心中

夜の森の奥深く。
赤ずきんを抱えた狼憑きは、人間たちの声が聞こえてこないところまで来ると、赤ずきんをそっと地面に寝かせた。はっきりと見える夜目で、浅い呼吸を繰り返している赤ずきんの容態を確認する。

「…はぁ…はぁ……」

…先ほど鉄砲で撃たれた腹からは血がドクドクと止めどなく溢れ、苦しそうに汗を流し、顔色も氷のように真っ青だった。
その様子から、赤ずきんが助かる見込みはなかった。
もって一晩だと、狼憑きは察した。

「………」

……赤ずきんがこんなことになってしまったのは、数日前に狼憑きが起こしてしまった事件がきっかけだった。
この森の近くにある、赤ずきんが産まれた村。邪視を持って産まれた赤ずきんを人とすら思わずに、人喰い狼を殺すための餌として育てていた異常な村。その村で暮らす男に偶然出会い、赤ずきんを侮辱されたことに酷く嫌悪感を抱いた狼憑きが…人喰い狼が、赤ずきんの目の前でその男を噛み殺してしまったのだ。その惨劇を目の当たりにした赤ずきんはショックを受けてしまい、我に返った狼憑きは遺体の隠蔽をすることもなく、呆然としていた赤ずきんを連れてすぐにその場を離れたのだった。
その後、身を潜めた洞窟内で狼憑きは赤ずきんに自身の正体を明かし、これから待ち受ける逃亡生活のことも伝えた上で、赤ずきんは狼憑きと共に生きることを選んでくれたのだ。狼憑きの感情と行動をすべて支配している心は、それで完全に赤ずきんへと縫いつけられたのだった。
翌日には男の遺体も発見され、村人たちは仲間が犠牲になったことで怒り狂い、人喰い狼を倒そうと大いに奮い立った。近くの町へも応援を呼びかけたことで、その討伐隊は想像以上に大きな勢力となっていた。
狼憑きと赤ずきんが知らないところで、村人たちと町人たちの間では情報網が張り巡らされ、いつしか赤ずきんの存在も知られていたのだ。
村人たちにとって、邪視持ちである赤ずきんは災いだった。その災いがさらに災いである人喰い狼を連れて戻ってきたのだ。だからもう赤ずきんを殺せば祟りがあるかもしれない、と恐れている場合ではなかった。
「邪視も、人喰い狼も、どちらも殺せ」
それが彼らの合言葉になっていたのだ。

狼憑きと赤ずきんはとりあえずは森を抜けようと、慎重に人目を避けながら移動していた。狼憑きは赤ずきんに「もしもの時は邪視の力を使え」とも伝えていたが、赤ずきんが首を縦に振ることはなかった。
…やはり人の足で逃げ切るには限界があり、そして人数の差には勝てなかった。
ついには人間たちに見つかり、鉄砲の攻撃を受け、悲劇にもその弾が赤ずきんへと当たってしまったのだ。
狼憑きは赤ずきんを抱えて森の奥へと逃げ込み、そうして今に至るのだった。

「……」

…すべては自分が招いたことだ。赤ずきんをこんな目にあわせてしまったのも、自分だ。

狼憑きがうつむいていると、赤ずきんは朦朧とする意識の中、心配させまいと狼憑きへ精一杯微笑んでいた。まるで、「おおかみのせいではない」と安心させているように。

「…はぁ…はぁ……は…」

こんな状態になってしまっても、赤ずきんはどこまでも優しく、そして強い心を持っていた。狼憑きは、そんな赤ずきんが何よりも大切だった。
この赤ずきんがいない世界なんて、生きてく意味がないと思うほどに。
…狼憑きは、赤ずきんを見つめる。

「………」

赤ずきんの、右目へと視線を向けた。
汗と血が滲んでいる包帯へと手を伸ばし、スルスルと取り外す。
閉じられていたその目からは、涙のように血が滴っていた。

「…?」

包帯を外された赤ずきんが薄く目を開けると、眼球まるごとが血の色に染まっている様子が見えた。
これが赤ずきんが持つ邪視だ。今まで一度もその力が発動されたことはない、優しい赤ずきんが生まれ持った呪いだ。
狼憑きは、その邪視をじっと見つめていた。それで狼憑きが考えていることを察したのか、赤ずきんは焦りながら必死に「だめ」「やめて」「たべないで」と訴えていたが、その願いは狼憑きには届かない。
近くに落ちていた口輪を差し出されるも、狼憑きがそれを受け取ることはなかった。

狼憑きは、本気で赤ずきんを食べようとしていた。
この赤ずきんと共に、この世界から消えようと思った。
邪視の呪いを持つ赤ずきんを食べれば、呪われている自分も死ぬことができるはずだ。
急がなければ。赤ずきんが死ぬ前に食べてしまわないと、呪いの力が自分に効かないかもしれない。

赤ずきんに盲目的な狼憑きは、その道しか考えなかった。

「……」

仰向けで寝ている赤ずきんに体重をかけないように、狼憑きはその華奢な体へと覆い被さった。赤ずきんは涙を流して懇願しながら、狼憑きへと制止の言葉をかけていた。しかし、狼憑きはその願いを聞き入れない。
青色の宝石のブローチが留められているシャツへと手を伸ばし、そのボタンを上から一つずつ外していった。腹の辺りは血で真っ赤に染まっており、痛々しいその箇所のボタンも慎重にすべて外した。服をはだけさせて、赤ずきんの肩を晒す。

「……は…」

狼憑きは大きく口を開けて、左肩へとかぶりついた。

「う…」

赤ずきんは小さくうめいたものの、その反応は薄い。
どうやらもうほとんど痛みも感じていないようだった。
これなら、苦しめることもない。

牙を突き立てたことで、狼憑きの口の中には赤ずきんの血の味が広がっていた。その味は今まで喰ってきたどの人間のよりも、甘いものに感じた。
…狼憑きは意を決して、愛してやまない赤ずきんの体を食いちぎった。

「ぁ…っ」

その力に引っ張られ、赤ずきんの体がわずかに動いた。狼憑きは口の端から血を滴らせながら、赤ずきんを見下ろす。…虚ろな目をした赤ずきんはもう視界もぼやけているのか、狼憑きが見えているのかすら不明だった。

「……、…、」

狼憑きも視界がぼやけ始める中、口の中にある赤ずきんの肉を咀嚼する。

「……っ…、」

……その味はやはり、今までの人間とは比べものにならないほどに甘く…美味いものだと思ったのだ。
狼憑きは赤ずきんの姿が目に映るうちに食べてしまおうと、その雪のような肌に何度も何度もかぶりついた。クチャクチャ、バリバリ、と獣が食事をする際の音が静かな森の中に響いていた。もしこの音を聞いて先ほどの人間たちがやって来たとしても、残っている赤ずきんの体を抱えてまた森の奥深くへと逃げればいいだけだった。
狼憑きは赤ずきんという存在を最後まで食べきるつもりだ。この世界にわずかでも赤ずきんを置いていくことは許せなかった。それがたとえ、赤ずきんの片手、舌、目、髪の毛の一本、骨の一本、わずかな肉片だけだとしても。
腹が張り裂けそうになろうと、先に呪いで命が尽きそうになろうと、死に物狂いで食べ尽くそうと。
狼憑きが抱いている赤ずきんへの執着は、もはや正気の沙汰ではなかった。人には到底理解できないほどの狂気を孕んでいたのだ。

「……赤ずきん」

「…う、ぅ…」

狼憑きが囁くように呼びかけると、赤ずきんはわずかながらも声を出した。体のところどころを食べられているが、まだ生きているようだった。
赤ずきんの左目からは透明の涙、右目からは赤い血が流れていた。もうあの頃のように、光を宿して美しく輝きを放つことはないだろう。

「……」

狼憑きは顔を寄せて、舌で赤ずきんの涙と血を舐め取った。
…赤ずきんのであれば、涙すらも甘く感じるのだと思った。

赤ずきんの体を多少取り込んだからか、狼憑きの体の内側は熱を発しているかのように火照り始めていた。これが呪いの影響なのかはまだ分からないが、しかし今更恐れることもなかった。赤ずきんから貰い受ける呪いなら、不快感も嫌悪感も一切なかったのだ。

狼憑きは赤ずきんの右手を取り、愛おしげにその指先へちゅっと口づけた。赤ずきんはこの手で毎日楽しそうに料理を作っていた。狼憑きの心が荒れたいつかの日に、背中を優しく叩いて安心させてくれたのもこの手だ。共に生きようと、この手を取ったのに。…なのに……。
もう、その願いも叶うことはない。

「…は……」

狼憑きは胸が張り裂けそうになる中、その白くて細い指を口へと含んだ。ガリ、ガリ、と一本ずつ噛みちぎり、バリ、バリ、と噛み砕き、ジュブ、ジュブ、と溢れ出てくる血を飲み干して己の腹の中へと落とし込んでいく。
シャツを脱がして、手の甲、手の平、手首、腕も順に同じように食べ進めていった。

両の手と腕を食べ尽くした狼憑きは、次に赤ずきんのズボンへと手をかけた。ベルトを外し、ズボンと下着を一緒にずらして靴を脱がした後に足から抜き取った。露わになった美しい脚をそっと掴み、足の指を口に含んでまた食べ始めていく。この足で赤ずきんは旅をしていたのだ、と昔を思い返しながら。
…赤ずきんとの旅。それは本当にかけがえのないものだった。最初は鬱陶しく思っていたのだが、いつしか赤ずきんが後ろに、そして隣にいることが当たり前になっていた。
赤ずきんが少年から青年へと成長する過程をずっと見ていたのは自分だけだ。あの小さい姿も、あの背が伸びた姿も、あの大人一歩手前の姿だって、自分だけが知る赤ずきんなのだ。
狼憑きの独占欲には底がなかった。狂おしいほどに赤ずきんに心を奪われていたのだ。

…だから、

「………」

…… " これ " も、誰のものにもならなくてよかったと狼憑きは思った。

両の脚も食べ尽くした狼憑きは、赤ずきんの下半身のそれも、自分の中へと取り込んだのだった。



……赤ずきんの体をおおかた食べ尽くしたからか、体の内側はますます強い熱を帯び始めていた。

「はぁ…はぁ…っ……ぐッ…」

まるで体中の血液が沸騰しているかのように熱い。
狼憑きは、中から何かがせり上がってくるのを感じた。

「はッ……がは…ッ」

赤ずきんの体にはかけないように、顔を横にずらしてそれを口から吐き出す。見なくとも、口の中に広がる味でそれが何なのかはすぐに分かった。さらには鼻からも、ボタボタとそれは垂れ落ちてきたのだ。

「…はぁ……」

狼憑きは、鼻と口から流れ出てくる赤いそれを自身の袖で乱暴に拭った。
…急がなければ。呪いの効果が自分の体にも出始めている。
まだ赤ずきんをすべて食べていない。
獣のように息をしながら、狼憑きは赤ずきんの顔へと視線を移す。…赤ずきんはまるで、虚ろな目をした人形のようだった。呼吸も聞こえない。

「…赤、ずきん…」

……もう、先にこの世界からいなくなってしまったのだろうか。

狼憑きの目からも、鼻と口から出てきたのと同じ赤いそれが滲み出る。ポタ、ポタ、と下にある赤ずきんの体に落ちているが、その赤色は他の二つに比べると一段と薄いものだった。…きっと、目から出てきた別のものと混ざり合っているからだろう。それは止まることなく、狼憑きの月色の目からこぼれ落ちていた。

「……は…」

その液体のせいでぼやけて見えない視界を、狼憑きはまた乱暴に袖で拭った。
…急がなければ。早く赤ずきんを追いかけなければ。一刻たりとも独りにはさせない。
目、鼻、口から出血しながらも、狼憑きは再び赤ずきんを食べ進めようと腹へと顔を寄せた。
鉄砲の弾を受けたその箇所からは、赤ずきんの中が見えていた。どれほど痛く、苦しかったことだろう。それでも赤ずきんは、狼憑きへと微笑んでいた。…あれが最期の笑顔だったのだ。

「はぁ…ッ…はぁッ…う゛ぅッ…」

体の中が強い熱で溶かされているかのような痛みが走る中、狼憑きは歯を食いしばって耐えながら、赤ずきんの腹と中身を食べ尽くした。
…そして今 見えているのが、赤ずきんの心だ。

「はぁ……うぅ…っ」

もう動いてはいないそれで、赤ずきんは今まで生きてきたのだ。
…狼憑きはボタボタと血と涙を流しながら、赤ずきんの心も、自分の中へと取り込んだのだった。
……そして、残るは。

「…あぁ……赤、ずきん……」

狼憑きは赤ずきんの頬に、震える両の手を添えた。そして酷く愛おしげに、その顔を見つめて頬を撫でた。
自身の顔から流れ出る赤い液体で赤ずきんの顔を汚さぬよう、今から食べていくところだけを晒し、それ以外は赤いずきんで覆い隠した。狼憑きの目の前に見えているのは、赤ずきんの口元だ。
赤ずきんが生きている時にも、ずっとしたいと思っていたこと。ずっと伝えたいと思っていたこと。
…狼憑きは赤ずきんへと愛情を示すように、その口元へと軽く噛み付いた。

「…あか、ずきん」


狼憑きがそう呟いた、その時。


「…お……み…」


…小さな声で、そう聞こえた気がした。

「…、」

狼憑きは一瞬「まさか」とは思ったものの、赤ずきんがこの状態でまだ生きているとは思えなかった。きっと、自分に都合のいい幻聴を聞いたのだろう。…狼憑きの尖った耳からも、赤いそれは垂れ始めていたのだから。
…しかし、もし本当に、まだ意識というものが残っているのだとしたら……

赤ずきんに伝えることができるなら、最期に…

狼憑きは赤ずきんの耳元へと顔を寄せて、ゆっくりと囁いた。


「…赤ずきん、共に……共にゆこう」


己の世界も終わりに向かう中、狼憑きは涙を流しながら、赤ずきんの残りの部分も食べ尽くしていった。
唇も、舌も、耳も、青い左目も、髪の毛も、脳も、全部。
赤ずきんが生前ずっと身に付けていた、その名前の由来である赤いずきんは、狼憑きが食べている際に垂れ流し続けていた血でまみれていた。

…そして、狼憑きは最後に残ったそれを見つめる。

……赤ずきんを散々苦しめた邪視。…しかし、狼憑きと赤ずきんが出会うきっかけとなった邪視。

赤ずきんの体の中で、今日まで生きてきた邪視。


…最後に残っていたその邪視を口に含んで、咀嚼し、飲み込んだ瞬間


「…あぁ……やっ、と…」


呪いに耐えられなくなった呪われた体が、三百年生きた命を手放そうとしているのが分かった。
もう至るところからの出血を拭う必要もなく、垂れ流しのままだ。
視界も完全になくなった狼憑きが思うことはただ一つ。


…これでようやく、赤ずきんの元へとゆける。


意識が遠のいてゆく中、最期に狼憑きは心底嬉しそうに笑ったのだった。


── 大きな体はドサリとその場に倒れ、それから二度と動くことはなかった。









……その翌日。
森の奥から、一人の男の死体と血にまみれた赤いずきんとブローチのついた服が発見された。
男が身に纏っていたローブを脱がしてみたところ、人の耳ではなく獣のような耳をしていたことから、この男が人に化けた人喰い狼だと断定された。
この事実は国中に広まり、たくさんの人々の大きな関心を集めた。
きっとこれから先 何百年経ったとしても、伝説として後世に残り続けていくことになるだろう。

── これで、数百年前から語り継がれていた『人喰い狼』による食人事件は、本当に幕を下ろしたのだった。
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