『共犯者』
死体が落とされるであろう穴は深く、底は暗くて見えなかった。生きた人が落ちてしまったとしたら……土壁を這い上がろうとしても、きっと出てこれないだろうと言うほどに、深い深い穴。
大きな重機を持ち込めないであろうこんな山奥で、こんな穴を掘るにはきっと数日かかるだろう──と考えられる大きさだった。
「イソップ……」
「はい、どうしましたか」
イソップは死体に何やら化粧を施しているようだった。
これが納棺師の仕事なのだろうか、その死体は見る見るうちに生きていた頃の様に憎たらしい顔に変わってゆく。
私は死体から目を逸らしゆっくりと深呼吸をして尋ねる。
「この、穴。どうして私達がここに来る前からこんなに深い穴が用意されてるの?」
「さぁ……元々『工事現場』だったのか『採掘作業現場』だったのか……。本当に都合よくこんなに出来のいい『墓場』があって、助かった」
彼は薄っすらと笑みを浮かべながら、まるで他人事の様にそう言った。
私は内心、恐怖で心臓を震わせながら「そうじゃなくて……、これって」と彼に問いかける。
「この穴、イソップが用意したの……?」
私がそう尋ねると、少し間を置いた後イソップはゆっくりと話始める。
「……正確には、僕とジェイで用意しました。
知っていますか、今日は二十一時頃から雨が降る予報なんです。……雨は足跡や薬品の匂いを消してくれる。だから僕は今日という日に合わせて死者を弔う為の場所を作り──貴女に気付かれる前に、葬ってしまおう、と考えていた。……行方不明に見せかけようって、話してた」
酷く穏やかな口調だった。彼は死体に化粧をする手を止めず、その手は繊細に筆を滑らせていた。
彼に化粧を施された死体はまるで本当に生きていた頃のようで、今にも私に暴言を浴びせ、殴りかかる為に目を覚ましそうな出来だった。
死体が起き上がって、私を責め立てる想像をして私は遂に泣き出してしまいそうになる。
私はこの人から発せられる気が遠くなる程の長い時間の暴言に耐え、時折振るわれる身勝手な暴力に心を殺し……ああ、何故私は今日という日にこの人を殺したのかを思い出してしまう。
──私は、彼との、イソップとの交際に対して心ない事を言われ、これからの未来を否定され、彼を愛した事を貶され、そして彼を卑下する様な発言をした瞬間──、私は怒りに任せ、この人を殺した。
どうしようもなく、心の底から、殺さなくてはいけないと思ったのだ。
私は自分の為に人を殺せなくても、愛する人の為……彼の為に手を汚す事が出来た事実が、この虚しくて悲しいだけの人生に唯一差した光である、彼への想いを守った事の証だと思っていた。
……いくら踏みにじられようとも、彼への思いや、彼自身のことをこの忌まわしい怪物に否定される事だけは堪え難かったのだ。
「イソップ、わたし、私のせいで、ごめん……、ごめんなさい……」
今更はっきりと、この人を殺した理由を思い出した私は耐えられず泣き出してしまった。
──結局私は彼を巻き込んでしまった。
どんなに身を引き裂かれ、心を殺されようとも、耐えるべきだったのかもしれない。この死体が自然と死を迎えるまで待つべきだったのかもしれない。
涙が溢れ、頬を濡らす。私の勝手な想いで、彼の人生を危うい状況に陥れている。
彼だけじゃなく、彼を大切に育ててくれた叔父まで。後悔しても私が奪った命は戻らず、優しい彼に殺人の片棒を担がせた事実は消えないのだ。
彼はそっと、涙で濡れた私の頬を撫でる。涙を拭う様に目元を撫でて……驚く程に優しい笑顔で口を開く。
「僕はあなたの事が本当に、この世で一番大切なんです」
ああ、さっきもそう言ってくれた。と彼と彼の叔父との会話を思い出す。数分前の事なのに随分昔の事ように思えるのはどうしてだろうか。
泣き止まない私を彼は抱きしめ、ゆっくりと背中を撫でながら言葉を紡ぐ。
「生まれてから貴女に出会うまで、誰かをこんな風に愛する事が出来るなんて想像もしてなかった。……だからきっと貴女は、僕の最初で最後の、運命の人なんです」
何処かうっとりとした様な声音で、私を泣き止ませる為にとん、とん、と一定のリズムでゆっくりと背中を叩き、少し力を込めてまた私を抱きしめる。
「──僕はあなたの為に、何かしてあげたかった。
こうして平和な世界で出逢えただけで奇跡のような事なのに、想いが通じ合って、逢瀬を重ねる事が許されているなんて、僕の身には余る幸福だ。
……だから、少しでも、貴女が僕といる未来に希望を持って欲しかった。苦しみや不幸の無い日々を暮らして欲しかった。それで、僕は、この人を殺そうと決意した」
彼はあまりにも淡々と、あの人に対しての殺意を抱いていた事を打ち明けた。
静かで落ち着いた声で「でも……」と言って、私を安心させるように何度か背中をなでる。
「そんな事は許されないと、神の教えに反する事だと、引き留められた。だけど僕には理解出来なかった。……あなたは、幸福になるべき人だ。あんな人間に、害されて良い訳がない……」
その声は何処か涙を堪えているようで、私も思わず彼の背中におずおずと手を伸ばし、少しだけ力を込めてみる。
すると彼はそれに応えるように同じだけの力で抱き締め返す。
二人は頼りをなくしてしまった子供が、互いを離さない様に抱き締めているみたいに必死だった。
きっと私は、この腕から離れたら泣き崩れてしまう。きっと彼も、苦しそうな表情を隠すことが出来ずに、その目に涙を浮かべるかも知れないのだから。
「──初めて、我儘を言った。『殺すのを手伝ってほしい』と」
低く穏やかな語り口なのに、何処か子供が泣いているかの様に聞こえる。
──彼が叔父の事を『激情家』と評したのは、きっと彼自身が叔父の強い感情に触れる事を拒み、教えや躾に大人しく従っていたからなのだろう──と考えていた私は、彼の『初めて我儘を言った』と言う言葉に特別疑問を覚えなかった。
子供の様に、親に無茶を言う彼を想像し、その『無茶』が私の為に使われた事に少しの嬉しさと後悔を覚える。
「驚いた様子でした。僕があの人に頭を下げて頼み込んだ事なんて一度も無かったし、それが自分の為じゃなく、この生涯で初めて愛する人の為に人道に悖る行為を認め、それを手伝えと言った事が可笑しかったようで……。
……ですが、それを受け入れ今日こうして彼は車を貸し出して、殺人現場の処理をしている」
そう言って私の頭を自らの胸に埋める様に強く抱き締めて後、ゆっくりと腕を離す。
──彼は、寂しそうで苦しそうな声をしていたのに、泣きそうな顔をしている訳ではなかった。
けれど、私から溢れる止め処ない涙を見て、私以上に苦しそうな顔をして頬を撫でる。
「……泣かないで、貴女が殺さなければ僕が殺していた。この手が汚れたとしても、貴女に少しでも幸福な未来を送って欲しかったから」
その言葉に嘘がないことがわかってしまって、あんなに優しい彼を歪めたのは私なのだと自覚させられる。
でも、その言葉がどこか嬉しくて「……うん、泣かない」と震える声を抑えて彼の言葉に応える。
私が『泣かない』と言った事に、彼は少し顔を綻ばせた後また抱き締めて、頭を撫でる。
泣かない様に、と宥める様に優しく抱きしめるものだから先程まで子供の様に抱き合っていた事を思い出しておかしくなってしまう。
イソップは「…….時間がない。さっさと埋めてしまおう」と言い、死化粧の施された死体を担架からゆっくりと落とす。
そこには幾らかの優しさが見えた様に感じたけれど、死体が穴に落ちてゆく様を見る彼の横顔には抑え切れていない怒りが滲み出ていた。
汗がぽたりと、死体の上に落ちる。