そうであるべきなのだ。
彼女には確実に、「心」があるのだから。
「貸せ」
国木田が手を差し出せば、少し躊躇った後クリスはそれを手に乗せてきた。細い銀の鎖も、それに通された銀の指輪も、おそらくは上等なものだ。振り子などという扱い方をして良い代物ではない。
鎖の留め金を外し、彼女の背後に回って首にかけてやろうとする。が、そこでようやくこの装飾品が元々こういうデザインではないということに気が付いた。鎖のデザインと指輪のデザインが噛み合っていない。本来は別物なのだろう。
少し、考えた。
鎖を外して指輪を取り出す。片膝をついて「手を出せ」と言えば、今度も少し躊躇ってからクリスは手を出してきた。中途半端に掲げられた右手を支えるようにそっと掴み、引く。そしてその薬指に指輪を通した。
丁寧に、ゆっくりと。
祈りを込めて。
「一応言っておくが左手の薬指は空けておけ」
「なぜですか?」
「特別な意味合いがある指なのだ。将来的に必要になる。――心がわかればこの言葉の意味もわかる。お前の夢を理解し、手助けしてくれる誰かを得た時、その指に指輪を通すのだ。覚えておけ」
国木田の言葉を、やはりクリスは理解できないようだった。が、「了解しました」と素直に呟き頷く。彼女が左手の薬指に指輪をつける意味を知るのはいつになるのか。
――できる限り早くわかって欲しいと思うのはどういった心境からだろうか。
「これなら、目に入りやすい。失くす心配もないだろう」
鎖の方は宝石部分を失っているのだろう、身に着けるにしては不格好だった。どうするかと訊ねれば、彼女は「どうすれば良いですか」と訊ね返してくる。不要というわけでもないようだったので、持ち帰らせることにした。
国木田から鎖を受け取った後、クリスは指に収まった指輪を振り子を眺める時のように宙にかざして見つめた。微かに手を揺らし、日光の反射に目を細める。
「心が、あります」
「そうだな」
「心が……ここに、あります。ずっとあります。揺れはしないけれど、きっと揺れるのでしょう。心が……心が、心があります。国木田さん、わたしの心がここにあります」
不思議そうに彼女は無表情で繰り返した。確かめるように何度も繰り返し呟いた。そうか、と国木田は返す。素っ気なくもあるその言葉にクリスが反応することはなかった。ただひたすらに、無心に、真剣に、指輪を見つめていた。
ふと遠くから轟音が聞こえてくる。見れば、海の方で何かが起こったようだった。何事かと思えば唐突に携帯電話が鳴り出す。相手は太宰だった。
――白鯨を海に落とした。
そういう趣旨の報告だった。
「おい、どういうことだ」
『そのままの意味だよ。街に落ちる前に強引に叩き落した。クリスちゃんからそういう計画だったことは聞いているだろう?』
何事も全て把握してあるのは、太宰ならば当然と言うべきなのだろう。悔しい気がしないわけではないが。
「では敦は」
『無事さ。パラシュートで脱出した。これでギルドは撃退、三組織戦争はとりあえず終幕だ。そこで君に頼みたいことがあるのだけれど』
「契約終了を確認しました」
突如クリスが呟く。携帯電話の向こうから聞こえてくる声を聞きながら、国木田はそちらを見た。見ざるを得なかった。
風。
風が巻き起こっている。クリスを中心に、囲むように、守るように、風が。
「対ヨコハマ戦線終了、任務完了。マスター不在につき承認声紋省略」
『クリスちゃん、そこにいるよね? 今不審なヘリを見つけた。探偵社に近付いている。きっと彼女の主の迎えだ』
「主? 主とは何だ? 彼女はギルドの構成員なのだろう、ならフィッツジェラルドが」
『違うのだよ』
太宰の声が遠くから聞こえてくる。渦巻く風の中で少女が佇み、その目を開く。
赤。
薔薇の花が咲いた眼。
血の色よりも柔らかく、華やかな――花弁の色。透明度の低いそれに刻まれた、瞳孔がわりの薔薇の紋様。
ぞ、と悪寒が走った。動いてはいけない、抗ってはいけない、これは――人の魂を食らう悪魔の眼差しだ。
下手をすれば、殺される。
『彼女はギルドの構成員じゃない。ギルドにいただけの、別組織の人間だ』
「個体ナンバー八八三、これより本部へと帰投いたします」
『できれば捕獲していて欲しいのだけれど……その可能性に気付くのが遅れてしまった。間に合わないかもしれない。捕獲が駄目そうならそれで良い、逃げるんだ。国木田君一人でどうにかなる相手じゃない』
クリスが平然とこちらを見つめてくる。遠くから聞こえてくるヘリのプロペラ音がうるさい。
どういうことだ。どういうことなのだ。
彼女はギルドではない組織の人間で、国木田一人では手に負えない人間で、今ここに彼女の主の迎えが近付いてきている。
主。
『彼女はフィッツジェラルドのことをマスターと呼んでいた。そして彼女は上官に管理されているのだとも言った。――マスターと上官は別物だ、そして上官という人物はギルドの人間じゃない。つまり彼女は』
「クリス!」
耳から携帯電話を離し、国木田は叫んだ。今叫ばなければ答えてくれないという予感があった。
名を呼ぶのなら、問うのなら今だという確信があった。
「クリス! どういうことだ! お前は一体……!」
「……さようなら、国木田さん」
クリスは答えた。聞くつもりのなかった言葉と共に、国木田の名を呼んだ。
「秘匿期間終了につき回答可能。――わたしはギルドの構成員ではありません。わたしの上官はギルドの構成員ではありません。わたしは個体識別番号八八三、個体名クリス・マーロウ。所属組織は」
刃の欠片のような薔薇の花弁、それが風に巻き上げられ散る錯覚。亜麻色、白、紺。
色鮮やかな彼女が、それを告げる。
「――《時計塔の従騎士》です」
強風、上空をヘリが通過しようとする。手を伸ばした。触れられるほど近くにあったはずの小さな彼女の体は――気付けばどこにもなかった。
顔を上げる。ヘリが遠くへと飛んでいく影がある。あれだ、と根拠もなく確信した。
「……ッ」
叫ぼうとした。けれど、何も言えなかった。
今更何を言おうと、彼女からの答えはないとわかっていた。