狼憑きと赤ずきんの話

「…よし、これで大丈夫かな」

最後に赤いずきんを頭に被って、少年はそう呟いた。

どうやら旅立つ準備を済ませたようだ。両手でバスケットを持ち、入り口近くにいる狼憑きの元へとぱたぱたと駆け寄る。

「お兄さん、お待たせ!」

そう声をかけられ、狼憑きは近くへとやって来た少年へと目を向けた。
普通のシャツに普通の半ズボン。汚れた靴。ヨレヨレのバスケット。頭に被っている赤いずきんも古めかしいものだった。元貴族の狼憑きからすれば、ずいぶんとみすぼらしい姿である。右目の包帯も巻き替えたのか、昨日のように血は滲んでいなかった。

「……」

心の中でそう軽蔑しつつもすぐに興味は失せ、狼憑きはふっと少年から目を逸らした。そして扉へと手をかけて、ギィ…と開く。
朝の眩しい光を浴びて、狼憑きは不機嫌そうに眉間に皺を寄せた。反対に少年は、今から始まる初めての旅にとても心を躍らせていたのだった。



…見渡すかぎり緑しかない森の中をふたりは歩いていた。狼憑きは少年と一切話す気はなかったのだが、一方 少年は狼憑きと仲良くなりたいらしい。長い足でどんどんどんどん進んでいく狼憑きの後ろをちょこちょこと一所懸命ついていきながら、ちょくちょく「ねえねえ」と話しかけていた。

「お兄さんのお名前はなあに?なんて呼べばいい?」

これから共に旅をしていく中で、名前というのは重要なものだ。少年は狼憑きに名前をたずねていたが、狼憑きはまったく返事をしないでいた。そもそも人ではなくなった時に名前も捨てたのだ。もう覚えてもいない。仮に覚えていたとしても、赤の他人である子供に教える義理はまったくない。狼憑きは愛嬌たっぷりの少年の笑顔を見ても、相手にすることはなかった。

それからかれこれ数時間は森の中を歩き続けていたが、少年は華奢な体にもかかわらずちゃんと狼憑きについて行けていた。どうやら山歩きには慣れているようだ。狼憑きは少年がついてこれずに諦めて先ほどの小屋に一人で戻ろうが、途中ではぐれて道に迷い野生動物の餌になろうがどうでもよかったのだが、今のところそれはなさそうだった。…だが、まだ分からない。太陽はまだ顔を出している。あと数時間後には日が暮れて夜になる。夜目が利く狼憑きは夜でも問題なく動けるが、はたしてその時 少年はついてこれているのか。体力も眠気も限界が近付く夜に。
もちろん狼憑きは背後に少年がいなくなったとしても、まったく気にせずに歩き続けるが。


それからまた数時間後。日が暮れ始め辺りは薄暗くなってきていた。狼憑きがチラリと後ろを見ると、少し距離はあるが目立つ赤いずきんが見えていた。さすがに休憩なしで一日中 歩き続けていると、大人でも子供でも足が棒になり体力も底を突くだろう。まだ幼い少年にはひときわ厳しい苦行のはずだ。そんな中 まだついてこようとしているのだから、見かけによらず意外とタフなのかもしれない。ただ単に迷子にならないよう必死についてきているだけかもしれないが。

「………」

…狼憑きは、なんとなくその場に立ち止まっていた。
そうしていると、やがて少年が狼憑きへと追いついた。

「はぁ、はぁ……お兄さん、歩くの得意なんだね。すごいなあ…」

汗を流しながら、少年は にへら…と笑った。疲れ切った顔で荒い呼吸を繰り返しているが、狼憑きの前で弱音を吐くことはなかった。

「……」

狼憑きは何も言わずに少年を見下ろすが、少ししてからまた歩き出した。少年は「よいしょ…」とバスケットを抱え直しながら、また狼憑きについて行くのだった。


……やがてすっかり辺りは暗くなり、月が輝く静かな夜が訪れた。
…偶然見つけた小さな洞窟の中に、狼憑きと少年はいた。

「はぁ、疲れたぁ。こんなに歩いたの初めて」

地面にちょこんと座り、髪の毛や頬に細かい葉っぱをつけた少年は、疲れを滲ませながらも楽しげに笑った。そんな笑顔を向けられた狼憑きはじっと少年を見下ろしていたが、すぐにふっと視線を逸らした。

狼憑きは無人小屋を探すために、少年がいてもいなくても一晩中歩き続けるつもりだった。…が、何故か今は洞窟にいた。最悪 屋根さえあれば寝床にはなるので、今いるこのような場所でも住処にすることはできるのだが…しかし、やはり屋内と屋外の違いというのは大きい。そう思うと、少年がいたあのボロい小屋もこの洞窟よりかは豪華に思えた。少年がいたせいで手放すことになり、今更ながら若干そのことに苛つく。しかし、当の本人は狼憑きのそんな心中を知る由もない。

「こんなところで寝るのも初めてかも…」

ゴツゴツとした地面の上で寝る未知の体験に、緊張しながらも楽しみを見出しているようだった。狼憑きは「今夜はここで寝る」とは一言も言っていないのだが。しかしそれなら洞窟に入ったのも謎である。
もうすっかり今夜の宿にいる気分であろう少年は、バスケットの中から瓶に入った水と乾燥した果実を取り出した。どうやらそれが夜ご飯らしい。

「一緒に食べる?」

「…いらない」

「そっかぁ」

少年は眉を八の字にして笑うと、またしても粗末なものをもぐもぐと食べ始めた。狼憑きには理解できない食事だ。それを美味しそうに食べていることがさらに理解できなかった。

「…あ、そういえばおれね、ずっとお兄さんの名前を考えてたんだよ」

ごくん、と口の中の物を飲み込むと、少年はそう言って狼憑きへと顔を向けた。

「…名前?」

狼憑きは冷たい目でじっと少年を見下ろす。しかし少年は怯えることなく、「歩きながらずっと考えてたんだ」と笑みを浮かべた。その目は美しく輝いていた。

「お兄さんみたいにひとりで旅をしているかっこいい人、『いっぴきおおかみ』って言うんでしょ?昔 本で読んだことある!」

狼憑きはその言葉にぴく…と反応を示したが、少年は気付いていないようだった。その真意を探るように鋭い目で見下ろすが、少年はほんわかとした表情で続けた。

「『いっぴきおおかみのお兄さん』…は長いから、えっとね、『いっぴきおおかみ』……でも今はおれもいるから、だから、あのね…『おおかみ』っていうのはどうかな?すごくかっこいいと思うんだけど」

歩いている最中に考えていたことをそのまま喋ったかのように、少年はそう言った。昔 本で見た言葉を思い出し、その名前からだんだんと短くしていったようだった。そして最終的には『おおかみ』に落ち着いたらしい。
一瞬まさかとは思ったが、どうやら買い被りすぎていたようだ。子供が「かっこいいだろう」と考えた単純な名前だった。この子供も狼憑きが本物の狼だとは夢にも思っていないだろう。少年はキラキラとした目で狼憑きを見つめていて、考えた名前の評価を本人から直接 聞きたそうにしていた。

「おおかみ…どうかな?そう呼んでもいい?」

「……勝手にしろ」

狼憑きは心底面倒だと思い、適当に返事をしただけだった。しかし少年は花が咲いたような笑顔を見せ、大袈裟に喜んで見せていた。
…こんなことで喜べるとは、子供というのはおめでたい奴だ。
少年とは対照的に冷めた感情を持った狼憑きは、そう思った。

「ねえねえ おおかみ、おれにも名前つけて!」

気分が上がったのか、今度は自分に名前をつけてほしいと少年はねだった。すると狼憑きは間髪入れずに無感情に言い放った。

「赤ずきん」

特徴的な赤いずきん被った少年を見た時の印象だ。名前というよりは身につけている物の名前である。少年とは違い何も考えていない簡単すぎる名前だが、少年はぱあっと表情を輝かせる。

「赤ずきん、赤ずきん…えへへ…」

頬をりんごのようにして、少年は嬉しそうに笑っていた。

「名前つけてもらったの…初めて」

そしてそう呟いたのだった。
…狼憑きは、その言葉にも特別何かを思うことはなかった。

こうして、狼憑きは『おおかみ』、少年は『赤ずきん』とお互いに名前をつけたのだった。


赤ずきんは夜ご飯を食べ終えると、バスケットの中から白いネグリジェを取り出した。昨日着ていた物だ。狼憑きの前で服を脱いでそれに着替えると、近くから大きめの葉っぱを持ってきたり赤いずきんを枕にしたりと、せっせと寝床の準備を整えていた。
狼憑きは「…チッ」と小さく舌打ちするも、これから眠りにつこうとしている赤ずきんの邪魔をすることはなかった。
赤ずきんは寝床とも言えない寝床に横になり、狼憑きへとぽわぽわと微笑む。

「ふわあぁ…おやすみ、おおかみ」

赤ずきんはそう言って、すやぁ…と夢の中へと旅立っていったのだった。

「………」

不機嫌さが顔に出ている狼憑きもまた、地面に座り込んで長めの休息の時間を取ることになったのだった。
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