『共犯者』
殺してしまった。
手に纏わり付く赤い血、刺す様な鉄の匂い、目の前で息も絶え絶えで誰かの名前を呼ぶ人。
その名前が誰のものか理解する事は出来ないけれど、確かにその人は「死にたくない」と言いながら、何度も誰かの名前を呼んで、そして、ゆっくりと静かになり、私の腕を強く握っていた手をだらりと垂らし──動かなくなった。
初めての殺人だった。
……しかし、殺すつもりなんてなかったのだ。
いや、最も殺したい程憎んでいたし、居なくなってしまえとは何度も望んでいた。けれど、望んでいただけだった。まさか自分の腕に人を刺し殺せるほどの力が秘められていたとは思いもしなかったし、どうして今、殺したのだろうかという疑問すら湧いてくる。
果てのない怒りの様なものを感じ、愛しい人の為の料理を作る道具で、憎たらしい人間の腹を刺した。この包丁ではもう料理をすることは叶わないだろう。
この様に自らの手を汚して命を奪う事になるとは思ってもいなかったな、と腹を刺した時の記憶が曖昧になってしまった私は呑気にそんな事を考えている。
不思議と人を殺したと言うのに、私は何故かやけに落ち着いていた。何処か他人事のように目の前の死体を眺め、そして考える「彼は何と言うだろう」と。
ゆっくりと、冷たい汗が頬を伝う。
彼とは私の恋人で──名前をイソップ・カールと言う。
独特な死生観を持つ彼からすれば私のこの行為──私にとってどんなに憎い人間であろうと、怒りに任せて神から賜った命を一方的に奪い、その肉体を血で汚した事──は到底許しがたいものだろう。
……勿論、それは世間からしても許されないものなのだが。
私がどう裁かれようと事実は認めざるを得ないし、その罪から逃れようとも思わない。
しかし、彼に見限られるような行為をしてしまったかもしれないと言う不安がどうしようもなく私を襲う。そのくらい私は彼を愛していたし、夢中だった。
彼に見限られ、失望されるくらいなら今すぐこの場で目の前の死体と同じ様に腹を切ってしまいたい。
そんな事を考えているとコツン、コツンと足音が後ろから迫ってくる。驚いて振り返ると、そこにいたのはやはり、件の彼であった。
「……どうしたんですか、それ」
彼──イソップは、死体とその前に跪く私を見下ろしてそう尋ねた。
「殺して、しまったの」
驚く程その言葉はあっさりと口からこぼれ落ちた。私の声は怯えたり震えもせず、ただはっきりと事実を伝える。
なんせ誰が見たって言い訳することも出来ないくらい私は血に濡れているのだ。
先程までの不安は何処へ行ったのか、私は彼に殺人を自供し、笑ってみせた。言い訳が効かない。
「……どうして、相談してくれなかったんですか」
彼の問いかけに、とりあえず一呼吸置いて唾を飲み込む。
「本当は、殺すつもりなんてなかったの」
「この人が……」と私が数分前のこの死体とのやり取りについてぼんやりとした頭を動かして説明しようとすると「ああ、そうじゃなくて……」とイソップはなにやらもどかしそうに私の言葉を制する。
「殺すなら、もっと早めに言ってくれれば良かったのに」
彼はそう、何処か苛立ったように言い放った。
その言葉に呆然としていると何やら何処かへ電話をして、その後「血に濡れた服は袋にまとめて置いてください、替えの服を用意します。身体についた血液は水道で洗い流すのではなく濡れたタオルで丁寧に拭き取って、服を入れた袋と一緒にまとめてください」と言って、そして何かを言い淀んだ後、迷いを振り払うかのように首を横に振り「……そこで待ってて」と私と死体を置き去りにした。
……彼は一体、何を言いたかったのだろうか。
数十分後、彼は「これに着替えてください」と言って男物の服を差し出して後、死体の周りに飛び散った血液を何らかの薬品を使って丁寧に拭き取っていた。
「イソップ、その……」
「どうしましたか?」
「わ、私、人を殺したんだよ……」
「……? うん、そうだね」
「け、警察に、通報したりしないと、イソップも……」
「ああ、そんな事」
彼はまるで本当に、それを些事のように言い捨てた。いつも通り穏やかな顔で、私に微笑む。
「あなたが憎んでいた人を一人、あの世へ導くだけの事です。そんな事より僕は、あなたが人の命を『偶然』奪ってしまったことによるストレスの方が心配です」
ゆったりとした低い声で、私を宥めるように囁く。
「……大丈夫ですよ、安心してください。……完璧に、送り出してみせますから」
「だから、貴女も手伝ってくれませんか?」そう言って私の手を取る。
「て、手伝う……?」
私がそう言うと、目を細めて「ちょっとした手伝いです」と彼は答える。
「私に出来ることなら、何でもする……」
良かった、と心の中で呟く。
現状は一切好転していないにも関わらず、私は彼に見限られていないことに安堵した。あの人を殺す以前も以後も、私には、彼しかいないのだ。
「……ありがとう。流石に一人で送り出すのは骨が折れるから、助かる。しっかりと身体を綺麗にしてから着替えてください。それまでに準備を済ませておきますから」
そう言って私に着替えを促し、イソップはまた血痕を落とす作業に戻った。
真剣な表情で床を拭く彼を横目にこれから彼と行うであろう行為に思いを馳せ、少し大きなシャツに腕を通した。
シャツからは洗剤と、何故か煙と薬品の匂いがした。
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