狼憑きと赤ずきんの話

夜。狼憑きが宿の部屋に戻ると、赤ずきんもすでに帰ってきていた。

「あ、おおかみ、おかえり~」

和やかに挨拶をしてきた赤ずきんに短く返事を返し、持ち出していた物売り用の袋を床の隅に放り投げる。本日も森で採った山菜が売れたので、袋の中は空になっていた。
身体を休めようとした狼憑きが定位置の椅子に座ろうとしていると、赤ずきんが「ねえ」と話しかけてきた。いつもの他愛のない話だと思い耳だけで聞いていると、

「『人喰い狼』って知ってる?」

「──…」

赤ずきんはその名を口にしたのだった。
狼憑きはわずかに反応したが、赤ずきんは気付いていないようで話を続けていた。

「何年か前、その人喰い狼っていう怪物が出ていたそうだよ。でも最近は被害が出ていないんだって。悪いことはもうやめたのかな?」

「…どこで聞いた」

「え?」

「その話をどこで聞いた」

狼憑きは右手で赤ずきんの腕を掴んだ。
ギリギリ…と強いくらいの力がこもっていた。

「いた……どうしたの?おおかみ。痛い…」

「答えろ」

「…今日の夕方、ここに帰ってきた時に、ちょっとだけ…人が話していたのが聞こえて…その狼がいなくなったから、旅ができるようになったって…」

「………」

…ついに赤ずきんにもその話を知られてしまったかと、狼憑きは思った。
この街に人や店が増えたのも、人喰い狼…すなわち狼憑きが人を喰わなくなったことで数年前から被害がぱたりとなくなり、人々が外に出るのを恐れなくなったからだろう。この街にはもともと人喰い狼を知る者は少なかったが、反対に知る旅人や商人がこの大きな街に流れ込んできたのだと狼憑きは推測した。
もう怪物はいなくなったから、人々も自由に娯楽や商売を楽しみだしたのだ、と。
…むしろ今日まで赤ずきんの耳に一切入らなかったのがおかしかったのかもしれない。そこまで気が回らなかった自分の落ち度もあるが。
狼憑きは自嘲するように嗤った。

「…おおかみ…?」

「……」

……どうすればいい。こいつはまだその人喰い狼が自分であることには気付いていないだろう。そもそも狼の姿だって見せていないのだ。…しかし、放っておけば、いずれは何らかの情報を掴んで自分を恐れることだって。

「…違うよ。おおかみのことじゃないよ。だっておおかみは優しいから」

…狼憑きが赤ずきんを疑っている中、赤ずきんはそう言葉をかけた。

「……優しい?」

「…うん。俺をこんなに大きくなるまで育ててくれたから。おおかみは絶対に悪いことなんてしない」

赤ずきんはどこまでも人を疑うことを知らなかった。
…片方だけのその目にまっすぐに見つめられ、狼憑きの心中は大きく揺らぐ。

…人喰い狼は間違いなく自分のことだ。人に呪われ、もう二百年以上は生き、今まで数え切れないくらいの人間を喰ってきた。初めてこの赤ずきんと出会った時だって、真っ先に喰うことを考えた。旅人が言っていた通り、自分は怪物だ。
…だが、この目の前の赤ずきんを数年間育てたのも自分だ。その数年間は誰も喰うことはなく人間のように生きてきた。それだけのことで、この赤ずきんが言うに自分は優しいらしい。本当の正体を知らないというのもあるだろうが。なんとなく都合がいいかと思い、騙しながらこの赤ずきんと共に生きてきたのも自分だ。

…まるで昔の、自分はもう人間ではないということを突きつけられた時のような気持ちだった。

「………」

狼憑きは、自分という存在が分からない。

ありのまま生きてきた自分か。
騙し騙し生きてきた自分か。

自分の本来在るべき姿とはなんだ。


頭の中がグラグラと歪みはじめた狼憑きは、左手でもう片方の腕も掴むと、近くにあるベッドへと赤ずきんを押し倒した。

「おおかみ…?」

赤ずきんは抵抗せずに、静かに狼憑きを見上げていた。

逃げ出そうともせずにすべてを受け入れてくれそうな赤ずきんに、狼憑きは執着にも似た感情を覚えた。

そして頭の中を支配している、あるかも分からない正解というものを赤ずきんに求める。


「…分からない。本当の私は何者なんだ。

  ── 教えてくれよ。赤ずきん…」


狼憑きは、赤ずきんに初めて人間らしい表情を見せた。

震える声で、今にも泣き出しそうな顔だった。


「……おおかみ」


赤ずきんは掴まれている腕を優しく振りほどくと、狼憑きの背中へと手を回した。
そして安心させるかのように、ぽん、ぽん、と優しく叩く。

「…俺から見たおおかみになっちゃうんだけどさ」

囁くようにそう言うと、赤ずきんは穏やかに言葉を紡ぎ始めた。

「…最初の頃はね、おおかみのこと、ちょっと怖いお兄さんだなあと思ってたんだけど、それと同時にね、かっこいい人だなあとも思ってたんだ。誰にも頼らずに一人で旅をしてたから。俺は一人でずっと寂しかったんだけど、このお兄さんは一人でも生きていけるんだって、それがすごくかっこいいと思ったんだ」

「………」

「俺がわがままを言っちゃって、一緒に旅をしてくれるってなって、足が遅くて全然ついて行けない俺のことをいつも待ってくれてて…置いて行かれなかったことが本当に嬉しかったんだ。俺の中で、おおかみは怖いお兄さんからかっこよくて優しいお兄さんになってた。この人みたいなかっこいい大人になりたいって、すっごく憧れたなあ」

赤ずきんは当時抱いた気持ちを懐かしんでいるように、ほわ…とした雰囲気を纏った。
狼憑きは、そんな赤ずきんをじっと上から見つめていた。

「体も大きくて、強そうで!一体何をすればそんなに男らしくなれるの?ってずっと思ってたんだよ。おおかみ、最初の頃は何も食べてなかったし。ずっとずっと不思議だなあって」

…狼憑きはいつかの日に、そのことで赤ずきんが変な解釈をし手に持った木の実か何かを投げ捨てようとしていたのを思い出した。今思い返しても訳の分からないことを言っていたなと、ぼんやりと思った。
赤ずきんは狼憑きに笑いかけた後に、青く美しい瞳でじっと狼憑きを見つめた。

「俺は過去のおおかみのことはまったく知らない。おおかみが話す必要がないと思っているなら、それで構わない。…だから俺の知るおおかみは、今話した通りかっこいい大人のおおかみってこと!」

真剣な表情を見せたのも束の間、赤ずきんはすぐにいつもの純真な笑顔を狼憑きへと見せた。

「……、」

そんな赤ずきんの笑顔が、伝えてくれた思いが、
狼憑きの不安定な内側を、優しくもしっかりと支えてくれたのだった。

「……」

「それにさ!」

「…?」

「その旅人さんたち、人喰い狼は数百年前からいるとも言ってたんだよ。それってもうおとぎ話の世界じゃない?もしも本当にまだ生きてるんだとしたら、もう年寄りになってると思うよ。人なんか食べれないんじゃないかな。お粥のほうが美味しいと思いそうだもん」

「……ふ」

極悪な人喰い狼側の意見も勝手に推測して述べた赤ずきんに、狼憑きも思わず笑みがこぼれた。
……すっかり心が落ち着きを取り戻したのを感じ、狼憑きは口輪が当たらない程度に赤ずきんへと顔を寄せて囁くように喋りかけた。

「…悪い。少し取り乱した」

「ううん。全然大丈夫」

そんな会話を交わした後に、狼憑きは赤ずきんの上からそっと体を退けた。
赤ずきんも起き上がると、「じゃあ、今からご飯にしようか」と優しく声をかけるのだった。



……食事も風呂も終わり、赤ずきんが眠りについた頃。
狼憑きは、赤ずきんのあどけない寝顔を見ながら思っていた。
…自分が人喰い狼であることには変わりないが、今は唯一 大切な存在である赤ずきんにどう思われているかだけが重要だと。それ以外に興味は湧かない。
だから自分は赤ずきんしかいらない。赤ずきんしか求めない。

それはいずれ訪れる赤ずきんの死にすらついて行こうとするほどの、盲目的な執着だった。
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