つがい

「なあ、月よ。君にはつがいはいるのかい?」

死と月しかいない無の空間。
椅子のように凹凸に歪められた空間へと足を組んで座っていた死は、月にそう尋ねた。
死の問いかけに、月は首を傾げる。

「…つがい?」

「ふむ。知らないということは、いないのか」

特に驚いた様子もなく、死はそう呟いた。
死が見つけた時、この月はひとりでふらふらと彷徨い歩いていた。「水が欲しい」と渇きに酷く苦しんでいた。よほどの外道でもないかぎり、そんな可哀想な存在、ましてや番を放っておく心のないモノなんていないだろう。死もしばしの間は悶え苦しんでいる月を観察していたのだが、好奇心が湧いて興味本位で声をかけたのだ。月が欲しがっていた水ではなく、極上の葡萄酒を与えてやったことで月に懐かれ今に至るのだが。
一方、月は死が発した「つがい」というものに興味を引かれたようだった。

「つがいとはなんだ」

「大事な存在のことだよ」

「…大事な存在。死にはつがいはいるのか」

「今はいないよ」

言葉を覚えたての子供のように番についてぐいぐいと聞いてくる月に、死は はた…と思いついた。

「…そうだ。いつか君にも番ができた時のために、演習でもしておこうか」

「…えんしゅう?」

またしても初めて聞く言葉に月が首を傾げていると、死は立ち上がって月へと近付いていった。やがて目の前まで来ると、笑みを浮かべて月をじっと見上げる。

「ああ。男である君がリードしてあげなくちゃね」

死はそう言うと、月を地べたに座らせた。自身はその膝の上へと乗り上げる。死と月は、至近距離で向かい合う形となった。
何をするのかよく分かっていない月は、じー…と死を見つめている。そんな月に、死は妖艶に笑いかけた。
白くて長い人差し指を、ゆっくりと月の口元へと持って行く。

「ここは、大事な時まで取っておくこと」

ぴと、と月の唇へと人差し指を押し当てて死はそう言った。当然ながら分かっていない月は、ぱち、ぱち…と瞬きをしながら死を見つめていた。
その代わりに、死は顔を近付けて月の頬にちゅっと触れるだけのキスをした。

「…!」

突然のことに、月の体はぴしっ…と固まった。…目を見開いたまま黙り込んでしまっている。

「そんなに驚かなくてもいいだろう」

月のうぶな反応をくすくすと笑いつつ、次に死はフードの中へと指を滑らせていき、月の首筋をそっと撫でた。長く筋の入った逞しいそこからは、月の熱い体温が手に伝わった。

「ここへの口付けや愛撫は、相手への愛情表現のひとつだ」

死はお手本を見せるため、月の首筋へと顔をうずめると、舌で舐め上げてから ちゅう…と吸い付いた。

「…っ」

死のあたたかで柔らかな舌と唇の感触を首筋に感じ、月の体はびくりと跳ねた。死は教え込むように、何度も首筋へとキスを落としている。初めての経験に、月の心臓はドキドキとうるさいくらいに鳴り響いていた。すぐ真下で感じる死の息遣いも、月の背中をぞくり…と震えさせるには充分だった。
死が吸い付いた箇所には薄紅色の痕が点々とついていたが、死が指で拭うと不思議なことにその痕は跡形もなく消えていた。これでノーカウントだ。何故ならこれは本番ではなく、ただの演習だからである。

「愛おしい存在にはたくさんキスをして伝えてあげるといい。君は顔も体もいいから、相手はイチコロだよ。ただし、無理強いはダメだ」

死はそう言うと、自身が被っているフードの端を手で持ち少しはだけさせた。垂れていた三つ編みも後ろへと流し、月の前に白い首筋を晒す。

「やってみな」

…月は言われたとおりに、死の首筋へと顔を近付けていく。鼻先がかするところまで近付くと、ふわ…といい匂いが鼻を掠めた。
月は間近でその色香にあてられる。軽く吸い込むだけで、頭がくらくらとしそうなほどだった。
吸い寄せられるように、月は死の首筋へと唇を押し当てる。先ほどの死を真似て舌でも舐めてみる。…が、やはり初めてのそれは拙いものだった。
キスというよりも、ただ唇を押し当てているだけである。ちろちろと控えめに舐める舌では、ちっとも気持ちよくなんてなれない。

「…ふ。へたくそ」

死は嘲笑気味にそう言い放つと、月の肩を押して稚拙な行為をやめさせた。それだけでなく、死はさらにグッと力を込めて月の両肩を押し、月をドサッと後ろへと押し倒した。月は満月のように目を丸くして、上にいる死を見ている。
目を細めて月を見下ろしている死は、男の表情をしていた。

「そんなんじゃあ相手を満足させてやることなんてできない。無理強いはダメだと言ったが、嫌だと拒否できないくらいの快楽で相手を支配してやるのは別だ。強すぎる快楽に勝る理性などない」

……月は圧倒され、呆然とした表情で死を見ていた。
…しばらくすると、死はにこりといつもの優しげな笑顔を月へと向けた。

「なんてね」

軽い調子でそう言うと、死は月の上からそっと退いた。月もゆっくりと起き上がる。

「……」

月は起き上がった後も黙り込んだままだったが、しかし死に対してマイナスな感情を抱いたわけではなかった。
驚いたのは驚いたが、それよりも、死の新たな一面を垣間見ることができたことを嬉しく思ったのだ。
圧倒的強者であった死は、月の心を震えさせ、そしてさらに強く惹きつけた。それは畏怖にも似た感情なのかもしれない。
月は、すぐ近くで「ふあぁ…」と小さくあくびをしている死へと視線を送る。死もその視線に気が付いたようだった。

「…死」

「うん?」

にこりと美しい笑顔を見せた死に、月はこう告げたのだった。

「…もっと私に教えてほしい。先ほどまでのえんしゅうのことも、つがいのことも、そして、死のことも」
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