月と「死」の話

三分の二ほどの執筆が終わった頃。

この頃になると、家の中や夜の世界しか知らない「死」は、朝と昼の明るい世界への興味が止まらなかった。

『なあ月よ。少し散歩にでも行かないか?太陽が出ていてあたたかそうだよ』

午後一時。「死」はそう言って月を散歩へと誘っていた。
執筆作業は午前中にだいぶ進めたため、今は昼食後の休憩の時間だ。だから「死」の言う通り、三十分ほどの散歩に出かけても何の問題もない。…しかし。

「……」

月はあまり乗り気ではなかった。
もともと月は人のいない場所が好きなため、今までは凍えそうになりながらも夜しか外には出なかった。その時間と比べると確かに人は多そうだが、しかし今の時間帯なら太陽がまだ顔を出しているためぽかぽかとしている。そんな時間帯での散歩はとても気持ちよさそうだ。月が外に出ない限り家から出られない「死」は、そんな魅力的な提案をしてみたのだ。だが、月は一向に首を縦に振らないでいた。死はベッドの上にぺたんと座り、頬杖をついて甘えるように上目遣いで月を見ていた。その姿はとても可愛らしい。

『なーあ』

どこで覚えてきたのか、それとも最初からそのスキルを身に付けていたのか、死はキラキラうるうると目を潤ませている。本来ならすぐにコロッと落ちそうな月だが、しかしそのお願いだけはどうしても聞けなかった。

理由はやはり、人と会いたくないからだろうか。

『夜と違って賑やかなのだろう?その世界の音も聞いてみたい』

…いや、少し違う。

「………」

作者の独占欲みたいなものだろうか。
月は、「死」に自分以外の存在にあまり興味を持ってほしくなかったのだ。

夜に出歩く人はほぼいない。だから夜の散歩というのは、月と「死」だけの世界のようだった。
しかし、それが朝・昼となれば、通勤中の社会人、登校中の子供。散歩中のお年寄り、放課後に遊ぶ子供。好奇心旺盛な「死」が興味を惹かれるであろう対象がたくさんいた。自分以外の存在をその目に映して楽しげに笑う「死」を見るというのは、あまり気分がいいものではなかった。
思えば、前に田口が家に訪ねてきた時もそうだ。「死」が田口を見てみたいと言った時…そして「死」が帰り際の田口に顔を寄せたあの瞬間……月はぎゅっ…と胸が苦しくなったのだ。
自覚していなかったのか、それとも自覚した上で触れないようにしていたのか。
自分は目の前の「死」という架空の存在に、酷く心を奪われてしまっているようだった。そんな独占したいほど好きな「死」が、自分よりも外の人間に興味を持とうとしている。それがどれほど面白くないことか。

しがない小説家が創り出した、幻覚を見るほどに執着している存在。
たかが空想。所詮妄想。
自分が異常なのだ。だから誰にも理解されなくていい。
自分は「死」だけがいれば、それでいい。

「………」

月は椅子から立ち上がり、ベッドの上にいる「死」へと近付いた。「死」は願いが通じたと思ったのか、期待しているような顔で月を見上げている。
冷酷で残忍なイメージのある「死」だが、この「死」は純白な月が生み出したからか、時々 妙な純粋さを見せていた。妖艶に笑うことはあるものの、「死」が意識してそうしているのかは不明だった。もしかしたら「死」の容姿の参考にした彼女が、もともとそういう艶やかな雰囲気を纏っていたからかもしれない。「死」は普通に笑っているだけだが、その笑顔が酷く妖艶に見えるだけの可能性もあった。それはそれで危険だが。
…現に今も、月が「死」の頬へと触れても、当の本人は「?」と頭にはてなを浮かべていた。

「……」

そう、「死」には触れることができるのだ。
自分の色んな想いがこめられた空想というのも大したものだ。
月は「死」の小さな唇を、親指でそっと撫でる。

『ふふふ。どうしたんだい?』

「死」はそう言って、意識しているのかしていないのか分からない、艶やかな笑みを月へと向けた。
その挑発的な顔を見た月の中に、ズグ…とある考えが生まれる。

…この「死」は自分が生み出した存在。
だから作者である自分は、この「死」をどうすることだってできるのではないか、と。
自分とこの「死」が結ばれる結末だって、自分がこの「死」を支配する展開だって、いくらでも。

空想の中では何だって可能なのだ。

「………」

月は「死」の左肩を手で掴み、ぐっ…と向こう側へと押した。
ドサ…と、「死」を簡単にベッドへと押し倒すことができた。その上に体重をかけないよう月は乗り上げた。

『…おや。何をするのかな?』

すると「死」は先ほどの無垢な表情から一変し、すっと目を細めて月を見上げた。
纏う雰囲気も大人のような妖しいそれにガラッと変わった。
…やはり「死」という存在は月には分からなかった。

「……、」

勢いで押し倒してしまったものの、その後どうすればいいのか、いまいち分からないでいた。というのも月はまだ初心だからである。官能小説にも興味がなく執筆経験はないため、あれやそれやは完全に想像上のものだ。
月は下にいる「死」をじっと見つめた。

「………」

『うん?』

「死」はにこにこと微笑んでいる。
…その顔を見ての推測だが、やはり「死」は、これがただの健全な遊びか何かだと思っているようだ。自分を生み出した、言わば親のような存在である月にドロドロとした醜い感情を向けられていることには、おそらく気が付いていない。
月は目の前の美しい「死」を、自分の欲で汚そうと思えば汚すこともできた。この「死」相手なら下半身を熱くすることだってできる。周りの人間から見れば、月は無様に空虚と交わっているように見えるだろう。だがそんなことを嘲笑われたってどうでもいい。自分は間違いなく、自分のものである「死」と繋がっているのだから。
月は本気でそれも考えていた。
……しかし。

『ふあぁ…このまま昼寝するのもいいね』

午後のぽかぽかとした陽気に包まれ、この状況でのんきにそんなことを言っている「死」。

この妖しくも可愛らしい存在を己の醜い欲で汚すのは、どれほど軽薄なことだろう。

簡単に自分の色へと染めることができた「死」に、これまでのような、残酷で、無慈悲で、この世の何よりも強いという、病的に崇めるほどの理想を変わらず抱くことはできるのか。

それに改めて思ったのだ。
…「死」に人間である自分の手は加えたくない。

「……」

月は「死」の上からそっと体を退けた。「死」は月の行動にまたしても頭にはてなを浮かべていたが、椅子に座り直した月を寝転んだままじっと見つめていた。しかし何か思うところはあったのか、寸刻前のように「外に散歩に行きたい」とは言わなかった。

その日の午後からは特に話もせずに、月は黙々と執筆を続け、「死」はベッドの上でごろごろとしながら過ごしていた。
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