狼憑きと赤ずきんの話

その男は人目を避けるため、街から離れて大きな森の中へと入った。すっかり日は暮れ、木々に囲まれた辺りは暗闇に包まれ始めていた。ここに住む動物たちもそれぞれの寝床に帰ったのか、何の気配も感じず、森はしん…と静まり返っている。フードを被った男の耳には、地面の草を踏んで歩く自分の足音だけが聞こえていた。

…一日かけてここまで移動してきたのだ。そうそう見つかりはしないだろう。

そう思いながら男は……『狼憑き』は、森の奥深くへと進んでいた。



街で起きた『人喰い狼』による獣害事件。その犯人は、今は人間の姿をしているこの狼憑きという男である。
数百年前から記録されている人喰い狼の事件も、すべてこの男が起こしたことだった。

謎に満ちた人喰い狼の出生の秘密はまさに御伽話のようなものだ。
今よりも黒魔術が盛んで、魔女狩りも行われていた時代。貴族だった青年はその立場上 敵が多く、彼をよく思っていなかった誰かに呪われた。その体に狼を宿し、そして三百年を生きる怪物となった。老いることも命が尽きることもない不死の身体となったのだ。
呪いをかけた人間は彼を殺すために呪ったのかもしれないが、それが結果的にその人間よりもずっと長生きをする体となったわけだ。敵や味方が次々と滅んでいく中で死ぬこともできず、そして数十年は経った頃、呪った奴ももうこの世にはいないと確信した。人ではなくなった彼は、そのことに独り高笑いをしたのだった。
元貴族の狼憑きとなった彼自身、自分がいつ狂ったのかももう覚えていない。

そんな冷酷な狼憑きが人間を喰い殺す理由も単純なものだった。
ただ単に腹が減ったから。姿を見られたから。それだけである。
そうして今まで数え切れないほどの人間を喰らってきたのだ。だから人間を殺すことだってもう何とも思わない。
狼憑きの呪われた体は、一ヶ月に一回の食事だけで事足りていた。つい先日 街でその食事は済ませたため、この先 一ヶ月は腹に何も入れなくても空腹は感じないだろう。
その間 身を潜められる場所を探すために、狼憑きはこの森へとやってきたのだ。こうして転々と住処を変えているため、人々に捕らえられることなく数百年の間 餌を喰らうことができていた。
ありのまま。本能のまま。それが狼憑きとして生きる彼の生き方だった。



…しばらく森を進んでいると、狼憑きは森の奥にひっそりと佇む小屋を見つけた。

「………」

高く伸びた蔓が屋根まで絡みついており、ところどころの壁もひび割れていた。中の明かりもついておらず、見るからに無人小屋のようだった。
狼憑きはその小屋へと近付き、鍵もかかっていない扉に手をかけてギィ…と開いた。
すると。

「わあっ 誰?!」

「…!」

狼憑きは咄嗟に姿勢を低くし、威嚇するように声の主へとグルル…と鋭い牙を剥いた。
そんな狼憑きに少し驚いた顔を見せていたのは、まだ年端もいかなそうなひとりの少年だった。これから寝ようとしていたのか、寝間着のような白いネグリジェを身に纏っている。
少年は突然やって来た狼憑きに興味津々なのか、じーっと純粋な目で見つめながら首を傾げた。

「お兄さん、誰?どうしてそんなにお口が大きいの?」

「……」

「どうしてそんなに爪が長いの?」

「……」

少年は質問を繰り返したが、狼憑きはそれには答えなかった。

それよりも気になったのは、その少年の目だ。
血が滲んだ包帯を巻いている右目を見て、狼憑きは、この子供もいわくつきだと察した。姿を見られたからには子供だろうと容赦なく喰い殺そうかと思っていたが、この得たいの知れない呪いを宿した子供を喰えば、自分の身にもどんなことが起こるのか分からない。だからひとまず喰うのはやめておいた。

「……」

ならば、と狼憑きは少年を手にかけようと爪を尖らせるが

「久しぶりに誰かが来てくれて嬉しいな。ずっとひとりで寂しかったから」

…そうふんわりと笑った少年を見て、また、長い間ひとりだったと聞き、狼憑きはこの子供が誰かに口外できる可能性は低いと考えた。だからひとまず、殺すこともやめておいた。深い理由はない。ただの気まぐれだ。

「…ふわあぁ…」

…気の抜けたあくびをした少年をじっと見ると、少年は「…えへへ。もう眠くて」と少し照れたように笑った。そしてベッドへとてくてく歩いて行くと、狼憑きがいるにもかかわらず、そこへいそいそと潜り込んでいった。肝が据わっているのか、それともただ単に危機感を持っていない子供なのか。

「お兄さんも入れるよ。一緒に寝る?」

しまいにはそう誘ってくる始末だ。
しかし狼憑きはそれに返事はせずに、窓際に置かれていた椅子に腰掛けた。少年は「ふふ。この家は好きに使って」とにこにこしながらも、やがて睡魔に負けたのか、すぅ…と眠りについたのだった。

「………」

狼憑きは小さな寝息を立てて眠る少年を目でも耳でも見張りつつ、自分も少しの間だけ目を閉じて静かに夜を過ごしていたのだった。
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