人形兵器の夢と目覚め
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「……それは異常ではない」
ゆっくりと、声を出す。一際大きく湖畔の色が見開かれた。
「でも」
疑い、不信、疑問。
「人間の誰もが持ち合わせているものだ」
そっと手を持ち上げ、再度彼女の頭へと伸ばす。今度は少しだけ撫でてみた。しなやかな手触りの髪に沿わせるように、数度撫でる。
「……ッ」
言葉を呑み込んでクリスは身を縮ませた。怯えだ。けれどすぐさま、そわそわと追いつきのない素振りで視線を泳がせるようになる。恥ずかしさ、くすぐったさ、少しばかりの喜び。胸元を掴む手にさらに力が入り、クリスは顔を俯かせた。
ああ、何ということか。
彼女は感情の一通りを全て持っている。彼女は人形ではない、機械でもない。
――人間なのだ。
「それは心だ」
クリスの頭を撫でながら、国木田は言い聞かせるように言った。
「人間を人間たらしめるものだ。誰の中にもある、感情であり思想であり願いでもある、熱量のことだ」
熱、と彼女は呟く。それへと頷く。
「大丈夫だ、異常ではない。それはお前の中にあるべきものなのだ」
「……けど、今までこんなものはありませんでした。それは確かです。わたしは、この異常を……心、を、観測したことはありません。心とは何なのですか。これが異常ではないというのはどういうことなのですか」
「知りたいか」
「はい。解説を求めます」
はっきりとクリスは頷いた。
「これが何なのかがわからない限り、わたしはこれへの対処法を見出せません」
「なら」
頭を撫でていた手を外して肩へと移動させ、国木田は腰をかがめた。目線を合わせる。泣き出す前の子供のような潤みを宿した湖面の色合いを真っ直ぐに見据える。きゅ、と両手を心細げに握り合わせたクリスへと、国木田は続けた。
「夢を見ろ」
告げる。
「夜に見る夢ではない、未来へと思い描く期待を、願いを、希望を――夢を見ろ」
彼女が異質である理由はわからない。彼女が何も知らず、知らぬまま過ごすことができていた理由もわからない。けれど、今国木田が目の前の少女を見逃すことはできないということはわかる。
クリスには導きが必要だ。それは確かなことなのだ。幸いにも国木田にはそれができる。教えることができる。ならば、してやらなければならない。
「夢とは未来へ期待する具体的な思いのことだ。職業でも良い、人生計画でも良い、願い事でも良い、希望溢れる未来を思い描け。願い、祈り、そしてそれを実現するために前進しろ。その中でお前は心というものの正体を知ることができる。期待し、絶望し、打ちひしがれ、立ち上がり、顔を上げる、その繰り返しの中で喜びと悲しみを知ることができるだろう。それが心だ、お前の心だ」
心、とクリスは呟いた。
「それは…作戦計画のようなものですか」
「その中の最終目標に当たる部分の話だ。何を目的に作戦を行うか、その作戦を行うと何が実現するか、それを決めろという話だ」
「不可能です」
クリスは首を横に振った。諦めたというわけではなく不可能だと知っているかのように、平然と彼女は否定の言葉を口にした。
「わたしは未来を予測しません。現状から結果を演算算出はしますが、マスターのように最終目的を据えることはできません。そのような器官は備わっていないのです。なので、あなたの言うようなことはわたしにはできません」
「いや、お前にも必ずできる」
肩を強く掴み、軽く揺する。涙をこぼしそうなほど潤んだ湖面が緩やかに揺らめく。
「お前は人間だ。世の中の人間は全員夢を抱くことができるのだ。だからお前にもできる。諦めるな」
「でも」
「信じろ」
青を、湖の奥を、底を、見つめる。その奥にあるものを、見つめる。
「……俺を信じろ」
この言葉はどれほど深くまで届くだろうか。この、作り物のような少女に。もしかしたら伝わらないかもしれない。理解ができないと跳ね除けられるかもしれない。
それでも。
それでも、俺は。
ようやく心を知った少女を、青と緑を煌めかせる華美の眼差しを、あの泥沼のような眼差しに戻そうとはどうしても思えないのだ。
この色を失うことだけは許されない気がしてならないのだ。
クリスは困ったように国木田を見つめていた。そしてようやく「信、じる」と復唱するかのように小さく呟く。
「……信用という言葉は理解できます」
掠れた声で彼女は言った。
「敵と味方の基準項目の一つです。――信用度設定完了、国木田独歩の信用度レベルスリー、発言理解度及び実行度レベルスリー、提言度レベルフォー。設定完了、現行プログラム停止、回路固定解除、他情報との相互伝達式構築中、終了、異常なし、実行可能。改定プログラムを実行します」
その言葉達はまるで機械の発声のようだった。そしてそれは、彼女の人形然とした様子に似合う無機質さだった。けれど、とその目を見つめ続ける。その青と緑の入り混じるガラス細工のような眼差しを、ガラス玉には表現しきれない多彩な色合いを目に焼き付ける。
彼女は人間なのだ。
ならば俺は、彼女を人間たらしめるべきなのだ。
「……では」
機械じみた発声で落ち着きを取り戻したのか、彼女は普段通りの物静かな声音に戻して言った。
「わたしの夢を設定してください」
「設定?」
「夢は計画の目標に値するものだというお話でした。先程言った通り、わたしには目標設定ができません。なのであなたが夢の設定をしてください」
「そうではない。お前自身がお前のために決めることに意味があるのだ」
言えば、クリスは口を閉ざした。見慣れた沈黙だ。彼女には相槌も感嘆もない。戸惑うでもなく思考しているでもない、ただ無音な時間が二人の間に溜まっていく。
「……では、仮設定をします」
数秒してようやく、クリスは口を開いた。
「当面の間『国木田独歩の夢を理解する』という夢を仮設定することとします」
「俺の、だと?」
「理解ができませんでした」
はっきりとその唇は告げる。その青の目にはもはや全ての感情がない。
「『市民全員がつつがなく幸福を享受する。誰も殺されず、誰も憎まず、誰も苦しまぬ、そういう街を、世界を作る』。そういうお話でしたが、私には理解できませんでした。簡易的に演算を行いましたが成功確率は小数点以下四捨五入なしにゼロパーセントです。全く実現し得ません」
「実現するか否かではない。させるのだ。誰かがそれを望む限り可能性はゼロにはならん」
「であればおそらくこの演算結果はわたしの理解不足による過失でしょう。なので理解に努めます。これをわたしの当面の夢と仮定します」
彼女の顔にやはり感情はない。沈んだそれもない。けれどただ一つ――澄んだ湖畔だけが、そこに残っている。
「あなたはわたしに信じろと言いました。ならわたしは自分の演算結果よりもあなたの言葉を信用します」
真っ直ぐで、静かで、おそらくは心地良い冷たさを宿した――木々の深緑を映した湖畔。
「これでよろしいですか?」
その言葉も思考も、どこまでも堅苦しく無機質だ。
けれど、この目が、この声が、言葉が。
「……ああ」
紛れようもなく、疑いようもなく、彼女は人間なのだと教えてくれている。