月と「死」の話
…カタ、と最後にエンターキーを押して、月はふう…と息をついて椅子へともたれかかった。
隣で見ていた「死」は、嬉しそうにぱあっと笑う。
『ようやく完成したな。おめでとう、月よ』
ポンポンと、お疲れ様と言うように「死」は月の肩に触れた。
執筆を始めて二ヶ月半ほど。
ついに月の新作小説は、ひとまず完成を迎えた。
生活の時間を最低限にして執筆作業に多く時間を費やしたつもりだったが、それでもやはり過去の作品と比べると一番長くかかっていた。
ただこれで終わりではなく、修正・校正も月が行う仕事だ。誤字・脱字はないか、数字は漢数字で統一されているか、内容に矛盾がないか、など。これらの最終チェックが終わった後に、編集担当である田口へと渡してそこでも確認が終わり次第、入稿、そして出版されるというのが本来の流れなのだが…
「………」
長い時間をかけて完成させた小説を前にしても、やはり月はこの話を誰かに見せたいとは思わなかった。いつも世話になっている田口にも、そして毎回新作を楽しみにしてくれている祖父にもだ。今までも読者がどれくらいいるのかを意識したことは特になかったが、今回のように身近な存在にも見せたくないという気持ちを抱えるのは初めてだった。
材料集めをしていた時からなんとなく「死」の存在は隠していて、しかしそれは相手に気を遣っているからだと思っていたのだが、まさかあの時から自分は「死」を独占しようとしていたのだろうか。
今隣にいる「死」は、月の中で誰よりも何よりも大きな存在になっていた。小説を誰にも見せないつもりでいたから、あとがきも必要ないだろうと思って考えもしなかった。
月が行う修正と校正も、早ければ一日で終わる作業だ。今は深夜だから、早ければ明日…正確には今日で終わる。
もしかしたら「死」とふたりでいられるのも、今日が最後…
「……」
月は隣にいる「死」へと視線を向けた。「死」も月からの視線に気付き、「?」と首を傾げている。目が合い見つめ合う月と「死」。
『どうしたんだ?…ふふ。眠いのか?』
心地のいい声で、優しい眼差しを向けられて、月は
「……死」
そっと「死」の髪に触れた。
「死」は驚いた様子もなく、じっと月の言葉を待っているようだった。
「…俺がお前を創り出したのは、この小説を作るためだ」
『ああ、知っている』
「…俺が尊敬している祖父や、魅力を感じた舞台女優を元に、俺の理想を詰め込んで生み出した。それがお前だ」
『ふふふ』
「死」は心底嬉しそうに笑っている。
月は「死」の長い髪をサラ…とゆっくりと撫でた。
「そうすれば想像しやすいと、お前を動かしやすいと思ったからだ。理由はただ、それだけだった。…でも」
髪を撫でていた月の手は、「死」の頬へと移動した。愛おしそうな手つきで、目で、「死」を捉えていた。
「…いつからか……もしかしたら最初からか…。…お前を誰にも知られたくないと、思ったんだ。それは今も変わらず」
月は目を伏せて、少し悲しげに呟いた。
「…お前を誰にも見せたくない。俺だけの死でいてほしい。だから…」
瞬きをした月は、「死」の目をじっと見つめた。
「…この作品は世には出さない」
月は自分が抱えている想いをすべて「死」に告げると、またすぐに目を伏せた。
うつむいた月は、ついに言ってしまった、と思った。これほど相手からの返事が怖いと思ったのは初めてだった。「死」は月からの告白を受けて、どう思っているのだろうか。
「話が違う」と怒りをぶつけられることだって、否定されることだって、嫌われることだって、覚悟はしていたつもりだったが
「死」に突き放されることが、怖い。
「………」
……もう終わりだろうかと月が思った時、「死」はどうしたものか、頬に触れている月の手へとすり…と擦り寄った。月が顔を上げて見てみると、「死」の顔には不満な様子も不機嫌な様子もなく、穏やかでとても優しげだったのだ。
「…死?」
思わず月が声をかけると、「死」はふんわりと笑った。
『それはそれは。他人に見せたくないほどのお気に入りになっていたとは、なんて光栄なことか。お前がこれまで作り上げた作品たちにも自慢できそうだよ』
「死」は月に対して、怒ったり否定したりすることなんてなかったのだ。
それどころか、歴代の作品たちに自慢できると誇らしげである。
月が生み出した存在だからか…寛大な心で月を受け入れてくれたのだ。
「……」
月は驚きで声も出せないでいたが、次の瞬間、ぶわっ…と色んな想いが込み上げてきた。思わず目も潤み始める。
「死」は笑いながら、背中をよしよしとさすってきた。それでとうとう限界が来てしまったようで、月の目からはポロポロと涙がこぼれ落ちた。
不安で冷たくなっていた心が、ぽかぽかとあたためられたようだった。
「死」は雫を指ですくってあげながら、「…ただな、月よ」と前置きしてから月へと告げた。
『私の話もお前の本棚に並べておくれ。この箱の中だけの箱入り子 では、あまり格好がつかないよ』
「死」はパソコンを指差していた。確かに「死」の話は、今はパソコンの中だけに一部始終が収められている。それが少し不満らしい。
しかし、今までは作品の入稿・出版依頼も田口にすべて任せていた。月はただ物語を書くだけだったのだ。だから自分の手で本を作ったことはなかった。
……でも。
「…ぐす……そうか…。…分かった。やってみよう」
「死」の願いとなると、月の向上心や行動力は凄まじいものだった。
今は深夜であるため、作業をするならいったん寝て起きてからになるだろう。しかし先にできることはやっておこうと、動画サイトで「自宅でできる本の作り方」動画を検索し次々に漁ってはめぼしいものを"後で見るリスト"に放り込んだ。そのテキパキとした巧みな捌きに、隣で見ていた「死」は感嘆の声を漏らしていた。
おおかたリストへ入れ終わると、ひとまず今日の作業はここまでにして、月はベッドへと入ったのだった。
…「死」から受け入れられたことで気持ちが高揚し、なかなか寝付けなかったが。
隣で見ていた「死」は、嬉しそうにぱあっと笑う。
『ようやく完成したな。おめでとう、月よ』
ポンポンと、お疲れ様と言うように「死」は月の肩に触れた。
執筆を始めて二ヶ月半ほど。
ついに月の新作小説は、ひとまず完成を迎えた。
生活の時間を最低限にして執筆作業に多く時間を費やしたつもりだったが、それでもやはり過去の作品と比べると一番長くかかっていた。
ただこれで終わりではなく、修正・校正も月が行う仕事だ。誤字・脱字はないか、数字は漢数字で統一されているか、内容に矛盾がないか、など。これらの最終チェックが終わった後に、編集担当である田口へと渡してそこでも確認が終わり次第、入稿、そして出版されるというのが本来の流れなのだが…
「………」
長い時間をかけて完成させた小説を前にしても、やはり月はこの話を誰かに見せたいとは思わなかった。いつも世話になっている田口にも、そして毎回新作を楽しみにしてくれている祖父にもだ。今までも読者がどれくらいいるのかを意識したことは特になかったが、今回のように身近な存在にも見せたくないという気持ちを抱えるのは初めてだった。
材料集めをしていた時からなんとなく「死」の存在は隠していて、しかしそれは相手に気を遣っているからだと思っていたのだが、まさかあの時から自分は「死」を独占しようとしていたのだろうか。
今隣にいる「死」は、月の中で誰よりも何よりも大きな存在になっていた。小説を誰にも見せないつもりでいたから、あとがきも必要ないだろうと思って考えもしなかった。
月が行う修正と校正も、早ければ一日で終わる作業だ。今は深夜だから、早ければ明日…正確には今日で終わる。
もしかしたら「死」とふたりでいられるのも、今日が最後…
「……」
月は隣にいる「死」へと視線を向けた。「死」も月からの視線に気付き、「?」と首を傾げている。目が合い見つめ合う月と「死」。
『どうしたんだ?…ふふ。眠いのか?』
心地のいい声で、優しい眼差しを向けられて、月は
「……死」
そっと「死」の髪に触れた。
「死」は驚いた様子もなく、じっと月の言葉を待っているようだった。
「…俺がお前を創り出したのは、この小説を作るためだ」
『ああ、知っている』
「…俺が尊敬している祖父や、魅力を感じた舞台女優を元に、俺の理想を詰め込んで生み出した。それがお前だ」
『ふふふ』
「死」は心底嬉しそうに笑っている。
月は「死」の長い髪をサラ…とゆっくりと撫でた。
「そうすれば想像しやすいと、お前を動かしやすいと思ったからだ。理由はただ、それだけだった。…でも」
髪を撫でていた月の手は、「死」の頬へと移動した。愛おしそうな手つきで、目で、「死」を捉えていた。
「…いつからか……もしかしたら最初からか…。…お前を誰にも知られたくないと、思ったんだ。それは今も変わらず」
月は目を伏せて、少し悲しげに呟いた。
「…お前を誰にも見せたくない。俺だけの死でいてほしい。だから…」
瞬きをした月は、「死」の目をじっと見つめた。
「…この作品は世には出さない」
月は自分が抱えている想いをすべて「死」に告げると、またすぐに目を伏せた。
うつむいた月は、ついに言ってしまった、と思った。これほど相手からの返事が怖いと思ったのは初めてだった。「死」は月からの告白を受けて、どう思っているのだろうか。
「話が違う」と怒りをぶつけられることだって、否定されることだって、嫌われることだって、覚悟はしていたつもりだったが
「死」に突き放されることが、怖い。
「………」
……もう終わりだろうかと月が思った時、「死」はどうしたものか、頬に触れている月の手へとすり…と擦り寄った。月が顔を上げて見てみると、「死」の顔には不満な様子も不機嫌な様子もなく、穏やかでとても優しげだったのだ。
「…死?」
思わず月が声をかけると、「死」はふんわりと笑った。
『それはそれは。他人に見せたくないほどのお気に入りになっていたとは、なんて光栄なことか。お前がこれまで作り上げた作品たちにも自慢できそうだよ』
「死」は月に対して、怒ったり否定したりすることなんてなかったのだ。
それどころか、歴代の作品たちに自慢できると誇らしげである。
月が生み出した存在だからか…寛大な心で月を受け入れてくれたのだ。
「……」
月は驚きで声も出せないでいたが、次の瞬間、ぶわっ…と色んな想いが込み上げてきた。思わず目も潤み始める。
「死」は笑いながら、背中をよしよしとさすってきた。それでとうとう限界が来てしまったようで、月の目からはポロポロと涙がこぼれ落ちた。
不安で冷たくなっていた心が、ぽかぽかとあたためられたようだった。
「死」は雫を指ですくってあげながら、「…ただな、月よ」と前置きしてから月へと告げた。
『私の話もお前の本棚に並べておくれ。この箱の中だけの箱入り
「死」はパソコンを指差していた。確かに「死」の話は、今はパソコンの中だけに一部始終が収められている。それが少し不満らしい。
しかし、今までは作品の入稿・出版依頼も田口にすべて任せていた。月はただ物語を書くだけだったのだ。だから自分の手で本を作ったことはなかった。
……でも。
「…ぐす……そうか…。…分かった。やってみよう」
「死」の願いとなると、月の向上心や行動力は凄まじいものだった。
今は深夜であるため、作業をするならいったん寝て起きてからになるだろう。しかし先にできることはやっておこうと、動画サイトで「自宅でできる本の作り方」動画を検索し次々に漁ってはめぼしいものを"後で見るリスト"に放り込んだ。そのテキパキとした巧みな捌きに、隣で見ていた「死」は感嘆の声を漏らしていた。
おおかたリストへ入れ終わると、ひとまず今日の作業はここまでにして、月はベッドへと入ったのだった。
…「死」から受け入れられたことで気持ちが高揚し、なかなか寝付けなかったが。