狼憑きと赤ずきんの話
……もうそろそろでひと月か。
狼憑きは前々からふとした瞬間に、自身の腹の空きをわずかに感じていた。それは日に日に強くなり、そしてついにははっきりと分かるほどになったのだ。
赤ずきんと出会う前に起こした食人事件から、もうそろそろ一ヶ月が経とうとしているようだった。この一ヶ月間は少しの水だけしか口にしていない。赤ずきんの前で何かを食うことは一度もなかった。
これまでの狼憑きなら、腹が減れば即座に街でも村でも人のいる場所へと向かって適当に食事を済ませていたのだが、今はこの小屋で赤ずきんと共に暮らしている。狼憑きが一人でどこかに行こうとすると、赤ずきんもその後ろをちょこちょことついてきていた。ついてくるな、と何度言っても、「だって、ひとり置いて行かれちゃったら寂しいもん…」としょんぼりとするのだ。
いつの日だったか…赤ずきんが風呂に入っている間に、狼憑きはなんとなく森へと出たことがあった。ちょっとした散策をした後にまた小屋へと帰ったのだが、扉を開けると急に中から飛び出してきた赤ずきんが狼憑きへとぶつかってきたことがあったのだ。ボフッとわずかな衝撃を腹に感じ、すぐに「わっ!」と声も聞こえた。さすがに驚いた狼憑きが下に目を向けると、目の前に広がっていたのは見慣れた赤いずきん。狼憑きにぶつかってきた赤ずきんが顔を上げると、その瞳はうるうると潤み、ぐずぐずと鼻を鳴らしの半泣き状態だった。手にはバスケットを持っていたから、赤ずきんに何があったのか すぐに見当はついた。「あ…よかった…っ!帰ってきた…」と震える声で言っていたのだから、それで確信に変わったのだった。
そんなこともあり、狼憑きは食事の際に赤ずきんをどうしようかと考えた。まだまだ小さな子供だ。狼憑きとは足の長さも体力も大きな差があるのだから、森の中ではぐれさせることも簡単だった。それに先ほど思い出した出来事のように、赤ずきんが風呂に入っている間、もしくは寝ている間にこの小屋に置き去りにすることも可能であった。あの時はまた小屋へと帰ってきてしまったが、今度は本当に帰らないでいればいいだけの話だ。そうなれば…赤ずきんはギャンギャン喚きながら、独りで狼憑きを探すことになるのだろうか。
事件後は居場所を転々とし、いまだにポリスすらも見つけることができない狼憑きを、独りで。
「………はあ」
…あの無邪気な笑顔が深い悲しみに歪む様を想像し、狼憑きはため息をこぼして自身の髪の毛を ぐしゃ…と握り潰した。
狼憑きがいなくなっただけでうるさく泣き喚く赤ずきんに苛ついてというよりも、たったひと月 共に過ごしただけの赤ずきんに情が湧きつつある自身への苛つきのほうが強かった。呪われた者同士、さらには目を潰しているところを見てしまったのもあり尚更だ。こんな気持ちを抱くようになるなら、赤ずきんをあのボロい小屋に置いていけば、最初の森ではぐれさせていれば、寝ている間に置き去りにすれば、あの時 小屋へと帰らなければ、そうすればよかったのだ。赤ずきんを突き放す機会は何度もあったのに、そのすべてを捨ててしまって今に至る自分に、狼憑きは苛ついたのだった。
しかしこのまま何もせずに空腹の限界が来てしまうと、思考力も体力も通常より落ちてしまい狩りにも影響が出るおそれがあるため、狼憑きはとりあえず近くに村はないかと調べてみることにした。
立ち上がって赤ずきんを探していると、ひょっこりと現れた赤ずきんはそれだけで察したようで「あっ、散歩?おれも行く!」と元気に準備を始めるのだった。
日中の散策中に人に会うことはなく、すぐそこを流れている川も手つかずの自然のままに近かった。赤ずきんお得意の魚料理も、この綺麗な川で捕まえた魚を使っている。この森は赤ずきんお気に入りの食材の宝庫だ。
「わー!おおかみ見て!美味しそうな果物がなってるよ!もうそんな季節なんだ」
現に今も赤ずきんは、木になっている鮮やかな色の果物へと手を伸ばし収穫していた。
…もし近くの村で人喰いをすれば、あの小屋の辺りまでポリスが足を運んでくるおそれがあった。これまでの経験上、ポリスは意外と広範囲にわたって行方を追うのだ。だからこの場所からも離れなくてはならなかった。狼憑き一人だけならともかく、今は赤ずきんもいるのだ。森の奥にある山小屋で暮らしている、家族でもない青年と少年。人喰い狼への疑いの目は逸らせても、別の犯罪の件で問われる可能性もあった。狼憑きは赤ずきんを性的に喰おうと思ったことは一切ないのだが。
「よし、収穫完了!今夜のデザートにしよう~」
…この純粋な子供に、そういう邪な感情を抱くことはなかった。
朝に始めた散策であったが、そろそろ日が暮れそうになっても、村を見つけることはできなかった。しかし、普段の散策よりも長い時間 森の中を歩いていたため、辺りが薄暗くなってきた頃、その周辺の木だけが伐採された今も整備中らしき箇所を発見することができた。
「あれ?なんかここだけ木がないね」
「………」
その整備の跡は真新しく、近くに使用した道具類などはなかった。盗みが決して少なくない国だ。用心して持ち帰るにしても、長距離で足場も悪い中 重い道具を持ち帰ろうと思うだろうか。それに、自分の存在がここまで広まっているのかは不明だが…森の中で人喰い狼に出会うかもしれない中、わざわざ重荷になる道具を持ち帰ろうとするだろうか。いくら稼ぎの道具だとしても、命に代えるほどでもないはずだ。
狼憑きはそこまで考えた末に、結論を出した。
この近くに村はないにしても、ここで作業している人間が寝泊まりしている小屋か何かはあるはずだ、と。
「……」
狼憑きはまだ動けるため、このままその小屋を探しに行くこともできた。まだ腹の限界は来ていない。その小屋の場所だけでも見つけることができれば、成果は得られると思っていた。…しかし、今は赤ずきんもいる。いつものあの小屋へと戻る頃にはきっと深夜になっているだろう。健康的な赤ずきんはもうとっくに眠っている時間だ。
……狼憑きは はた…と気付いた。またしても無意識に、赤ずきんはどうなのだろうかと考えてしまっていた。どういうわけか、赤ずきんを冷たく突き放すことができない。
狼憑きは少しの間 考えた後、口を開いた。
「……おい」
「ん?」
「…私はもうしばらく森を歩く。…お前は」
「えっ!夜の探検!?するする!おれもするー!!」
これだけ歩いたのにまるで疲れなんて感じていないかのように、赤ずきんは手を上げてぴょんぴょんっと飛び跳ねていた。子供の体力を侮っていた狼憑きは少しびくっ…と驚いたが、しかし一番欲しかった回答を返してきた赤ずきんに、心の中で少しだけ安堵した。
狼憑きが歩き出すと、赤ずきんはまたついていく。すると、狼憑きの横へと駆け寄ってきた赤ずきんは穏やかに声をかけた。
「おおかみ、自分のこと『私』っていうんだ!初めて知ったかも!大人っぽくてかっこいいね!」
「………」
狼憑きは貴族だった頃の一人称に慣れてしまい、あまり言わないようにしているもののごく稀に口に出してしまうことがあった。これまでは無意識に使ってしまうと「もう貴族でもないのにな」と自嘲していたのだが…赤ずきんにそう言われたことで、狼憑きは大して気にすることでもないのかもしれない、と思えた。
横にいる赤ずきんをじっと見下ろす。
「……」
「ん?なあに?」
赤ずきん本人は単純に思ったことを伝えただけだとは思うが、狼憑きはその言葉によって心が少し軽くなるのを感じた。狼憑きが何も言わずに視線を逸らすと、赤ずきんからは「え~~なあに?」とさらに疑問の声が上がったのだった。
……それからしばらく歩き続けたところ、どうやら狼憑きの予想は当たっていたようだ。
林の中にひっそりと佇む明かりのついた簡易小屋を見つけたのだ。赤ずきんが声を出す前に「喋るな。ここにいろ」と制止し、狼憑きはその小屋へと静かに近付いていった。
耳を澄ませてみると中からは複数人の男の声が聞こえ、窓のほうへと回ってこっそり中を覗いてみると、そこには四人の男たちが食卓を囲んで談笑している様子が見えた。部屋の隅には整備道具が纏めて置かれていることから、やはりあの男たちがあそこの整備をしているようだった。
狼憑きは男たち一人一人の背格好や顔などをじっくりと観察し、この簡易小屋がある場所と素材の木の匂いも覚えておくようにした。今回は小屋とそこに住む人間を見つけることだけが目的であり、おまけに赤ずきんも近くにいることから、狼憑きは偵察だけしてその場を離れたのだった。
完全に空腹となれば、あの小屋で食事をしようと決めて。
「……あ、帰ってきた。おおかみ、誰かいた?」
「…男が数人。この森を整備している奴らだ。だから近付くな」
「え?なんで??」
「…人手が足りない時、あの男たちは通りすがりの人間にも仕事を手伝わせている。お前のような子供にもだ。一度捕まれば、馬車馬のようにこき使われるぞ」
「えええ…!?そうなんだ…!」
狼憑きが咄嗟についた嘘に、赤ずきんはまんまと騙されていたのだった。
…男たちが寝泊まりしているあの小屋を見つけてから数日が経った頃。
狼憑きは、そろそろ動こうかと密かに考えていた。これ以上 喰わないでいると、目に見えて動きに支障が出るおそれがあったのだ。誰もが恐れる人喰い狼であっても、体力自慢の男四人を相手に圧勝できるとは断言できなかった。喰うのは一人だけで充分なのだが、もし他の三人に姿を見られた場合や助けに入られた場合は、皆殺しにすることだって厭わなかった。赤ずきんといることで少しは穏やかになったと思っていたのも所詮幻想だ。狼憑きは人を喰うことに何も抵抗はなかったのだ。
「……」
今の時刻は夜。赤ずきんはベッドに入り、すやすやと眠っていた。
ここからあの簡易小屋まで、狼憑きの足なら一時間半ほどでたどり着くことができた。簡易小屋へと向かって、襲って、喰って、そしてまたこの小屋へと戻ってくる。もう朝にはすべてが終わった後だ。きっと赤ずきんが起きてきた頃には、何食わぬ顔でいつものように椅子に座っていることだろう。一晩で人を喰ってきただなんて、赤ずきんは夢にも思わないはずだ。そして、すぐにこの小屋から離れることを伝える。赤ずきんからすれば、突然のことすぎて頭がついていかないかもしれない。
「………」
狼憑きは眠っている赤ずきんをチラリとだけ見ると、扉を開けて外へと出たのだった。
…前に赤ずきんと共に歩いた山道を思い出しながら、狼憑きは匂いを頼りに例の小屋へとたどり着いた。
小屋の明かりは消えており、狼憑きが窓から覗いて中を確認してみると、好都合なことに三人はベッドに入って眠っていたのだが、一人だけがまだ起きているようだった。唯一起きているその男は、机の上にある一本のろうそくで本を照らし読んでいた。狼憑きは、その男に狙いを定める。
そして小屋の入り口に回ると、フードを深く被り、扉をコンコン、とノックしたのだった。
…少ししてから、その扉がゆっくりと開いた。
「…えっと、どちら様?」
先ほど窓から見ていた男が顔を出し、首を傾げていた。狼憑きは旅人を装い、静かに口を開いた。
「…旅をしている者だ。しかし、道も暗く迷ってしまって。この辺りに一晩明かせる洞窟などがあるかどうか、知らないか」
「あー!あるよあるよ。ここから少し北へ行ったところに小さい洞窟がさ」
男は狼憑きがやってきたほうとは別の方角を指差した。狼憑きはそちらへと顔を向けると、さらに男へと話しかける。
「…すまない。暗くてよく見えないから、その洞窟の近くまで案内してもらってもいいか」
「いいよいいよ。ちょっと待ってて。明かり持ってくるから。…というかごめんね。一晩くらいならこの小屋に泊めてあげたいんだけど、親方が厳しくてさ…なんか旅人を泊めた時に道具を全部盗まれたことがあったんだって。それで仕事仲間以外は小屋に入れるなって言われてて。もう何年も前のことなのに、いまだに許さん!って根に持ってんの」
気のいい男はそう笑いながら、小屋の中へと戻っていった。狼憑きは、なんとなく赤ずきんに似たほんわかとした笑顔を浮かべた男をじっと見つめていた。
「お待たせー」と手にろうろくを持った男は小屋の中から出てくると、扉をパタン…と閉めた。その瞬間に狼憑きは、フードの下ですっと目を細める。先を歩く男の背中を凝視しながら、襲いかかるタイミングを見計っていた。狼憑きは夜目が利くのだ。男に言った「暗くてよく見えない」というのは嘘だった。
「いいよねー旅。俺も色んなところへ自由に行ってみたいなー」
「…危険と隣り合わせではあるが」
「なるほど…でもそれも旅の醍醐味だよ」
男と適当に会話をしながら、狼憑きは林の中を進んでいた。
すると男は突然「おっ!」と声を上げ、地面にしゃがみ込んだ。
「アスパラ・ソバージュじゃん!これ貴重なんだよ!ラッキー!」
急に声を出して山菜を採り始めた男に呆然としていると、男は「あんたも採りなって!美味しいんだよこれ!」とテンション高く声をかけていた。男はそんなところも赤ずきんに似ていた。狼憑きは山菜採りに興味はなかったが、しかし旅人にとって食料は大事なものだ。それを採らないとなると怪しまれるかと思い、「……」となりながらも一緒に山菜を毟ったのだった。
「ほら、洞窟はあそこだよ。俺の役目はこれで終了でいいかい?」
「……ああ。世話になった」
片手に山菜を持った狼憑きは、帰って行く男を洞窟の中から見送っていた。襲いかかるタイミングは何度もあったのに、結局喰うことはできなかったのだ。あの男の純粋さは無邪気な赤ずきんに似ていたからか、冷酷な人喰い狼が顔を出すことはなかった。この姿は見せてしまったが、どうせあの赤ずきんに似た男も狼憑きをただの旅人だと信じているだろう。
狼憑きの中で、想像以上に赤ずきんの影響は大きいようだ。
「……くそ」
絶好のチャンスを逃してしまい、狼憑きは片手に持った山菜をぎゅう…と握り締めたのだった。
その後 持ち帰った山菜を赤ずきんに見せたところ、「え、いつの間に!それにおおかみが、山菜を…!?」と大袈裟に驚いていたことにも狼憑きは苛ついたのだった。
あれから何度か夜に簡易小屋へと訪れたのだが、あの最初の一夜だけがずば抜けて運がよかっただけのようだ。四人の男のうちの一人だけが起きていることはなくなり、狼憑きがたどり着いた時には全員眠ってしまっていることがほとんどだった。強行突破することも考えたのだが、男たちの中には赤ずきんに似たあの男もいるのだ。それに、残りの三人もその男にとっては大切な仲間である。そう思うと、何故か扉を壊すことができなかった。
そうしている間に、ついには整備も一段落終わったようで、あの簡易小屋から男たちは去って行ってしまったのだ。後悔したところで、すべてが後の祭りだった。
もうこの森に人間はいないのかもしれない。
毎日腹を空かしている狼憑きは、不機嫌そうに椅子に座っていることが多くなった。
「…おおかみ、大丈夫?」
赤ずきんが心配そうに覗き込むが、狼憑きは空腹の不快感から赤ずきんを上から睨み付けた。…赤ずきんは一瞬だけ驚いた表情を見せたものの、すぐに何かを決心したかのように狼憑きをまっすぐに見つめた。
「…待ってて、おおかみ。おれが何とかする」
そう言うと、赤ずきんはばたばたと外へと飛び出して行ったのだった。
……ふんわりと漂ってくるいい匂いを鼻に感じ、狼憑きは目を覚ました。どうやら体力温存のために目を閉じてじっとしていたのだが、いつの間にかうたた寝していたようだった。匂いの出所は、いつも赤ずきんが料理をしている暖炉からだ。そちらへと顔を向けてみると、今まさに何かを作っているところだった。ジュージューと何かを焼く音が聞こえている。
「…あっ。おおかみ、起きた?ごめんね、もう少しだけ待ってて。すぐにできるから」
「……」
よく見てみると、赤ずきんの服はぐっしょりと濡れていた。髪の毛もぼさぼさと乱れ、足には擦り傷ができていた。狼憑きが眠っている間に何をしていたのか、確定はできないが、何かしらの無茶をしていたことは察することができた。
「よし。お待たせ~」
そうしていると赤ずきんは料理を終えたようで、狼憑きの元へとそれを運んできた。
「ふふ。前におおかみが採ってきてくれた山菜も一緒に添えてみたよ!」
目の前の机に置かれたその料理は、何かの肉を焼いたジビエ料理のようだった。元貴族の狼憑きには少しだけ覚えのある料理だ。赤ずきんは山菜を添えたと言ったが、それよりも気になったのはやはりメインのほうだった。
「…この肉も、お前が?」
「あ~…うん……野鳥がいたからさ…可哀想だけど、捕まえてお肉をいただいちゃった」
あせあせっと笑っているが、この虫すら殺せなさそうな赤ずきんが狩猟をしてその肉を捌いたという事実に、狼憑きは少しだけ赤ずきんを見る目が変わった。魚はよく捕まえて料理をしているが、動物にも同じことができるようだった。意外と狩りをするのに向いているのかもしれない。
狼憑きはそう思いつつ、目の前に置かれている料理へと視線を向けた。それは視覚からも嗅覚からも、食欲をそそる逸品だった。
…人間ではなくなった時から、人以外を喰ったことはなかったのだが…
「さあさ、冷めないうちに食べて!」
「……」
赤ずきんに促された狼憑きは、何百年ぶりにナイフとフォークを手に持ち、料理を口にしたのだった。
「………」
もぐもぐ、と咀嚼して肉を味わうと、程よい旨みを感じることができた。自分はもう人しか口に合わないと思っていた狼憑きは、人間の食事も食うことができたのかと、軽く衝撃を受けた。赤ずきんが作った料理だから、というのもあるかもしれない。
「どう?美味しい??」
頬杖をついてにこにことたずねてくる赤ずきんに、狼憑きは無表情ながらも穏やかな雰囲気を纏って「…食えないことはない」と返したのだった。
「…っていうか、おおかみお肉ばっかり食べてる!山菜も食べてみたら?」
「何故その辺に生えてあった草を食わなければいけないんだ」
「もー!山菜は山の恵みなんだよー!」
狼憑きは前々からふとした瞬間に、自身の腹の空きをわずかに感じていた。それは日に日に強くなり、そしてついにははっきりと分かるほどになったのだ。
赤ずきんと出会う前に起こした食人事件から、もうそろそろ一ヶ月が経とうとしているようだった。この一ヶ月間は少しの水だけしか口にしていない。赤ずきんの前で何かを食うことは一度もなかった。
これまでの狼憑きなら、腹が減れば即座に街でも村でも人のいる場所へと向かって適当に食事を済ませていたのだが、今はこの小屋で赤ずきんと共に暮らしている。狼憑きが一人でどこかに行こうとすると、赤ずきんもその後ろをちょこちょことついてきていた。ついてくるな、と何度言っても、「だって、ひとり置いて行かれちゃったら寂しいもん…」としょんぼりとするのだ。
いつの日だったか…赤ずきんが風呂に入っている間に、狼憑きはなんとなく森へと出たことがあった。ちょっとした散策をした後にまた小屋へと帰ったのだが、扉を開けると急に中から飛び出してきた赤ずきんが狼憑きへとぶつかってきたことがあったのだ。ボフッとわずかな衝撃を腹に感じ、すぐに「わっ!」と声も聞こえた。さすがに驚いた狼憑きが下に目を向けると、目の前に広がっていたのは見慣れた赤いずきん。狼憑きにぶつかってきた赤ずきんが顔を上げると、その瞳はうるうると潤み、ぐずぐずと鼻を鳴らしの半泣き状態だった。手にはバスケットを持っていたから、赤ずきんに何があったのか すぐに見当はついた。「あ…よかった…っ!帰ってきた…」と震える声で言っていたのだから、それで確信に変わったのだった。
そんなこともあり、狼憑きは食事の際に赤ずきんをどうしようかと考えた。まだまだ小さな子供だ。狼憑きとは足の長さも体力も大きな差があるのだから、森の中ではぐれさせることも簡単だった。それに先ほど思い出した出来事のように、赤ずきんが風呂に入っている間、もしくは寝ている間にこの小屋に置き去りにすることも可能であった。あの時はまた小屋へと帰ってきてしまったが、今度は本当に帰らないでいればいいだけの話だ。そうなれば…赤ずきんはギャンギャン喚きながら、独りで狼憑きを探すことになるのだろうか。
事件後は居場所を転々とし、いまだにポリスすらも見つけることができない狼憑きを、独りで。
「………はあ」
…あの無邪気な笑顔が深い悲しみに歪む様を想像し、狼憑きはため息をこぼして自身の髪の毛を ぐしゃ…と握り潰した。
狼憑きがいなくなっただけでうるさく泣き喚く赤ずきんに苛ついてというよりも、たったひと月 共に過ごしただけの赤ずきんに情が湧きつつある自身への苛つきのほうが強かった。呪われた者同士、さらには目を潰しているところを見てしまったのもあり尚更だ。こんな気持ちを抱くようになるなら、赤ずきんをあのボロい小屋に置いていけば、最初の森ではぐれさせていれば、寝ている間に置き去りにすれば、あの時 小屋へと帰らなければ、そうすればよかったのだ。赤ずきんを突き放す機会は何度もあったのに、そのすべてを捨ててしまって今に至る自分に、狼憑きは苛ついたのだった。
しかしこのまま何もせずに空腹の限界が来てしまうと、思考力も体力も通常より落ちてしまい狩りにも影響が出るおそれがあるため、狼憑きはとりあえず近くに村はないかと調べてみることにした。
立ち上がって赤ずきんを探していると、ひょっこりと現れた赤ずきんはそれだけで察したようで「あっ、散歩?おれも行く!」と元気に準備を始めるのだった。
日中の散策中に人に会うことはなく、すぐそこを流れている川も手つかずの自然のままに近かった。赤ずきんお得意の魚料理も、この綺麗な川で捕まえた魚を使っている。この森は赤ずきんお気に入りの食材の宝庫だ。
「わー!おおかみ見て!美味しそうな果物がなってるよ!もうそんな季節なんだ」
現に今も赤ずきんは、木になっている鮮やかな色の果物へと手を伸ばし収穫していた。
…もし近くの村で人喰いをすれば、あの小屋の辺りまでポリスが足を運んでくるおそれがあった。これまでの経験上、ポリスは意外と広範囲にわたって行方を追うのだ。だからこの場所からも離れなくてはならなかった。狼憑き一人だけならともかく、今は赤ずきんもいるのだ。森の奥にある山小屋で暮らしている、家族でもない青年と少年。人喰い狼への疑いの目は逸らせても、別の犯罪の件で問われる可能性もあった。狼憑きは赤ずきんを性的に喰おうと思ったことは一切ないのだが。
「よし、収穫完了!今夜のデザートにしよう~」
…この純粋な子供に、そういう邪な感情を抱くことはなかった。
朝に始めた散策であったが、そろそろ日が暮れそうになっても、村を見つけることはできなかった。しかし、普段の散策よりも長い時間 森の中を歩いていたため、辺りが薄暗くなってきた頃、その周辺の木だけが伐採された今も整備中らしき箇所を発見することができた。
「あれ?なんかここだけ木がないね」
「………」
その整備の跡は真新しく、近くに使用した道具類などはなかった。盗みが決して少なくない国だ。用心して持ち帰るにしても、長距離で足場も悪い中 重い道具を持ち帰ろうと思うだろうか。それに、自分の存在がここまで広まっているのかは不明だが…森の中で人喰い狼に出会うかもしれない中、わざわざ重荷になる道具を持ち帰ろうとするだろうか。いくら稼ぎの道具だとしても、命に代えるほどでもないはずだ。
狼憑きはそこまで考えた末に、結論を出した。
この近くに村はないにしても、ここで作業している人間が寝泊まりしている小屋か何かはあるはずだ、と。
「……」
狼憑きはまだ動けるため、このままその小屋を探しに行くこともできた。まだ腹の限界は来ていない。その小屋の場所だけでも見つけることができれば、成果は得られると思っていた。…しかし、今は赤ずきんもいる。いつものあの小屋へと戻る頃にはきっと深夜になっているだろう。健康的な赤ずきんはもうとっくに眠っている時間だ。
……狼憑きは はた…と気付いた。またしても無意識に、赤ずきんはどうなのだろうかと考えてしまっていた。どういうわけか、赤ずきんを冷たく突き放すことができない。
狼憑きは少しの間 考えた後、口を開いた。
「……おい」
「ん?」
「…私はもうしばらく森を歩く。…お前は」
「えっ!夜の探検!?するする!おれもするー!!」
これだけ歩いたのにまるで疲れなんて感じていないかのように、赤ずきんは手を上げてぴょんぴょんっと飛び跳ねていた。子供の体力を侮っていた狼憑きは少しびくっ…と驚いたが、しかし一番欲しかった回答を返してきた赤ずきんに、心の中で少しだけ安堵した。
狼憑きが歩き出すと、赤ずきんはまたついていく。すると、狼憑きの横へと駆け寄ってきた赤ずきんは穏やかに声をかけた。
「おおかみ、自分のこと『私』っていうんだ!初めて知ったかも!大人っぽくてかっこいいね!」
「………」
狼憑きは貴族だった頃の一人称に慣れてしまい、あまり言わないようにしているもののごく稀に口に出してしまうことがあった。これまでは無意識に使ってしまうと「もう貴族でもないのにな」と自嘲していたのだが…赤ずきんにそう言われたことで、狼憑きは大して気にすることでもないのかもしれない、と思えた。
横にいる赤ずきんをじっと見下ろす。
「……」
「ん?なあに?」
赤ずきん本人は単純に思ったことを伝えただけだとは思うが、狼憑きはその言葉によって心が少し軽くなるのを感じた。狼憑きが何も言わずに視線を逸らすと、赤ずきんからは「え~~なあに?」とさらに疑問の声が上がったのだった。
……それからしばらく歩き続けたところ、どうやら狼憑きの予想は当たっていたようだ。
林の中にひっそりと佇む明かりのついた簡易小屋を見つけたのだ。赤ずきんが声を出す前に「喋るな。ここにいろ」と制止し、狼憑きはその小屋へと静かに近付いていった。
耳を澄ませてみると中からは複数人の男の声が聞こえ、窓のほうへと回ってこっそり中を覗いてみると、そこには四人の男たちが食卓を囲んで談笑している様子が見えた。部屋の隅には整備道具が纏めて置かれていることから、やはりあの男たちがあそこの整備をしているようだった。
狼憑きは男たち一人一人の背格好や顔などをじっくりと観察し、この簡易小屋がある場所と素材の木の匂いも覚えておくようにした。今回は小屋とそこに住む人間を見つけることだけが目的であり、おまけに赤ずきんも近くにいることから、狼憑きは偵察だけしてその場を離れたのだった。
完全に空腹となれば、あの小屋で食事をしようと決めて。
「……あ、帰ってきた。おおかみ、誰かいた?」
「…男が数人。この森を整備している奴らだ。だから近付くな」
「え?なんで??」
「…人手が足りない時、あの男たちは通りすがりの人間にも仕事を手伝わせている。お前のような子供にもだ。一度捕まれば、馬車馬のようにこき使われるぞ」
「えええ…!?そうなんだ…!」
狼憑きが咄嗟についた嘘に、赤ずきんはまんまと騙されていたのだった。
…男たちが寝泊まりしているあの小屋を見つけてから数日が経った頃。
狼憑きは、そろそろ動こうかと密かに考えていた。これ以上 喰わないでいると、目に見えて動きに支障が出るおそれがあったのだ。誰もが恐れる人喰い狼であっても、体力自慢の男四人を相手に圧勝できるとは断言できなかった。喰うのは一人だけで充分なのだが、もし他の三人に姿を見られた場合や助けに入られた場合は、皆殺しにすることだって厭わなかった。赤ずきんといることで少しは穏やかになったと思っていたのも所詮幻想だ。狼憑きは人を喰うことに何も抵抗はなかったのだ。
「……」
今の時刻は夜。赤ずきんはベッドに入り、すやすやと眠っていた。
ここからあの簡易小屋まで、狼憑きの足なら一時間半ほどでたどり着くことができた。簡易小屋へと向かって、襲って、喰って、そしてまたこの小屋へと戻ってくる。もう朝にはすべてが終わった後だ。きっと赤ずきんが起きてきた頃には、何食わぬ顔でいつものように椅子に座っていることだろう。一晩で人を喰ってきただなんて、赤ずきんは夢にも思わないはずだ。そして、すぐにこの小屋から離れることを伝える。赤ずきんからすれば、突然のことすぎて頭がついていかないかもしれない。
「………」
狼憑きは眠っている赤ずきんをチラリとだけ見ると、扉を開けて外へと出たのだった。
…前に赤ずきんと共に歩いた山道を思い出しながら、狼憑きは匂いを頼りに例の小屋へとたどり着いた。
小屋の明かりは消えており、狼憑きが窓から覗いて中を確認してみると、好都合なことに三人はベッドに入って眠っていたのだが、一人だけがまだ起きているようだった。唯一起きているその男は、机の上にある一本のろうそくで本を照らし読んでいた。狼憑きは、その男に狙いを定める。
そして小屋の入り口に回ると、フードを深く被り、扉をコンコン、とノックしたのだった。
…少ししてから、その扉がゆっくりと開いた。
「…えっと、どちら様?」
先ほど窓から見ていた男が顔を出し、首を傾げていた。狼憑きは旅人を装い、静かに口を開いた。
「…旅をしている者だ。しかし、道も暗く迷ってしまって。この辺りに一晩明かせる洞窟などがあるかどうか、知らないか」
「あー!あるよあるよ。ここから少し北へ行ったところに小さい洞窟がさ」
男は狼憑きがやってきたほうとは別の方角を指差した。狼憑きはそちらへと顔を向けると、さらに男へと話しかける。
「…すまない。暗くてよく見えないから、その洞窟の近くまで案内してもらってもいいか」
「いいよいいよ。ちょっと待ってて。明かり持ってくるから。…というかごめんね。一晩くらいならこの小屋に泊めてあげたいんだけど、親方が厳しくてさ…なんか旅人を泊めた時に道具を全部盗まれたことがあったんだって。それで仕事仲間以外は小屋に入れるなって言われてて。もう何年も前のことなのに、いまだに許さん!って根に持ってんの」
気のいい男はそう笑いながら、小屋の中へと戻っていった。狼憑きは、なんとなく赤ずきんに似たほんわかとした笑顔を浮かべた男をじっと見つめていた。
「お待たせー」と手にろうろくを持った男は小屋の中から出てくると、扉をパタン…と閉めた。その瞬間に狼憑きは、フードの下ですっと目を細める。先を歩く男の背中を凝視しながら、襲いかかるタイミングを見計っていた。狼憑きは夜目が利くのだ。男に言った「暗くてよく見えない」というのは嘘だった。
「いいよねー旅。俺も色んなところへ自由に行ってみたいなー」
「…危険と隣り合わせではあるが」
「なるほど…でもそれも旅の醍醐味だよ」
男と適当に会話をしながら、狼憑きは林の中を進んでいた。
すると男は突然「おっ!」と声を上げ、地面にしゃがみ込んだ。
「アスパラ・ソバージュじゃん!これ貴重なんだよ!ラッキー!」
急に声を出して山菜を採り始めた男に呆然としていると、男は「あんたも採りなって!美味しいんだよこれ!」とテンション高く声をかけていた。男はそんなところも赤ずきんに似ていた。狼憑きは山菜採りに興味はなかったが、しかし旅人にとって食料は大事なものだ。それを採らないとなると怪しまれるかと思い、「……」となりながらも一緒に山菜を毟ったのだった。
「ほら、洞窟はあそこだよ。俺の役目はこれで終了でいいかい?」
「……ああ。世話になった」
片手に山菜を持った狼憑きは、帰って行く男を洞窟の中から見送っていた。襲いかかるタイミングは何度もあったのに、結局喰うことはできなかったのだ。あの男の純粋さは無邪気な赤ずきんに似ていたからか、冷酷な人喰い狼が顔を出すことはなかった。この姿は見せてしまったが、どうせあの赤ずきんに似た男も狼憑きをただの旅人だと信じているだろう。
狼憑きの中で、想像以上に赤ずきんの影響は大きいようだ。
「……くそ」
絶好のチャンスを逃してしまい、狼憑きは片手に持った山菜をぎゅう…と握り締めたのだった。
その後 持ち帰った山菜を赤ずきんに見せたところ、「え、いつの間に!それにおおかみが、山菜を…!?」と大袈裟に驚いていたことにも狼憑きは苛ついたのだった。
あれから何度か夜に簡易小屋へと訪れたのだが、あの最初の一夜だけがずば抜けて運がよかっただけのようだ。四人の男のうちの一人だけが起きていることはなくなり、狼憑きがたどり着いた時には全員眠ってしまっていることがほとんどだった。強行突破することも考えたのだが、男たちの中には赤ずきんに似たあの男もいるのだ。それに、残りの三人もその男にとっては大切な仲間である。そう思うと、何故か扉を壊すことができなかった。
そうしている間に、ついには整備も一段落終わったようで、あの簡易小屋から男たちは去って行ってしまったのだ。後悔したところで、すべてが後の祭りだった。
もうこの森に人間はいないのかもしれない。
毎日腹を空かしている狼憑きは、不機嫌そうに椅子に座っていることが多くなった。
「…おおかみ、大丈夫?」
赤ずきんが心配そうに覗き込むが、狼憑きは空腹の不快感から赤ずきんを上から睨み付けた。…赤ずきんは一瞬だけ驚いた表情を見せたものの、すぐに何かを決心したかのように狼憑きをまっすぐに見つめた。
「…待ってて、おおかみ。おれが何とかする」
そう言うと、赤ずきんはばたばたと外へと飛び出して行ったのだった。
……ふんわりと漂ってくるいい匂いを鼻に感じ、狼憑きは目を覚ました。どうやら体力温存のために目を閉じてじっとしていたのだが、いつの間にかうたた寝していたようだった。匂いの出所は、いつも赤ずきんが料理をしている暖炉からだ。そちらへと顔を向けてみると、今まさに何かを作っているところだった。ジュージューと何かを焼く音が聞こえている。
「…あっ。おおかみ、起きた?ごめんね、もう少しだけ待ってて。すぐにできるから」
「……」
よく見てみると、赤ずきんの服はぐっしょりと濡れていた。髪の毛もぼさぼさと乱れ、足には擦り傷ができていた。狼憑きが眠っている間に何をしていたのか、確定はできないが、何かしらの無茶をしていたことは察することができた。
「よし。お待たせ~」
そうしていると赤ずきんは料理を終えたようで、狼憑きの元へとそれを運んできた。
「ふふ。前におおかみが採ってきてくれた山菜も一緒に添えてみたよ!」
目の前の机に置かれたその料理は、何かの肉を焼いたジビエ料理のようだった。元貴族の狼憑きには少しだけ覚えのある料理だ。赤ずきんは山菜を添えたと言ったが、それよりも気になったのはやはりメインのほうだった。
「…この肉も、お前が?」
「あ~…うん……野鳥がいたからさ…可哀想だけど、捕まえてお肉をいただいちゃった」
あせあせっと笑っているが、この虫すら殺せなさそうな赤ずきんが狩猟をしてその肉を捌いたという事実に、狼憑きは少しだけ赤ずきんを見る目が変わった。魚はよく捕まえて料理をしているが、動物にも同じことができるようだった。意外と狩りをするのに向いているのかもしれない。
狼憑きはそう思いつつ、目の前に置かれている料理へと視線を向けた。それは視覚からも嗅覚からも、食欲をそそる逸品だった。
…人間ではなくなった時から、人以外を喰ったことはなかったのだが…
「さあさ、冷めないうちに食べて!」
「……」
赤ずきんに促された狼憑きは、何百年ぶりにナイフとフォークを手に持ち、料理を口にしたのだった。
「………」
もぐもぐ、と咀嚼して肉を味わうと、程よい旨みを感じることができた。自分はもう人しか口に合わないと思っていた狼憑きは、人間の食事も食うことができたのかと、軽く衝撃を受けた。赤ずきんが作った料理だから、というのもあるかもしれない。
「どう?美味しい??」
頬杖をついてにこにことたずねてくる赤ずきんに、狼憑きは無表情ながらも穏やかな雰囲気を纏って「…食えないことはない」と返したのだった。
「…っていうか、おおかみお肉ばっかり食べてる!山菜も食べてみたら?」
「何故その辺に生えてあった草を食わなければいけないんだ」
「もー!山菜は山の恵みなんだよー!」