Credo ―我は信ず―
1
その日、ようやく退院できたクレオは焼きたてのパンを抱えながらマクドール邸に戻ってきた。
片手で荷物を抱えながら、ドアに手を伸ばす。
ふと、その手が止まった。
開けることへの、ためらい。
恐怖。
ぐっと目を閉じ、ごくり、と喉がなった。
大きく息を吐いて、ドアノブを握る。
それは、驚くほど簡単に開いた。
「…だいじょうぶですね」
「……はい」
ついて来てくれていたリュウカンの弟子に微笑み、大きく扉を開いた。
「やっと…かえって来れました…」
クレオにとっても、失った人たちは大きすぎた。
グレミオも、パーンも、テオもいない屋敷に初めて帰った日、クレオは呼吸ができなくなり、倒れた。
クレオを病院に抱えて走ったのはほかならぬ、ユエだった。
一時的に仮設営したリュウカンとその弟子たちが率いる病院は負傷者と病人であふれていたが、血相を変えた英雄とその腕の中の女性を見て、即座に治療に当たってくれたのである。
診断は、心因性の、病気とされた。
帰らなければならないという義務感と、失ったものへの恐怖感、それらが合わさり、時期に食事もできないほどに憔悴したクレオを引き戻してくれたのは、手厚い看護と、ずっと付き合ってくれた医者と、忙しい戦後処理のさなか、何度も足を運んでくれたユエだった。
ゆっくりと治していいのだ、と。
この際だから休暇のつもりで養生してほしいと笑って何度も見舞いに来てくれた。
食べられないクレオに少しずつでも、と手ずから粥を口に運び、食べさせてくれたこともあった。
それがきっかけで食事ができるようになり、少しずつ少しずつ回復を遂げることができた。
「朝食を一緒に食べていってください」
「じゃあ、お言葉に甘えます」
もしものことがあるといけない、と一緒に来てくれた医者も笑いながら邸内に入る。
「今日は泊まっていかれるのでしょう?」
「ええ。そうしたいと思います」
いくら帰ってこられるようになった、とはいっても初めての泊まりである。
症状がぶり返さないとも限らない、と今日と明日、一緒にこの屋敷に生活することになる。
あらかじめ、リュウカンからはそう言われていた。
「いやあ…さすがマクドール邸ですねえ」
豪華だ、とつぶやきながらキョロキョロとする医者に笑って、覚悟をきめて台所に足を踏み入れた。
―――お帰りなさい
金の髪が、見えたような気がした。
「…ただいま。グレミオ」
もう、その人はいないけれど。
意外なほど、すんなりと、それを受け入れることができた。
とん、と紙袋を置く。
焼きたてのパンと、新鮮な卵と牛乳、バター。
それに真っ赤なトマト。
つぎつぎと並べて、皿を広げる。
自分の分と、ユエの分と、医者の分。
ここに住まうことになった日、自分用に用意されたのは淡いクリーム色にほのかに薄紅の模様が入った食器だった。
そして、ユエの物は、幼いころからサイズこそ変わっているものの、変わらない。
真っ白い陶器に、美しい青でラインが入り、さらに金で縁取りされた、豪華だけれどシンプルなもの。
ユエのために毎年誂えられている逸品だった。
きっと、この皿も久しぶりに使われるのだろう。
だが、使用人たちの手で食器も調理台も綺麗に磨かれている。
「…坊っちゃんを起こしてきますね」
昔はお寝坊さんだった。
テオさまが旅立たれた日にも、うっかり寝過ごした、とあわてて起きてきた。
懐かしく思いながら、階段をあがる。
ユエの部屋の扉も、オーク材でできた重厚なもので、繊細な彫刻に金で象眼した名前が刻まれている。
こんこん、とノックをする。
きっと、驚くだろう。
まだ帰って来れないと思っていたのだろうから。
そんなことを思いながらドアを開ける。
「坊っちゃん、おはようございます」
ざあっと、強い風がクレオの髪を巻き上げる。
「・・・・・・・・っ」
窓が開きっぱなしだったのか、と窓に駆け寄り、閉める。
朝日を取り入れられるように作られた大きな窓が閉まると、部屋の中にはすがすがしい朝の光が広がるだけだった。
肺に心地よい早朝の空気が部屋の中に満ちている。
「まったく…風邪を引きますよ、ぼっちゃ……」
そこには、誰もいなかった。
「……坊っちゃん…?」
クレオの声が、空々しく、響いた。
「坊っちゃん…?」
「坊っちゃん?」
いない。
「坊っちゃん」
この部屋にも。
あの部屋にも。
家中の部屋の扉を何度もあけたり閉めたりするクレオに今から医者がとびだしてきた。
「クレオさん?どうかしたんですか?」
歩き続けるクレオに追いすがりながら医者が顔を覗き込む。
「坊っちゃんが、お部屋にいなかったんです」
「え?ユエ様が?」
いない?
「いやだわ…ひょっとしたらもうお城に行かれたんでしょうか」
こんなに早いのに。
そうつぶやきながらふらり、と部屋を出た。
「クレオさんっ」
手をつかめば、振り払おうとする。
「だって、いらっしゃらないはずがないでしょう」
「クレオさん?」
「いらっしゃるんです…」
その視線が、よどみ、あたりをさまよう様子をみて、医者の顔が引き締まった。
「クレオさん…」
振り向いたクレオに、一言ずつ言い聞かせるように、ゆっくりとその言葉を告げる。
「リュウカン先生の所に伝言をお願いしてもいいですか?」
きょとん、としたクレオが首をかしげた。
「はい?」
「ひょっとしたら、お城にいらっしゃるのかもしれないので、リュウカン先生から探していただきましょう。なかなか入れませんからね」
今の段階では、新政府での正式な地位と身分証明書がなければ城には入れないようになっている。
クレオのならば直ぐにでも発行されるかもしれないし、顔を見ただけで通してもらえるかもしれないが、クレオの様子を見る限り、直接行かせるのは危険な気がした。
安心させるようににっこりと笑いかければ、クレオがちょっと笑い、頷く。
「ええ…そうですね…」
「ユエ様も少し働きすぎなのかもしれませんね」
「本当に…そうだわ…坊っちゃんってば…」
ぼんやりとした調子で言葉をつむぐクレオに危機感を募らせながら、医者はあたりを見渡した。
「クレオさんの手作りの朝食が食べられないのは至極残念ですが、ユエ様に埋め合わせしていただくとしましょう」
不遜ですがね、と笑いながら玄関へと促す医者に笑いながらついてくるクレオの手を引きながら、いまだ年若い医者は、嫌な予感に押しつぶされそうだった。
リュウカンの知らせに、すぐに、マクドール邸に人が駆けつけた。
部屋という部屋を開け放ち、名前を呼びながら、人々が屋敷中を歩き回った。
「―――グレン!」
声を上げたアレンにグレンシールはすぐさま駆け寄った。
アレンがいたのは、英雄たるその人の、部屋の前だった。
「どうした?」
誰もいないのは確認済みだろう、と言ったグレンシールに、アレンが震える指で、それらをしめした。
「どうして…この服が残っている…?」
赤い胴衣は、彼の象徴。
そして、かつて赤月帝国において、近衛隊の制服でもあった服。
その傍らには。
黒い棍が、置かれていた。
片時も放さなかった、彼の武器が。
すでに武の時代ではない、と笑いながら、彼は武器をその手から離そうとはしなかった。
そして……
グレンシールが持ち上げたものに、アレンがうずくまった。
「まさか……」
それは、手袋だった。
彼が、それをしていた理由は。
「そんな……」
テッドに買ってもらったのだ、と笑っていた。
そして、一度も、それをはずさなかった。
右手の紋章を隠すために。
「アレン」
「・・・・・・・・・・・・・」
「レパント殿に連絡を……誘拐略取でないと…言い切れないのだから」
そう言いながら、グレンシールもまた、その場に力なく、膝を突いた。
零れ落ちた涙が、柔らかいじゅうたんにしみる。
英雄を拉致するものなど、できるものなど、いない。
そして、できたとしても。
門番に見つからないはずがない。
ならば。
彼は。
出て行ったのだ。
すべてを捨てて。
目の前が、真っ暗になるようだった。
「クレオに…何といえば…」
そんなことを言わないと、その重みにつぶされてしまいそうだった。
捨てていかれたのだ。
主に。
その日から、英雄は姿を消した。
各地で捜索隊が組まれ、トラン全土をくまなく捜索された。
だが、その行方は杳として知れず……
残されたものたちは、悲嘆にくれながら、いつしか、あきらめることを選択しなければならなかった。
なくなっていた物は
夜着が、一枚。
その日、彼が休むときに着れるように、使用人が用意したものだった。
ただ、それだけだった。
それ以外のものは、すべて、家に残されていた。
その日を境に、英雄が黄金の都に姿を見せることは、なかった。
その日、ようやく退院できたクレオは焼きたてのパンを抱えながらマクドール邸に戻ってきた。
片手で荷物を抱えながら、ドアに手を伸ばす。
ふと、その手が止まった。
開けることへの、ためらい。
恐怖。
ぐっと目を閉じ、ごくり、と喉がなった。
大きく息を吐いて、ドアノブを握る。
それは、驚くほど簡単に開いた。
「…だいじょうぶですね」
「……はい」
ついて来てくれていたリュウカンの弟子に微笑み、大きく扉を開いた。
「やっと…かえって来れました…」
クレオにとっても、失った人たちは大きすぎた。
グレミオも、パーンも、テオもいない屋敷に初めて帰った日、クレオは呼吸ができなくなり、倒れた。
クレオを病院に抱えて走ったのはほかならぬ、ユエだった。
一時的に仮設営したリュウカンとその弟子たちが率いる病院は負傷者と病人であふれていたが、血相を変えた英雄とその腕の中の女性を見て、即座に治療に当たってくれたのである。
診断は、心因性の、病気とされた。
帰らなければならないという義務感と、失ったものへの恐怖感、それらが合わさり、時期に食事もできないほどに憔悴したクレオを引き戻してくれたのは、手厚い看護と、ずっと付き合ってくれた医者と、忙しい戦後処理のさなか、何度も足を運んでくれたユエだった。
ゆっくりと治していいのだ、と。
この際だから休暇のつもりで養生してほしいと笑って何度も見舞いに来てくれた。
食べられないクレオに少しずつでも、と手ずから粥を口に運び、食べさせてくれたこともあった。
それがきっかけで食事ができるようになり、少しずつ少しずつ回復を遂げることができた。
「朝食を一緒に食べていってください」
「じゃあ、お言葉に甘えます」
もしものことがあるといけない、と一緒に来てくれた医者も笑いながら邸内に入る。
「今日は泊まっていかれるのでしょう?」
「ええ。そうしたいと思います」
いくら帰ってこられるようになった、とはいっても初めての泊まりである。
症状がぶり返さないとも限らない、と今日と明日、一緒にこの屋敷に生活することになる。
あらかじめ、リュウカンからはそう言われていた。
「いやあ…さすがマクドール邸ですねえ」
豪華だ、とつぶやきながらキョロキョロとする医者に笑って、覚悟をきめて台所に足を踏み入れた。
―――お帰りなさい
金の髪が、見えたような気がした。
「…ただいま。グレミオ」
もう、その人はいないけれど。
意外なほど、すんなりと、それを受け入れることができた。
とん、と紙袋を置く。
焼きたてのパンと、新鮮な卵と牛乳、バター。
それに真っ赤なトマト。
つぎつぎと並べて、皿を広げる。
自分の分と、ユエの分と、医者の分。
ここに住まうことになった日、自分用に用意されたのは淡いクリーム色にほのかに薄紅の模様が入った食器だった。
そして、ユエの物は、幼いころからサイズこそ変わっているものの、変わらない。
真っ白い陶器に、美しい青でラインが入り、さらに金で縁取りされた、豪華だけれどシンプルなもの。
ユエのために毎年誂えられている逸品だった。
きっと、この皿も久しぶりに使われるのだろう。
だが、使用人たちの手で食器も調理台も綺麗に磨かれている。
「…坊っちゃんを起こしてきますね」
昔はお寝坊さんだった。
テオさまが旅立たれた日にも、うっかり寝過ごした、とあわてて起きてきた。
懐かしく思いながら、階段をあがる。
ユエの部屋の扉も、オーク材でできた重厚なもので、繊細な彫刻に金で象眼した名前が刻まれている。
こんこん、とノックをする。
きっと、驚くだろう。
まだ帰って来れないと思っていたのだろうから。
そんなことを思いながらドアを開ける。
「坊っちゃん、おはようございます」
ざあっと、強い風がクレオの髪を巻き上げる。
「・・・・・・・・っ」
窓が開きっぱなしだったのか、と窓に駆け寄り、閉める。
朝日を取り入れられるように作られた大きな窓が閉まると、部屋の中にはすがすがしい朝の光が広がるだけだった。
肺に心地よい早朝の空気が部屋の中に満ちている。
「まったく…風邪を引きますよ、ぼっちゃ……」
そこには、誰もいなかった。
「……坊っちゃん…?」
クレオの声が、空々しく、響いた。
「坊っちゃん…?」
「坊っちゃん?」
いない。
「坊っちゃん」
この部屋にも。
あの部屋にも。
家中の部屋の扉を何度もあけたり閉めたりするクレオに今から医者がとびだしてきた。
「クレオさん?どうかしたんですか?」
歩き続けるクレオに追いすがりながら医者が顔を覗き込む。
「坊っちゃんが、お部屋にいなかったんです」
「え?ユエ様が?」
いない?
「いやだわ…ひょっとしたらもうお城に行かれたんでしょうか」
こんなに早いのに。
そうつぶやきながらふらり、と部屋を出た。
「クレオさんっ」
手をつかめば、振り払おうとする。
「だって、いらっしゃらないはずがないでしょう」
「クレオさん?」
「いらっしゃるんです…」
その視線が、よどみ、あたりをさまよう様子をみて、医者の顔が引き締まった。
「クレオさん…」
振り向いたクレオに、一言ずつ言い聞かせるように、ゆっくりとその言葉を告げる。
「リュウカン先生の所に伝言をお願いしてもいいですか?」
きょとん、としたクレオが首をかしげた。
「はい?」
「ひょっとしたら、お城にいらっしゃるのかもしれないので、リュウカン先生から探していただきましょう。なかなか入れませんからね」
今の段階では、新政府での正式な地位と身分証明書がなければ城には入れないようになっている。
クレオのならば直ぐにでも発行されるかもしれないし、顔を見ただけで通してもらえるかもしれないが、クレオの様子を見る限り、直接行かせるのは危険な気がした。
安心させるようににっこりと笑いかければ、クレオがちょっと笑い、頷く。
「ええ…そうですね…」
「ユエ様も少し働きすぎなのかもしれませんね」
「本当に…そうだわ…坊っちゃんってば…」
ぼんやりとした調子で言葉をつむぐクレオに危機感を募らせながら、医者はあたりを見渡した。
「クレオさんの手作りの朝食が食べられないのは至極残念ですが、ユエ様に埋め合わせしていただくとしましょう」
不遜ですがね、と笑いながら玄関へと促す医者に笑いながらついてくるクレオの手を引きながら、いまだ年若い医者は、嫌な予感に押しつぶされそうだった。
リュウカンの知らせに、すぐに、マクドール邸に人が駆けつけた。
部屋という部屋を開け放ち、名前を呼びながら、人々が屋敷中を歩き回った。
「―――グレン!」
声を上げたアレンにグレンシールはすぐさま駆け寄った。
アレンがいたのは、英雄たるその人の、部屋の前だった。
「どうした?」
誰もいないのは確認済みだろう、と言ったグレンシールに、アレンが震える指で、それらをしめした。
「どうして…この服が残っている…?」
赤い胴衣は、彼の象徴。
そして、かつて赤月帝国において、近衛隊の制服でもあった服。
その傍らには。
黒い棍が、置かれていた。
片時も放さなかった、彼の武器が。
すでに武の時代ではない、と笑いながら、彼は武器をその手から離そうとはしなかった。
そして……
グレンシールが持ち上げたものに、アレンがうずくまった。
「まさか……」
それは、手袋だった。
彼が、それをしていた理由は。
「そんな……」
テッドに買ってもらったのだ、と笑っていた。
そして、一度も、それをはずさなかった。
右手の紋章を隠すために。
「アレン」
「・・・・・・・・・・・・・」
「レパント殿に連絡を……誘拐略取でないと…言い切れないのだから」
そう言いながら、グレンシールもまた、その場に力なく、膝を突いた。
零れ落ちた涙が、柔らかいじゅうたんにしみる。
英雄を拉致するものなど、できるものなど、いない。
そして、できたとしても。
門番に見つからないはずがない。
ならば。
彼は。
出て行ったのだ。
すべてを捨てて。
目の前が、真っ暗になるようだった。
「クレオに…何といえば…」
そんなことを言わないと、その重みにつぶされてしまいそうだった。
捨てていかれたのだ。
主に。
その日から、英雄は姿を消した。
各地で捜索隊が組まれ、トラン全土をくまなく捜索された。
だが、その行方は杳として知れず……
残されたものたちは、悲嘆にくれながら、いつしか、あきらめることを選択しなければならなかった。
なくなっていた物は
夜着が、一枚。
その日、彼が休むときに着れるように、使用人が用意したものだった。
ただ、それだけだった。
それ以外のものは、すべて、家に残されていた。
その日を境に、英雄が黄金の都に姿を見せることは、なかった。