死だけの秘密の話
…その日。
彼は教会へ向かうため、ひとり夜道を歩いていた。しかし、死からのお誘いを受けているわけではなかった。
死と最後に会ったのは3日前だ。あの不思議なホテルのような部屋で彼だけ帰された日から、死は彼の前に姿を現していない。
彼の知らない人物の存在を匂わせ、それ以降は姿を見せない死。きっと飽きられたのだ。誰もがそう思うだろう。
…それでも、彼は死との唯一の繋がりがある教会へと足を運ぶ。
いないことは分かっている。無駄足だと分かっている。
近いうちに名前を教えると言っていたのも、きっとその場を逃れるための適当な嘘だったのだろう。
もうあの人とは会えないだろうと、分かっているのだ。
しかし、それでも。
彼は一縷の望みをかけて、教会へと向かう。
「…さむ」
雪でも降りそうなくらい冷たい夜。
でもあの人なら、きっとこんな夜でも平気でいつもの格好でいそうだ。
…何気ないふとした瞬間に思い出すほど、彼は死のことが忘れられない。
この苦しみは一生背負うことになりそうだと、己の未練たらたら具合に自嘲する。
顔を上げると、例の教会がもう すぐそこに見えていた。
さて、教会はもう目と鼻の先だ。今日もひとり寂しく、想い人へと思いを馳せよう。
……そう考えていた彼の後ろから
猛スピードで迫る車。
歩いている彼の姿が見えていないのか
直前になっても、ブレーキをかける気配はない。
「…え?」
異変に気付いた彼が振り返る頃には
もう遅かった。
ドンッと鈍い音が響き渡り、彼は地面に叩き付けられる。
一瞬の出来事だった。
「…う……」
体を動かせないほどの激痛に、彼は小さくうめき声をあげる。
頭や体からは、血が止まることなくあふれていた。
運転手は気でも失っているのか、今にも命が消えてしまいそうな彼を助けに来ることもない。
時刻は深夜。人気のない場所にある教会の前。通行人もいない。
今 こんな事故が起こったことを知るのは、瀕死の彼しかいないのだ。
寒空の下、だんだんとその体は冷たくなっていく。
「………」
いよいよ終わるのだと、意識が朦朧としていく彼の前に
「おやおや」
「……ぁ…」
それは現れたのだ。
「残念だな。お前は月と違って、すぐに生まれ変わることはできない」
そう言いながら、倒れている彼の前にしゃがみ込む。
先ほど彼が予想していた通りの格好をしていた。彼の目の前には、血の海の上に立つ裸足の白い足が見えている。
「……っ」
彼はなんとか喋ろうとするが、口が動かない。声かどうかも分からないほどの小さな掠れ声しか、もう出せなくなっていた。
目の前の存在に言いたいことはたくさんあるのに、もう、伝えられない。
そんな彼の様子を見て、それは思い出したかのように口を開く。
「そうだ。お前がずっと知りたがっていた私の名だが」
「……!」
「…今のお前みたいな消えゆく者に、終わりを告げるモノだよ」
…死神。白く霞んでいく頭を必死に働かせた彼はそう思った。
そんな彼の頭の中を見透かしているのか いないのかは知らないが、それは考えるような素振りを見せる。
「ふむ。名などどうでもいいが、お前がそう思うならそれでいいよ」
そう言うと、それは彼へと手を伸ばし、綺麗な方の頬を撫でる。
死という残酷な存在だというのに、その手付きは酷く優しかった。
「お前はもともと終わりが近かった。だから死わたしに強く惹かれたんだろうね」
私と関わったことでさらに近付いたのかな、と死はくすくすと笑う。その声は彼にはもう遠く聞こえた。
しかし、だんだんと閉じていく世界の中で、彼は思う。
…自分が死神に執着したのは、死期が近かったから。要するに本能的なものだと、目の前の死神は言った。
「好き」とか「愛おしい」とか、そういう感情を抱いていたわけではないと。
……でも。
「………」
でも、彼はそうは思わなかった。
今まで抱いてきたこの人への思いは、絶対に偽りなんかではない。
自分はこの人を、本当に愛していたのだ。
「…っ……」
…最期にそう伝えたかったが、それは叶わぬ願いだった。
彼はゆっくりと目を閉じていき、意識もなくなり、浅かった呼吸も静かに止まった。
そして、最後。彼の心臓が止まる瞬間に、すぐ近くで看取っていた死は呟いた。
「…おやすみ」
……これで、死と彼が繋がっていたのを知るものは死だけとなった。
彼も死との関係は秘密にしたかったようだ。家族にも、友人にも、死の存在を口外していなかった。
それは死にとって都合のいいことだ。好きに、自由に動くことができる。
死も同じく、月に彼のことは一切話していない。話す理由もない。
万が一、今後なんらかのきっかけで月が彼の存在を知ったとしても、
死が「そんな奴は知らない」とただ一言言えば、純粋な月は死の言葉を信じるだろう。
彼という存在はもういないのだから、月にそんなことを確かめる術ももうないが。
死人に口なしだ。
「…さて」
役目は終えた。
死はいつもの居場所へと帰るため、彼と日々過ごした教会を背にして歩き出した。
帰るまでの道のりで、彼との数ヶ月間を思い返す。
月とはまったく違う性格をした、優しく誠実な彼。
短い間だったが、なかなかに楽しめたと、死はそう思うのだった。
彼との戯れは、死だけの秘密だ。
彼は教会へ向かうため、ひとり夜道を歩いていた。しかし、死からのお誘いを受けているわけではなかった。
死と最後に会ったのは3日前だ。あの不思議なホテルのような部屋で彼だけ帰された日から、死は彼の前に姿を現していない。
彼の知らない人物の存在を匂わせ、それ以降は姿を見せない死。きっと飽きられたのだ。誰もがそう思うだろう。
…それでも、彼は死との唯一の繋がりがある教会へと足を運ぶ。
いないことは分かっている。無駄足だと分かっている。
近いうちに名前を教えると言っていたのも、きっとその場を逃れるための適当な嘘だったのだろう。
もうあの人とは会えないだろうと、分かっているのだ。
しかし、それでも。
彼は一縷の望みをかけて、教会へと向かう。
「…さむ」
雪でも降りそうなくらい冷たい夜。
でもあの人なら、きっとこんな夜でも平気でいつもの格好でいそうだ。
…何気ないふとした瞬間に思い出すほど、彼は死のことが忘れられない。
この苦しみは一生背負うことになりそうだと、己の未練たらたら具合に自嘲する。
顔を上げると、例の教会がもう すぐそこに見えていた。
さて、教会はもう目と鼻の先だ。今日もひとり寂しく、想い人へと思いを馳せよう。
……そう考えていた彼の後ろから
猛スピードで迫る車。
歩いている彼の姿が見えていないのか
直前になっても、ブレーキをかける気配はない。
「…え?」
異変に気付いた彼が振り返る頃には
もう遅かった。
ドンッと鈍い音が響き渡り、彼は地面に叩き付けられる。
一瞬の出来事だった。
「…う……」
体を動かせないほどの激痛に、彼は小さくうめき声をあげる。
頭や体からは、血が止まることなくあふれていた。
運転手は気でも失っているのか、今にも命が消えてしまいそうな彼を助けに来ることもない。
時刻は深夜。人気のない場所にある教会の前。通行人もいない。
今 こんな事故が起こったことを知るのは、瀕死の彼しかいないのだ。
寒空の下、だんだんとその体は冷たくなっていく。
「………」
いよいよ終わるのだと、意識が朦朧としていく彼の前に
「おやおや」
「……ぁ…」
それは現れたのだ。
「残念だな。お前は月と違って、すぐに生まれ変わることはできない」
そう言いながら、倒れている彼の前にしゃがみ込む。
先ほど彼が予想していた通りの格好をしていた。彼の目の前には、血の海の上に立つ裸足の白い足が見えている。
「……っ」
彼はなんとか喋ろうとするが、口が動かない。声かどうかも分からないほどの小さな掠れ声しか、もう出せなくなっていた。
目の前の存在に言いたいことはたくさんあるのに、もう、伝えられない。
そんな彼の様子を見て、それは思い出したかのように口を開く。
「そうだ。お前がずっと知りたがっていた私の名だが」
「……!」
「…今のお前みたいな消えゆく者に、終わりを告げるモノだよ」
…死神。白く霞んでいく頭を必死に働かせた彼はそう思った。
そんな彼の頭の中を見透かしているのか いないのかは知らないが、それは考えるような素振りを見せる。
「ふむ。名などどうでもいいが、お前がそう思うならそれでいいよ」
そう言うと、それは彼へと手を伸ばし、綺麗な方の頬を撫でる。
死という残酷な存在だというのに、その手付きは酷く優しかった。
「お前はもともと終わりが近かった。だから死わたしに強く惹かれたんだろうね」
私と関わったことでさらに近付いたのかな、と死はくすくすと笑う。その声は彼にはもう遠く聞こえた。
しかし、だんだんと閉じていく世界の中で、彼は思う。
…自分が死神に執着したのは、死期が近かったから。要するに本能的なものだと、目の前の死神は言った。
「好き」とか「愛おしい」とか、そういう感情を抱いていたわけではないと。
……でも。
「………」
でも、彼はそうは思わなかった。
今まで抱いてきたこの人への思いは、絶対に偽りなんかではない。
自分はこの人を、本当に愛していたのだ。
「…っ……」
…最期にそう伝えたかったが、それは叶わぬ願いだった。
彼はゆっくりと目を閉じていき、意識もなくなり、浅かった呼吸も静かに止まった。
そして、最後。彼の心臓が止まる瞬間に、すぐ近くで看取っていた死は呟いた。
「…おやすみ」
……これで、死と彼が繋がっていたのを知るものは死だけとなった。
彼も死との関係は秘密にしたかったようだ。家族にも、友人にも、死の存在を口外していなかった。
それは死にとって都合のいいことだ。好きに、自由に動くことができる。
死も同じく、月に彼のことは一切話していない。話す理由もない。
万が一、今後なんらかのきっかけで月が彼の存在を知ったとしても、
死が「そんな奴は知らない」とただ一言言えば、純粋な月は死の言葉を信じるだろう。
彼という存在はもういないのだから、月にそんなことを確かめる術ももうないが。
死人に口なしだ。
「…さて」
役目は終えた。
死はいつもの居場所へと帰るため、彼と日々過ごした教会を背にして歩き出した。
帰るまでの道のりで、彼との数ヶ月間を思い返す。
月とはまったく違う性格をした、優しく誠実な彼。
短い間だったが、なかなかに楽しめたと、死はそう思うのだった。
彼との戯れは、死だけの秘密だ。
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