月がいなくなる日
…ああ。またこの日がきたようだ。
とある満月の日の夜。しかし月明かりなんて当たらない闇の中で、死はそれを感じ取った。
それは、死にしか分からない感覚。死だけが感じ取れる感覚だ。
今まで何万回、何億回と経験したのだから、もう慣れたものだった。
なんだか今回はいつもより遅かったかもしれない。前回はどうだっただろうか。
死は古い記憶を呼び覚まそうとしたが、すぐに無駄なことだと思ってやめた。
そんなことよりも、今やるべきことをしなくては。
死はすっと立ち上がると、裸足の足でぺたぺたと光のほうへと歩いていく。
そして、暗闇の中からふわりとその姿を現した。
「……」
上を見上げると、そこには夜を皓皓と照らす立派な満月が光り輝いていた。
神秘的で美しく、しかしどこか力強さも感じられるその存在。
これから終わりを迎えるなんて、とても思えないほど。
少しの間だけ、目を細めて月を眺めると、死は再び歩き出した。
行き先は、あの月の元だ。
…最初の場所からそれほど遠くない距離を歩くと、死は月のいる高台へとたどり着いた。
夜だとその存在感は凄まじいものである。そのため、死はすぐに月の姿をとらえることができた。
一方月は、死の存在にはまだ気付いていないようだ。死に背中を向け、ひとり静かな町を見下ろしていた。
「………」
死はその大きな背中をじっと見つめる。
もともと体が大きい月だが、いつも最初の頃は不安や緊張からか、その背中はとても小さく、そして頼りなく見えていた。
それも当然だ。正真正銘、生まれたばかりの赤子のようなものなのだから。
死ぬ眠る前の記憶は一切なく、自分の居場所も、共に過ごした死のことだって、覚えていないし分かっていない。
そんな月に、死はいつもいつも居場所を与えていた。前の月と過ごし、遊び、何度も交わったあの空間。
何万年、何億年経ってもなくなることのない、あの不思議な空間。
死と月しか存在しない、あの静かな空間。
そこで死は月に、飽きることなく繰り返し様々なことを教えるのだ。
言葉。遊び。キス。交わり。
死から学んで日々成長していく月の姿を見るのは、死の楽しみのひとつでもあった。
その過程で、小さな背中はどんどん大きくなっていく。
現に、今の月の背中はとてもたくましい。
最後に抱かれたあの時だって、月はもう一人前の男だったのだ。
「…ふふ」
今日までの月との思い出につい浸ってしまった死は、嘲笑気味に笑った。
残念ながら、楽しかった日々も今日で終わりだ。
…時間がきたようだ。
「なあ」
死は後ろから声をかけた。
「…死?」
ぴくりと体を動かした月は、後ろを振り返る。
いつも無表情のその顔も、少しだけ驚いているようだった。死がいるとは思わなかったからだろう。
一緒に遊びにいく時以外は、死と外で会うことなんてめったにないのだ。
「何故ここに?」
そう言いながら、死に近付いていく月は
「……ッ…?」
突然 全身の力が抜けたように、その場にがくりと膝をついた。
当の本人も、何が起きたのか分かっていないようだ。
なんとか立ち上がろうとするも、まるで地面に引っ張られているかのように、足が動かない。
そんな異常事態に為す術もなく、力の入らない月は、今度は両手を地面についた。
さらには大きな体も支えきれず、とうとう その場にうずくまってしまった。
死はそんな月を助けることなく、ただただ静かにその様子を見ていた。
「ふっ……ふっ…」
浅い呼吸を繰り返す月。頭を地面につけているため、白いフードに隠れてその顔は見えなかった。
死は月に近寄り、真横にしゃがみ込む。
「…なあ 月よ。今日まで、楽しかったか」
死の声が聞こえているかも分からない月に、死は話しかけた。
これがきっと、最期の会話だ。
「…ふっ……ふ………ぁぁ…」
弱々しい声で、月はそう答えた。この状況で突然そんなことをたずねてきた死に、疑問を抱いた様子もない。
もしかしたら、己がもう終わるのだと分かったのかもしれない。
そうだとしたら、この月はある意味幸運だ。今までの月の中には、自分の身に何が起きているのか分からないまま死んでいった月もいたのだ。死と最期に穏やかな会話をすることもなく。
不安の中 逝ってしまった月は、最期は一体どんな気持ちだったのだろうか。…それを知る術ももうないが。
……さて、この月ももう終わる。死はそう悟った。
「それならよかった。…ほら。ゆっくり、おやすみ」
死は月の背中を優しく撫でる。大きな背中は、もう呼吸を続ける気配もない。
「…また生まれておいで」
「…ふ……」
最後に短く息を吐いた月は、その後、眠ったように動かなくなった。
その瞬間、黒い雲がかかり、空の月は見えなくなった。
しかし、誰もそのことを気にとめない。
ただ雲がかかっただけだ。すぐに、あるいは知らないうちに、またその姿を現すのだろう。
明日の夜には元通り。誰もがそう思うはずだ。
だって、月がなくなることなんて、絶対にないのだから。
月は、死と再生を繰り返す。それを知るのは死だけだ。
とある満月の日の夜。しかし月明かりなんて当たらない闇の中で、死はそれを感じ取った。
それは、死にしか分からない感覚。死だけが感じ取れる感覚だ。
今まで何万回、何億回と経験したのだから、もう慣れたものだった。
なんだか今回はいつもより遅かったかもしれない。前回はどうだっただろうか。
死は古い記憶を呼び覚まそうとしたが、すぐに無駄なことだと思ってやめた。
そんなことよりも、今やるべきことをしなくては。
死はすっと立ち上がると、裸足の足でぺたぺたと光のほうへと歩いていく。
そして、暗闇の中からふわりとその姿を現した。
「……」
上を見上げると、そこには夜を皓皓と照らす立派な満月が光り輝いていた。
神秘的で美しく、しかしどこか力強さも感じられるその存在。
これから終わりを迎えるなんて、とても思えないほど。
少しの間だけ、目を細めて月を眺めると、死は再び歩き出した。
行き先は、あの月の元だ。
…最初の場所からそれほど遠くない距離を歩くと、死は月のいる高台へとたどり着いた。
夜だとその存在感は凄まじいものである。そのため、死はすぐに月の姿をとらえることができた。
一方月は、死の存在にはまだ気付いていないようだ。死に背中を向け、ひとり静かな町を見下ろしていた。
「………」
死はその大きな背中をじっと見つめる。
もともと体が大きい月だが、いつも最初の頃は不安や緊張からか、その背中はとても小さく、そして頼りなく見えていた。
それも当然だ。正真正銘、生まれたばかりの赤子のようなものなのだから。
死ぬ眠る前の記憶は一切なく、自分の居場所も、共に過ごした死のことだって、覚えていないし分かっていない。
そんな月に、死はいつもいつも居場所を与えていた。前の月と過ごし、遊び、何度も交わったあの空間。
何万年、何億年経ってもなくなることのない、あの不思議な空間。
死と月しか存在しない、あの静かな空間。
そこで死は月に、飽きることなく繰り返し様々なことを教えるのだ。
言葉。遊び。キス。交わり。
死から学んで日々成長していく月の姿を見るのは、死の楽しみのひとつでもあった。
その過程で、小さな背中はどんどん大きくなっていく。
現に、今の月の背中はとてもたくましい。
最後に抱かれたあの時だって、月はもう一人前の男だったのだ。
「…ふふ」
今日までの月との思い出につい浸ってしまった死は、嘲笑気味に笑った。
残念ながら、楽しかった日々も今日で終わりだ。
…時間がきたようだ。
「なあ」
死は後ろから声をかけた。
「…死?」
ぴくりと体を動かした月は、後ろを振り返る。
いつも無表情のその顔も、少しだけ驚いているようだった。死がいるとは思わなかったからだろう。
一緒に遊びにいく時以外は、死と外で会うことなんてめったにないのだ。
「何故ここに?」
そう言いながら、死に近付いていく月は
「……ッ…?」
突然 全身の力が抜けたように、その場にがくりと膝をついた。
当の本人も、何が起きたのか分かっていないようだ。
なんとか立ち上がろうとするも、まるで地面に引っ張られているかのように、足が動かない。
そんな異常事態に為す術もなく、力の入らない月は、今度は両手を地面についた。
さらには大きな体も支えきれず、とうとう その場にうずくまってしまった。
死はそんな月を助けることなく、ただただ静かにその様子を見ていた。
「ふっ……ふっ…」
浅い呼吸を繰り返す月。頭を地面につけているため、白いフードに隠れてその顔は見えなかった。
死は月に近寄り、真横にしゃがみ込む。
「…なあ 月よ。今日まで、楽しかったか」
死の声が聞こえているかも分からない月に、死は話しかけた。
これがきっと、最期の会話だ。
「…ふっ……ふ………ぁぁ…」
弱々しい声で、月はそう答えた。この状況で突然そんなことをたずねてきた死に、疑問を抱いた様子もない。
もしかしたら、己がもう終わるのだと分かったのかもしれない。
そうだとしたら、この月はある意味幸運だ。今までの月の中には、自分の身に何が起きているのか分からないまま死んでいった月もいたのだ。死と最期に穏やかな会話をすることもなく。
不安の中 逝ってしまった月は、最期は一体どんな気持ちだったのだろうか。…それを知る術ももうないが。
……さて、この月ももう終わる。死はそう悟った。
「それならよかった。…ほら。ゆっくり、おやすみ」
死は月の背中を優しく撫でる。大きな背中は、もう呼吸を続ける気配もない。
「…また生まれておいで」
「…ふ……」
最後に短く息を吐いた月は、その後、眠ったように動かなくなった。
その瞬間、黒い雲がかかり、空の月は見えなくなった。
しかし、誰もそのことを気にとめない。
ただ雲がかかっただけだ。すぐに、あるいは知らないうちに、またその姿を現すのだろう。
明日の夜には元通り。誰もがそう思うはずだ。
だって、月がなくなることなんて、絶対にないのだから。
月は、死と再生を繰り返す。それを知るのは死だけだ。
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