怪物

── 近国が滅びたとのこと。
そう知らされたのは数年後のことだ。彼は十代半ばに差し掛かろうとしていた。
…許嫁に会う予定だったあの後、従者の調べによって近国は本当に戦渦にいるのだという事実が判明した。助けを求めればいいものを、滅びるその時まで一切 こちらの手を借りようとはしなかった。信用していなかったのか、それとも巻き込みたくなかったのか。今となっては確かめる術もない。許嫁もその家族ももういないのだから。

「契りを結ばなくて本当によかった。もしあのまま婚約の話を進めていれば、我が国も争いに巻き込まれていたかもしれないからな」

そう言い放った父親を彼は睨み付けるように見つめた。くるくるくるくると、手のひらを返してばかりだ。
今はこの国にも他国の者がちらほらとやって来て街で揉め事を起こすことはあるが、王のいる宮殿に忍び込む者はいなかった。そんな企みはあるものの、宮殿の厳戒体制に簡単に近付くことができないのかもしれない。王である父親も街に出ることはごく稀だった。

近国ではなく、この腐った国が滅びればよかったのに。

同族の前で口にすれば即 刑罰を受けるであろう言葉を飲み込んで、彼は懐に小袋を忍ばせて街へと足を運ぶのだった。



「…あ、パン屋のお兄さん。今日もパンありがとう!」

…フードを被った彼は、パンが詰め込まれている小袋の一つを少年に手渡した。

「えへへ…なんだか日に日に重くなってる気がする」

にへら…と笑った少年に、彼は「気のせいだ」とでも言うように顔を逸らした。少年も彼の態度を見て「あ、やっぱり気のせいかも?」と笑いながらとぼけていた。

この給仕のような真似事は二年ほど前から密かに続けていることだ。だから少年とはもう二年ほどの付き合いである。この少年はこの辺りに住む子供達のリーダーのような存在だ。だからこの一人だけに手渡せば、自然と子供達に行き渡るというわけだ。人と接することが少し苦手な彼にとってはずいぶんと楽な方法だった。毎日パンを配りに来る彼を、少年はパン屋だと思っているようだ。別に構わないが。というのも、他国の者が揉め事を起こしていないか街をパトロールする目的も含まれていた。それもあってパン屋に見えているなら彼も動きやすいと考えたのだ。
自分にできることを彼なりに考えた結果がこの密かな給仕活動と見回りである。同族に知られようものなら酷く罵倒されそうな行為だった。しかし、やめるつもりはない。

「早くみんなにも配らなくちゃ!本当にありがとう!じゃあね!」

笑顔で手を振りながら走り去って行く少年を見送ると、今度は暗い路地裏へと彼は歩いて行った。

太陽の光が届かないその場所にも、彼がパンを与え続けている存在がいた。

「……」

少年に手渡したものと同じくらいの重さの小袋を、その者の前にそっと置く。すると、その者は細すぎる腕を伸ばして小袋を掴み、その場で袋を開けて手掴みでパンを食べ始めた。少年と違ってお礼の言葉が返ってくることはなかったが、彼は気にしない。
そのムシャムシャという音を聞きつけて、奥の暗闇からも同じような者達がぞろぞろと這い出てきた。

「うぅ~…」

「ごは、ん……」

…すると、パンを食べていた者は隣にやってきた者に小袋を手渡した。受け取った者も少しだけ食べると、また次の者へと小袋を回した。
……どれだけ腹が減っていようと、路地裏の彼らは食べ物を分け合う。彼はそのことを知っているため、余計な口出しはせずにただ見ているだけだった。

「………」

同じ国に住んでいて、こんなにも違う。
彼らも、あの少年も、それに滅びた近国の貴族達にも、同族にはないものを持っている。
金や地位なんていう無機物なものよりきっと大事なものだ。
…彼らにはちゃんと、心というものがあるのだ。
それはジビエ料理や彫刻で飾られたベッドとは比べものにならないくらいにあたたかいものなのだろう。

「……」

あくまで彼もこの国の貴族の人間だ。だから心というものが自分にもあるのかどうかはよく分からない。
…しかし。
この国で必死に生きている彼らのために、もう少し自分にできることがあるのではと思った。

「……、」

…彼は己の内に ある秘め事 を抱えながら、宮殿へと戻るのだった。
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