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【SAO/キリト】幸村 紗英/ユエ

「弱さを嫌う」

※過呼吸ものです。紗英ちゃんが過呼吸起こす話となっております。
苦手な方は自衛をお勧めします。

※アリシゼーション編大いにネタバレです。アニメ派の方はやめておいた方がいいかもしれません。

※既に付き合ってる前提で話を進めています。お砂糖強め(当社比)。

【舞台:現実】


「っげほ、」
時折詰まったように咳き込みながら、四つん這いで浅く短い呼吸を繰り返す紗英。苦しさで固く握りしめられて細かい皺のよったニットの胸元は、浅い呼吸と同調して俺よりはやく上下している。背中が一度大きく跳ね、げほっという詰めた息が吐かれる。反動で背中に流れていた黒のミディアムヘアが静かに肩口まで滑り、重力に従って垂れる。

切り揃えられた前髪の奥のルビーの瞳から、ぽろぽろと悲痛な涙がこぼれおちてゆく。震えながら下ろされた睫毛に乗っていた涙が、小さな音を立てながら床に落ちた。何度目かもわからない落下で、床には涙の水たまりができている。浅い水中に、また一粒と吸い込まれていく。

過呼吸、と呼ばれるやつだ。


本人は「吐かないだけまだましだし、全然つらくないから」と嘯いていたが、今俺が撫でている背中はとても小さくて細くて、安易に折れてしまいそうで。紗英は吐かないよりマシなのかもしれないが、俺からすればどちらにせよ心を痛めるだけだ。なかなか人に頼ろうとしない紗英だから、こうやって一人でなんでも抱え込んで苦しむのを見るのはつらい。少しくらい、頼ってくれてもいいじゃないか。

空気を求めて喘ぐたびにぱたぱたと床に飛び散る涙。治まったかと思えば呼吸がまだ震えているなんてざらで、咳き込んだらまた浅くなって。床でも俺でもないどこか虚ろな一点だけを見据えて、ただただ酸素を求める姿が痛ましかった。

「かず、と、もう、いい、か、ら」
合間合間にひゅうひゅうと細い息を挟みながら零れた小さな声。紗英はいつも俺の事を「キリト」と呼ぶ。彼女が俺を「和人」と呼ぶときは、相当な精神状態かはたまた稀に見る愛情不足のときだけ。今回は間違いなく前者。もういいと言うが、心の底では助けを求めているという事だ。

「駄目だ、ちゃんと息できるまで居てやるから」
「ん、」
「なんか飲めるか?」
そういえば明日奈が水分には人を落ち着かせる効果があると言っていたのを思い出した。イライラした時や不安なときには水やらお茶やらを飲めば少し楽になるそうだ。彼女の過呼吸の原因は、本人曰く「自分の無力さに対しての不安・怖さ」だと聞いた記憶がある。例えば失敗を繰り返すだとかのちょっとしたことの積み重ねで、急に襲い掛かってきて号泣してしまい過呼吸に繋がってしまうそうだ。今日もそうだった。

冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出し、小さめのグラスに注ぐ。ささっとボトルをもとの位置に戻して後ろ手で扉を閉めてから、少し落ち着いたのか体勢を変えて床に座った紗英の横へ近づいた。
「ゆっくり飲めよ」
こくり、と頷いて震える両手でグラスを受け取る紗英。その手つきが危なっかしかったから、片手でグラスを支えて片手で背中をさする。俺が注意した通りゆっくりと傾けられるグラスから、紗英の細い喉を通って取り込まれていく水。半分ほどを穏やかなスピードで飲み干してから、ふう、と息をついた。

「大丈夫か?」
「うん、なんとか」
掠れているが、さっきよりはしっかりとした発音。安心して頷き返し、グラスをシンクの水道水を張った盥に漬けた。ぽちゃん、と空気が弾けた。
隣に屈んで、優しい手つきで紗英の背中を撫でてやると「もう大丈夫」と肩に手を添えて断られる。少し不安な気持ちが募るも、わかったと頷いて手を離した。そっと手を握って立ち上がらせ、近くのソファまで移動。腰を下ろして落ち着いたのか、ふう、と息を吐いた。



「……キリト、7月くらいに《ラース》にお世話になってたよね」
「ああ、うん」
7月初旬、俺は元《笑う棺桶》メンバーのジョニー・ブラックこと金本敦に襲撃され、搬送先のラースで治療という名目で2日間――内部時間では2年と200年が経過した――《人工フラクトライト》を使用するボトムアップ型AIの大規模実験に参加したのだ。


人工フラクトライトたちが生活する《アンダーワールド》にダイブさせられ、俺はユージオをはじめとするたくさんの人たちと出会い、また別れてきた。アスナたちがスーパーアカウントで助けに来てくれたおかげで、長い昏睡状態から目覚め、暗黒神ベクタことサトライザーを撃破。加速度が敵によって500万倍にされたにもかかわらず、俺とアスナは比嘉タケルが推測したフラクトライトの寿命である150年を優に超える200年を奇跡的に生き延びたのだ。

俺が消去を望んだらしく、俺の中にその200年の記憶はもうない。残るのはユージオと出会い別れた2年の記憶のみ。親友とも相棒とも呼べるユージオを失った記憶だけが脳裏に焼き付いて離れなかった俺を癒したのは、他の誰でもないこの紗英だった。

彼女もアスナたちと共にユイに協力を要請されたのだが、幸村家の令嬢である彼女は父の付添でパーティーに出ていたらしく、連絡に気付かなかった――反応したくてもできなかった――そうだ。無理を言ってパーティーを抜け出し、海の上のオーシャンタートルに辿り着いた頃にはアスナたちはもうダイブを始め、500万倍までのカウントダウンが始まっていた。今からのダイブは危険だと勧告され、それでも自分はどうなってもいいとダイブを望んだそうだが、菊岡誠二郎に窘められ断念したらしい。


「あの時、目の前にキリトが居るのに、助けられたのに、何もしなかった自分が嫌で嫌で仕方なくって」
「…うん」
「私はどうなってもいいからキリトを助けに行かせてって頼んだら、菊岡さんが、どうして? って聞いたんだ」
「…何て言ったんだ?」
「大事な人だから。帰ってきてほしいから。私は死んでも構わないから、キリトだけは助けさせて、って」

そんなの駄目だ、と思考が弾けた。仮に俺が助かっても、代償として紗英が居なくなってしまったら絶対に耐えられない。依存なんかではないけれど、それでも自分のために自分の隣から消えてしまうのは絶対に嫌だ。



「お願いです、キリトを――和人を助けに行かせて下さい。あなたたちの力では、もうどうしようもないのでしょう?」
パーティーで着ていた正装のワンピースのまま、菊岡誠二郎に向かって頼み込んだ。
「失いたくないんです。和人だけは、絶対に失いたくない」
あの悪夢のようで美しかった仮想現実で、私の手を引いてくれた彼を。私の救世主を、失うわけにはいかない。蹲って泣いていたあの時の私に声を掛けてくれた優しさを、まだ失わせてはならないのだ。

「大切な人だから失いたくない、ってことか」
「はい」
きらり、機械的な光を反射して菊岡誠二郎のメガネが白く光った。レンズの向こうから覗く眼光に、何もかも見透かすような――目の前の私がまだ子供だとでも言うような鋭さを感じる。

「なら訊こう。キリトくんがそれを許すと思うかい?」
「…っ」
息を詰める。キリトなら、和人ならきっと……。続く言葉は口にも頭の中にも出てこなかった。ゲーム初心者だったSAOで、《死》と《寂しさ》を恐れて彼の単独行動を制限したような私の口から言えるような話ではない。

「キリトくんにとって君は――ユエくんは間違いなく君の言う《大切な人》にあたるわけだ」
右中指で黒縁メガネのブリッジを押し上げる菊岡。またレンズが白く光って、一瞬だけ眼光が光の向こうに閉ざされた。
「ユエくんは今、大切な人を失いたくないと言ったね」
こくりと同意の意を込めて頷く。菊岡も返事をするように真面目な顔をゆっくりと縦に振った。するりと衣擦れの音と共に彼の腕が着流しの合わせの前で組まれる。


「それは、キリトくんも同じなんじゃないかな」


一瞬の戦慄。即座の焦燥。総務省の役人の言葉が、気持ち悪いほど胸に馴染んだ。もしもキリトだけが助かったなら。もしも私がいなくなったら、キリトはどうなるのか。何を、感じるのか。
じゃあ、もしもキリトがいなくなったら、私は、私は―――。
「……和人」
無意識に、彼の名を零していた。―――生きていられない。
「でも、和人が目を覚ますまでここに居させてもらいますからね」
「追い返す理由はないよ」
何時いつまで経っても何もできない自分が悔しくて、唇を強く噛んだ。



「あの時、自分の都合だけで動いてたってことにも気が付いたんだよ」
キリトの気持ちなんて全然考えてなかったんだ、やっぱり『我儘なお姫様』なんだよ、と続ける紗英。
SAOで俺が付けた紗英――ユエの呼び名、それが『我儘なお姫様』だ。
周りの事なんて考えずに戦闘をする、文字通りソロが似合う少女。ゲームメイクも作戦も、全て彼女だけで完璧にこなせてしまう。おまけに現実では名家のご令嬢ときたものだ。そんなことから皮肉と称賛を込めて俺はユエのことを『我儘なお姫様』と形容した。断りを入れておくと、本人の性格は、数多の物語に登場するいわゆるワガママプリンセスな感じではない。
紗英はそれを理解しながら、自身への皮肉としてその呼び名を挙げた。

「ほんとに……ほんとにごめん、和人。また役立たずだね…」
ごめんね、と続けられるであろう唇を、静かに自分のそれで塞いだ。一瞬にして長い静寂が部屋を包む。驚いたように見開かれた瞳と僅かに強張った身体が、ゆっくりと力を抜いて、長い睫毛を伏せて、俺に預けられる。そっと紗英の右手に右手を重ねながら、そっと唇を離した。精神的プラトニックな関係を保っているからか、一回のキスに特別感を覚える俺がいた。



キスを終えて俺の顔を見た紗英の瞳に、少しずつ浮かんでゆく涙があった。
それをひとつぶだけ零しながら、彼女は俺の胸元に擦り寄った。優しく抱きしめかえす。
「こんなに大切にしてくれてるのに…私、どうして……!」
「いいんだよ、俺も諦めてた時期はあったさ」
もう紗英に会えないんじゃないかと。このままここで死んだら、あのときSAOのように、現実でも終わってしまうんじゃないかと。あの世界で、そう考えたことがないとは言えない。
「よくないよ……! 私が行かなかったせいで、力が無いせいで、キリトが帰って来なかったらどうしようって……。和人は今こうしてここにいるのに、今でも嘘なんじゃないかって考えて、辛くて。私のせいでキリトが酷い目に合うのは、もう嫌なの……」
はっと息を呑む。彼女の過呼吸の原因で語られた、「自分の無力さに対しての不安・怖さ」はこのことだったのだ。
自分の力が無いばかりに、キリトがいなくなったら。自分のせいで失ってしまったら。SAO時代からひっそりと芽生えていた畏怖が今回の弾みに開花してしまったということだろうか。
どうして諦めたんだろう、と涙を流す紗英の涙をそっと指先で拭って、俺は続けた。

「でも今、こうやって紗英に会えてるし触れられてる。本当に奇跡だと思ってる。もう逢えないんじゃないかって考えるのがすごく辛かったから。今が凄く幸せなんだ」
紗英がここにいることを確かめるように、データの集合体じゃないということを証明するように、強く、強く細い身体を抱きしめた。ああ、現実なんだと思い返すと同時に、あの世界アンダーワールドだって本物だったんだと悔やむ。

「…だから、泣かないで、紗英。俺は紗英の笑ってる顔が好きだから」
「…うん」
花が咲くように美しい笑顔だった。

あの時うずくまっていた彼女を、あの時仲間を失って俺よりも傷ついてしまった彼女を、あの時俺と共に人を斬ってしまった彼女を、あの時俺を守るために同じ過ちを繰り返そうとした彼女を、守りたいと思ってよかったと深く感じた。細い身体をぎゅっと抱き締める。彼女の右手を俺の右手と絡めて、そのままソファに紗英ごと倒れ込んだ。

「あいしてる、もう居なくならないでくれよ」
「私もだよ。ありがとう、キリト」



弱い。でも守りたいし、離されたくないし、離したくない。愛してたいし、愛されたい。ずっとそばにいてほしい。ビーターなんて、SAO生還者なんて仰々しい二つ名貰いながら、自分で守れるだけの力がないくせに。そんなこと、ただの贅沢だよね。



弱いなら守る、離されたくないなら離さない。愛されたいならことこん愛しぬいてやる。仰々しい二つ名貰いながら、君がいないとどうにも寂しいんだ。
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