狼憑きと赤ずきんの話
…翌日になって、森の中で獣に喰い荒らされたような男の遺体が見つかり、村は大きな騒ぎになっていた。
「また人喰い狼が現れた!あの怪物はまだ生きてたんだ!」
「まだ森の中に潜んでいるかもしれない!今 町にも知らせを届けて、猟師や男たちを集めてもらっているところだ!」
「今度こそ絶対に駆除するぞ!!」
仲間の一人が犠牲者となったことで、村人たちは奮い立っていた。
そんな中、昔のあのことを思い出す者もいた。
「邪視は、あの餌はどうなった?人喰い狼が喰ったから、小屋からいなくなったのではないのか?」
しかし、そんな疑問は怒り狂った村人に一蹴される。
「そんなこと今はどうだっていいだろ!どうせもうどこかで死んでるさ!結局あの餌は役に立たなかったってことだ!」
人喰い狼のことで頭がいっぱいになっている村人たちは、血眼になって森の中を探していた。恐れよりも怒りの感情が強く、それが人々を動かしているようだった。
…その数日後、町からも人喰い狼の討伐に協力してくれる男たちがやって来た。それぞれの手には、鉄砲や斧などの武器が握られていた。
町から来た男たちと情報を交換していた時に、ある町人が口にした。
「数日前に町で見かけた大きな男にも協力を仰ごうとしたが、すでに町を出たのかどこにもいなかったんだ。確か、赤いずきんを被った華奢な男も一緒にいたな」
「…赤い、ずきん?」
その格好に覚えのある村人は、情報共有として皆にそのことを伝えたのだった。
…狼憑きと赤ずきんはあの後、森の中の小さな洞窟に身を潜めていた。
「………」
「………」
二人は無言だった。
つい一時間ほど前、狼憑きはあの男を殺めたのだ。そして赤ずきんも、その惨劇を目の前で見ていた。
「…おおかみって、本物の狼だったんだ……おおかみが、あの数百年前からいたっていう…人喰い狼だったの…?」
「……そうだ」
狼憑きはフードを脱いで、赤ずきんに自身の耳を見せた。
「あ…」
そこには人の耳ではなく、獣のような毛が生えた尖った耳があった。それを見て、赤ずきんはなんとなく理解したようだ。
狼憑きは、人間ではないのだと。
それなら数百年前から存在していたとしても納得はできた。
「…そっか……」
赤ずきんは自分に納得させるように、小さく呟いた。
「…騙していてすまなかった」
「…ううん」
狼憑きはフードを被り直すと、口輪の金具に手を当てた。
…ついにまた、事件を起こしてしまった。きっと翌朝には遺体も見つかり、村では騒ぎになるだろう。これからまた逃亡生活が始まる。
赤ずきんとの平穏な日々を、壊してしまった。
「…赤ずきん」
「…?」
狼憑きはあの男を醜いと思ったが、今の自分自身もそうだと思った。
こそこそと人目を避けて逃亡生活をすることになったとしても、赤ずきんと離れたくなかったのだ。
「…翌朝には、村人たちが遺体を発見して犯人を…人喰い狼 を捜すことだろう。これまで私は事件を起こすたびに、居場所を転々としていた。…今回もそうするつもりだ」
「………」
「……赤ずきん。…お前も…私と共に、来てくれやしないか」
「…え…」
…狼憑きは赤ずきんが「嫌だ」と言っても、無理矢理 連れ去ってでもそばに置いておきたかった。
狼憑きの世界には、赤ずきんしか必要なかった。
赤ずきんだけが世界のすべてだった。
…あの男に何もしなければ、今 こんな問題を抱えることはなかったのに。
自分が起こしてしまったことを悔やむだけでなく、それによって起こる問題事に無関係な赤ずきんまでもを巻き込もうとしていた。
自分の世界の安定のため。汚れた欲のため。
赤ずきんにも、自身の罪の片棒を担がせようとしているのだ。
そんな己のなんて醜いことか。
「…俺は……」
「……」
狼憑きは、赤ずきんの言葉をじっと待った。…返答次第では、赤ずきんを拐かすことだって。
「…おおかみが今までやってきたこと、って…その…みんながみんな許してくれることではなくて…」
「……」
「よく知らない俺が言うのも偉そうだけど…おおかみが今まで死なせてしまった人たちにも、家族がいて……その家族の人たちは、とても悲しんだと思う」
「……」
赤ずきんの言う通りだった。今まで無差別に喰ってきた人間の中には、一家の父親や支えとなる母親…愛情込めて育ててきた子供もいたはずだった。狼憑きは、その何の罪もない人間たちの命を奪ってきたのだ。
赤ずきんから見た自分は、血も涙もない冷酷無残な怪物だ。赤ずきんでなくとも、そんな怪物について行こうと思う人間はいるだろうか。
ここまでの赤ずきんの言葉で、赤ずきんからは狼憑きが望む返答は期待できなかった。…狼憑きの中に、黒い感情が渦巻き始める。
「………」
……やはり己は怪物なのだ。
ならば、と赤ずきんへと手を伸ばそうとしたその時、
「…でもね、おおかみ」
「……?」
赤ずきんは、寂しげな笑みを見せた。
「…おおかみも、俺にとってはもう家族なんだ。俺を育ててくれたから。ずっとずっと一緒にいてくれたから。…俺も家族と離れ離れになるのは、寂しくて嫌だなあ…」
「──…」
「…俺はおおかみと、まだ一緒にいたい。だから…俺もおおかみについて行っていいかなあ…?」
…狼憑きの心は、完全に赤ずきんへと縫いつけられた。
もう、何があっても離れることはないだろう。
「…赤ずきん」
狼憑きは、伸ばした手で赤ずきんの手を取ったのだった。
……狼憑きと赤ずきんは、数日間 森へと潜んで抜け出す機会をうかがっていた。
…しかし、二人の想像よりもはるかに大人数での捜索が行われていたようだった。
村人たちと町人たちの情報網は凄まじい勢いで張り巡らされ、いつしか赤ずきんの存在も知れ渡っていたのだ。
「 赤いずきんを被り右目に包帯を巻いている男。
そいつは邪視だ。
災いが人喰い狼を連れて戻ってきたんだ。
もう祟りを恐れている場合ではない。
どちらも殺せ 」
それが合言葉のようだった。
狼憑きと赤ずきんは慎重に人目を避けながら森を抜けようとしたが、やはり人の足で逃げ切るには限界があり、そして人数の差には勝てなかった。
狼憑きは赤ずきんに「もしもの時には邪視の力を使え」とも伝えていたが、それに赤ずきんが首を縦に振ることはなかった。
…夜の森の中。ついに二人は見つかってしまったのだ。
「いたぞ!!大柄の男と赤いずきんだ!!」
その言葉を合図に、森には男たちの鉄砲の音が響き渡った。
「くッ…!」
狼憑きは狼の姿となって、赤ずきんを守るために人間たちを蹴散らしていた。不死のため鉄砲で撃たれても死ぬことはないのだ。
……しかし。
「…ッう゛…」
「──…ッ!」
…悲劇にも、多く放たれたうちのひとつの鉛玉が、赤ずきんに当たってしまった。
狼憑きが振り返る中、赤ずきんはその場へと倒れ込んだ。
「赤ずきんッ…」
狼憑きが駆け寄り見てみると、弾は腹へと命中しており、その箇所からは血がドクドクと流れ出していた。
狼憑きは赤ずきんを抱え、夜の暗闇に紛れて森の奥深くへと逃げていった。
…村人たちの声が聞こえないところまで来ると、狼憑きは赤ずきんの容態を確認する。
「…はぁ…はぁ……」
血が止まらず、呼吸も浅く、顔色も真っ青だ。
助かる見込みはなかった。
もって一晩だと、狼憑きは察した。
「…はぁ……は…」
赤ずきんは朦朧とする意識の中、心配させまいと狼憑きへ精一杯微笑んでいた。
「……」
…狼憑きは赤ずきんを見つめる。
このまま赤ずきんが死ねば、狼憑きはどうなる。
赤ずきんと出会う前のように、また無差別に人を喰いながら生きていくのか。
それとも赤ずきんとの日々のように、平穏にひっそりと生きていくのか。
…しかし、狼憑きの中には端からその二つの選択肢なんてなかった。
何故なら、どちらを選んだとしても、赤ずきんがいない。
そんな世界なんて、生きてく意味がない。
「………」
狼憑きは、赤ずきんの右目を見つめた。
汗と血が滲んでいる包帯をスルスルと取ると、右目には涙のように血が滴っていた。
「…?」
赤ずきんが薄く目を開けると、眼球まるごとが血の色に染まっている様子が見えた。
これが赤ずきんが持つ邪視だ。今まで一度もその力が発動されたことはない、優しい赤ずきんが生まれ持った呪いだ。
狼憑きは、その邪視をじっと見つめていた。
「…おお、かみ…、まさ、か…」
狼憑きの目が己の邪視を捉えていることに、赤ずきんはある考えが浮かび焦り出す。
そして、必死に狼憑きへと伝えた。
「だめ…たべないで……たべちゃだめ…っ」
赤ずきんは、狼憑きに自分が食べられることを恐れているわけではない。
自分を食べた狼憑きが呪いで死んでしまうことを、赤ずきんは恐れたのだ。
昔の村人たちが考えた、人喰い狼を討伐するための作戦に完全な信憑性があるわけではなかった。…しかし、邪視を持っている自分を食べた狼憑きが何事もなく無事であるとも思えなかった。
赤ずきんは近くに落ちていた口輪へと震える手を伸ばし、狼憑きへと力なく差し出す。
「おおかみっ…」
これをつけて、との思いで差し出すが、狼憑きがそれを受け取ることはなかった。
狼憑きは、本気で赤ずきんを食べようとしている。
この赤ずきんと共に、この世界から消えようと思った。
赤ずきんが死ぬ前に食べてしまわないと、呪いの力が自分に効かないかもしれない。
見たところ、赤ずきんはもうほとんど痛みも感じなさそうだった。
だから苦しめることもない。
赤ずきんに盲目的な狼憑きは、その道しか考えなかった。
…狼憑きは赤ずきんの前で、大きな狼の姿へと変わった。
「だめ、だめっ…やめて……おねがい…ッ」
赤ずきんは涙ながらに訴えていた。
左目からは透明の涙、右目からは赤い血を流しながら。
しかし、そんな願いは狼憑きには届かず
「…赤ずきん、共に」
愛情を示すように最後に軽く赤ずきんの口元を噛むと
狼憑きは、その口で赤ずきんを食べてしまったのだ。
その月色をした目から、涙を流しながら。
……その翌日。
森の奥から、大きな狼の死骸と血にまみれた赤いずきんとブローチのついた服が発見された。
この事実は国中に広まり、たくさんの人々の大きな関心を集めた。
きっとこれから先 何百年経ったとしても、伝説として後世に残り続けていくことになるだろう。
── これで、数百年前から語り継がれていた『人喰い狼』による獣害事件は、本当に幕を下ろしたのだった。
「また人喰い狼が現れた!あの怪物はまだ生きてたんだ!」
「まだ森の中に潜んでいるかもしれない!今 町にも知らせを届けて、猟師や男たちを集めてもらっているところだ!」
「今度こそ絶対に駆除するぞ!!」
仲間の一人が犠牲者となったことで、村人たちは奮い立っていた。
そんな中、昔のあのことを思い出す者もいた。
「邪視は、あの餌はどうなった?人喰い狼が喰ったから、小屋からいなくなったのではないのか?」
しかし、そんな疑問は怒り狂った村人に一蹴される。
「そんなこと今はどうだっていいだろ!どうせもうどこかで死んでるさ!結局あの餌は役に立たなかったってことだ!」
人喰い狼のことで頭がいっぱいになっている村人たちは、血眼になって森の中を探していた。恐れよりも怒りの感情が強く、それが人々を動かしているようだった。
…その数日後、町からも人喰い狼の討伐に協力してくれる男たちがやって来た。それぞれの手には、鉄砲や斧などの武器が握られていた。
町から来た男たちと情報を交換していた時に、ある町人が口にした。
「数日前に町で見かけた大きな男にも協力を仰ごうとしたが、すでに町を出たのかどこにもいなかったんだ。確か、赤いずきんを被った華奢な男も一緒にいたな」
「…赤い、ずきん?」
その格好に覚えのある村人は、情報共有として皆にそのことを伝えたのだった。
…狼憑きと赤ずきんはあの後、森の中の小さな洞窟に身を潜めていた。
「………」
「………」
二人は無言だった。
つい一時間ほど前、狼憑きはあの男を殺めたのだ。そして赤ずきんも、その惨劇を目の前で見ていた。
「…おおかみって、本物の狼だったんだ……おおかみが、あの数百年前からいたっていう…人喰い狼だったの…?」
「……そうだ」
狼憑きはフードを脱いで、赤ずきんに自身の耳を見せた。
「あ…」
そこには人の耳ではなく、獣のような毛が生えた尖った耳があった。それを見て、赤ずきんはなんとなく理解したようだ。
狼憑きは、人間ではないのだと。
それなら数百年前から存在していたとしても納得はできた。
「…そっか……」
赤ずきんは自分に納得させるように、小さく呟いた。
「…騙していてすまなかった」
「…ううん」
狼憑きはフードを被り直すと、口輪の金具に手を当てた。
…ついにまた、事件を起こしてしまった。きっと翌朝には遺体も見つかり、村では騒ぎになるだろう。これからまた逃亡生活が始まる。
赤ずきんとの平穏な日々を、壊してしまった。
「…赤ずきん」
「…?」
狼憑きはあの男を醜いと思ったが、今の自分自身もそうだと思った。
こそこそと人目を避けて逃亡生活をすることになったとしても、赤ずきんと離れたくなかったのだ。
「…翌朝には、村人たちが遺体を発見して犯人を…
「………」
「……赤ずきん。…お前も…私と共に、来てくれやしないか」
「…え…」
…狼憑きは赤ずきんが「嫌だ」と言っても、無理矢理 連れ去ってでもそばに置いておきたかった。
狼憑きの世界には、赤ずきんしか必要なかった。
赤ずきんだけが世界のすべてだった。
…あの男に何もしなければ、今 こんな問題を抱えることはなかったのに。
自分が起こしてしまったことを悔やむだけでなく、それによって起こる問題事に無関係な赤ずきんまでもを巻き込もうとしていた。
自分の世界の安定のため。汚れた欲のため。
赤ずきんにも、自身の罪の片棒を担がせようとしているのだ。
そんな己のなんて醜いことか。
「…俺は……」
「……」
狼憑きは、赤ずきんの言葉をじっと待った。…返答次第では、赤ずきんを拐かすことだって。
「…おおかみが今までやってきたこと、って…その…みんながみんな許してくれることではなくて…」
「……」
「よく知らない俺が言うのも偉そうだけど…おおかみが今まで死なせてしまった人たちにも、家族がいて……その家族の人たちは、とても悲しんだと思う」
「……」
赤ずきんの言う通りだった。今まで無差別に喰ってきた人間の中には、一家の父親や支えとなる母親…愛情込めて育ててきた子供もいたはずだった。狼憑きは、その何の罪もない人間たちの命を奪ってきたのだ。
赤ずきんから見た自分は、血も涙もない冷酷無残な怪物だ。赤ずきんでなくとも、そんな怪物について行こうと思う人間はいるだろうか。
ここまでの赤ずきんの言葉で、赤ずきんからは狼憑きが望む返答は期待できなかった。…狼憑きの中に、黒い感情が渦巻き始める。
「………」
……やはり己は怪物なのだ。
ならば、と赤ずきんへと手を伸ばそうとしたその時、
「…でもね、おおかみ」
「……?」
赤ずきんは、寂しげな笑みを見せた。
「…おおかみも、俺にとってはもう家族なんだ。俺を育ててくれたから。ずっとずっと一緒にいてくれたから。…俺も家族と離れ離れになるのは、寂しくて嫌だなあ…」
「──…」
「…俺はおおかみと、まだ一緒にいたい。だから…俺もおおかみについて行っていいかなあ…?」
…狼憑きの心は、完全に赤ずきんへと縫いつけられた。
もう、何があっても離れることはないだろう。
「…赤ずきん」
狼憑きは、伸ばした手で赤ずきんの手を取ったのだった。
……狼憑きと赤ずきんは、数日間 森へと潜んで抜け出す機会をうかがっていた。
…しかし、二人の想像よりもはるかに大人数での捜索が行われていたようだった。
村人たちと町人たちの情報網は凄まじい勢いで張り巡らされ、いつしか赤ずきんの存在も知れ渡っていたのだ。
「 赤いずきんを被り右目に包帯を巻いている男。
そいつは邪視だ。
災いが人喰い狼を連れて戻ってきたんだ。
もう祟りを恐れている場合ではない。
どちらも殺せ 」
それが合言葉のようだった。
狼憑きと赤ずきんは慎重に人目を避けながら森を抜けようとしたが、やはり人の足で逃げ切るには限界があり、そして人数の差には勝てなかった。
狼憑きは赤ずきんに「もしもの時には邪視の力を使え」とも伝えていたが、それに赤ずきんが首を縦に振ることはなかった。
…夜の森の中。ついに二人は見つかってしまったのだ。
「いたぞ!!大柄の男と赤いずきんだ!!」
その言葉を合図に、森には男たちの鉄砲の音が響き渡った。
「くッ…!」
狼憑きは狼の姿となって、赤ずきんを守るために人間たちを蹴散らしていた。不死のため鉄砲で撃たれても死ぬことはないのだ。
……しかし。
「…ッう゛…」
「──…ッ!」
…悲劇にも、多く放たれたうちのひとつの鉛玉が、赤ずきんに当たってしまった。
狼憑きが振り返る中、赤ずきんはその場へと倒れ込んだ。
「赤ずきんッ…」
狼憑きが駆け寄り見てみると、弾は腹へと命中しており、その箇所からは血がドクドクと流れ出していた。
狼憑きは赤ずきんを抱え、夜の暗闇に紛れて森の奥深くへと逃げていった。
…村人たちの声が聞こえないところまで来ると、狼憑きは赤ずきんの容態を確認する。
「…はぁ…はぁ……」
血が止まらず、呼吸も浅く、顔色も真っ青だ。
助かる見込みはなかった。
もって一晩だと、狼憑きは察した。
「…はぁ……は…」
赤ずきんは朦朧とする意識の中、心配させまいと狼憑きへ精一杯微笑んでいた。
「……」
…狼憑きは赤ずきんを見つめる。
このまま赤ずきんが死ねば、狼憑きはどうなる。
赤ずきんと出会う前のように、また無差別に人を喰いながら生きていくのか。
それとも赤ずきんとの日々のように、平穏にひっそりと生きていくのか。
…しかし、狼憑きの中には端からその二つの選択肢なんてなかった。
何故なら、どちらを選んだとしても、赤ずきんがいない。
そんな世界なんて、生きてく意味がない。
「………」
狼憑きは、赤ずきんの右目を見つめた。
汗と血が滲んでいる包帯をスルスルと取ると、右目には涙のように血が滴っていた。
「…?」
赤ずきんが薄く目を開けると、眼球まるごとが血の色に染まっている様子が見えた。
これが赤ずきんが持つ邪視だ。今まで一度もその力が発動されたことはない、優しい赤ずきんが生まれ持った呪いだ。
狼憑きは、その邪視をじっと見つめていた。
「…おお、かみ…、まさ、か…」
狼憑きの目が己の邪視を捉えていることに、赤ずきんはある考えが浮かび焦り出す。
そして、必死に狼憑きへと伝えた。
「だめ…たべないで……たべちゃだめ…っ」
赤ずきんは、狼憑きに自分が食べられることを恐れているわけではない。
自分を食べた狼憑きが呪いで死んでしまうことを、赤ずきんは恐れたのだ。
昔の村人たちが考えた、人喰い狼を討伐するための作戦に完全な信憑性があるわけではなかった。…しかし、邪視を持っている自分を食べた狼憑きが何事もなく無事であるとも思えなかった。
赤ずきんは近くに落ちていた口輪へと震える手を伸ばし、狼憑きへと力なく差し出す。
「おおかみっ…」
これをつけて、との思いで差し出すが、狼憑きがそれを受け取ることはなかった。
狼憑きは、本気で赤ずきんを食べようとしている。
この赤ずきんと共に、この世界から消えようと思った。
赤ずきんが死ぬ前に食べてしまわないと、呪いの力が自分に効かないかもしれない。
見たところ、赤ずきんはもうほとんど痛みも感じなさそうだった。
だから苦しめることもない。
赤ずきんに盲目的な狼憑きは、その道しか考えなかった。
…狼憑きは赤ずきんの前で、大きな狼の姿へと変わった。
「だめ、だめっ…やめて……おねがい…ッ」
赤ずきんは涙ながらに訴えていた。
左目からは透明の涙、右目からは赤い血を流しながら。
しかし、そんな願いは狼憑きには届かず
「…赤ずきん、共に」
愛情を示すように最後に軽く赤ずきんの口元を噛むと
狼憑きは、その口で赤ずきんを食べてしまったのだ。
その月色をした目から、涙を流しながら。
……その翌日。
森の奥から、大きな狼の死骸と血にまみれた赤いずきんとブローチのついた服が発見された。
この事実は国中に広まり、たくさんの人々の大きな関心を集めた。
きっとこれから先 何百年経ったとしても、伝説として後世に残り続けていくことになるだろう。
── これで、数百年前から語り継がれていた『人喰い狼』による獣害事件は、本当に幕を下ろしたのだった。
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