ナドラガ×主人公♀
朝目覚めた時に視界に映ったのは、ひんやりとした土壁と、天井に吊るされた竜のうろこの飾り布だった。
ここ、どこだっけ……意識がぼんやりとしたまま、寝返りを打ちながら昨日の記憶を辿る。
ええと、確か……ああ、そうだ。昨日はグランゼニス神の復活を見届けた後、トビアスへ一部始終を報告するためにエジャルナを訪れたんだった。報告や近況などをしているうちにすっかり夜になってしまって、そのままここ——エジャルナの宿屋に泊まることになったのだ。
かつてナドラガンドを旅していた頃にはよく宿泊していたけれど、最近はすっかり足が遠のいてしまった。馴染みのある部屋よりも遥かに上等な部屋に通されて、思わずニヤけた。「今日はもう遅いですし、泊まっていかれてはいかがでしょう」と提案してきたトビアスの顔を思い出したからだ。宿を手配したということ以外は何も伝えられていなかったが、おそらく気を利かせてくれたのだろう。
それにしてもトビアスもここ数日は随分と大変だったに違いない。そんな時でも決して周りへの気配りを忘れないところが、彼が慕われる所以のひとつなのだ。
そんな彼の根回しがあってか、宿で出された夕飯もとても豪勢だった。水の領界で獲れた新鮮な魚介に闇の領界のキノコを添えた包み焼き、嵐の領界で育った小麦のパン、デザートには氷の領界から取り寄せた氷菓子等々——と、以前よりも領界間の交流が盛んになったことが伺えるメニューの数々に舌鼓を打った。今度はポルテを連れて食べに来よう。きっと喜んでくれるはずだ。
久しぶりのナドラガンドでの旅に思いを馳せていると、ふと目尻に違和感を覚えた。顔に触れた指先を見ると、僅かに濡れている。涙?
ナドラガンドで出逢う人々の優しさや力強さを思うと不思議なくらいに涙が溢れるのは、きっと昨晩見た夢のせいだろう。夢で起きたことは思い出すことはできないけれど、何故だかそんな気がした。
-----
エジャルナの大神殿の1階。礼拝堂に並べられた長椅子のひとつに腰掛けているわたし以外は、誰もいないようだ。何をするでもなく、ただゆらめく青い炎を眺めていた。
すると、2階から靴をコツコツと鳴らしながら何者かが階段を降りてきた。その人はこちらに向かってきたと思えば、そのまま自分の隣まで来て立ち止まる。不審に思いながら顔を上げれば、そこには竜族の神官 エステラの姿があった。
「エステラ? ど、どうかしたの?」
「……」
何やら様子がおかしい。そこにあるのは、いつもの笑顔と柔らかく凛とした声ではない。返事の代わりに返ってきたのは、彼女らしくない鋭い眼光と、不機嫌そうにフンと鳴らした鼻の音だけだった。
温和な彼女に不釣り合いなほどに口をへの字に曲げたその表情には心当たりがあった。というのも、ちょうど今日の昼間にも同じ様子の彼女——いや、今は“彼”というべきだろうか——と対面したばかりだったからだ。
「えっ? うそ……ナドラガ神ですか?」
こちらの問いに応じるように、目の前の人物は強い光に包まれる。反射的に閉じた瞼を恐る恐る開くと、そこには竜のような容姿の神の姿があった。
「左様。我は正真正銘、空の民竜族を司る神 ナドラガである。」
そう言いながら、彼は手に持った愛用の杖でコツンと床を鳴らした。だがそれは、いにしえのフォーリオンで出会った時に見た姿ではなかった。背が伸びたのはもちろんのこと、黒々としたツノも伸び一段と威厳が増したように思える。琥珀色の瞳も、以前にも増して鋭くなった。記憶の中の彼よりも全体的に大人びた容貌に、思わず言葉を失ってしまった。
ふと、かつて彼が邪に堕ちた時の姿が脳裏をよぎった。醜く太ったあの容姿は魔瘴を取り込んで変わり果てた姿だと聞いていたが、おそらくは目の前にいるこちらが本来の姿だったのだろう。
そんなことを考えながらポカンとしていると、ナドラガは口角を上げ得意げに言った。
「どうした、驚いたか? 無理もない、我の勇ましく美しい姿に身惚れたであろう?」
「あっはい、驚きはしましたけど……」
その一瞬、ナドラガがパッと目を輝かせたのを見逃さなかった。しかし問題はその後。
「でも別に見惚れてはないです」
どうやらその反応が不服だったようで、再び口をへの字に曲げてしまった。機嫌を損ねてしまったようだが、あいにく咄嗟に思ってもないお世辞が言えるたちではない。
「そ、それにしても、こんなところで会うなんて。珍しいことがあるもんですね。隣、座ります?」
長椅子をポンポンと叩き、どうぞ!と付け加えてみる。隣に座るのを促すわたしを見て、彼は呆れたと言わんばかりに大袈裟にため息をついて、杖をまたコツンと鳴らした。
「貴様はフォーリオンで出会った頃から全く変わらんな。特にその不遜な態度は相変わらずだ」
そう言いつつ、彼は隣に腰掛けた。何だかんだで優しいところはそっちだって相変わらずじゃん、と思わずニヤけてしまう。
「ふふふ、あなたにとってはもう何万年も前のことなのに。覚えていてくれたんですね。嬉しいです」
「……ああ、そうだな」
その一瞬、ナドラガの表情が曇ったように見えた。気のせいだろうか?
「そうだ、昼間はありがとうございました」
「やれやれ。ようやく安らかな眠りについた神を叩き起こすなど、全く貴様らは不敬な真似をしてくれたものだ」
さかのぼること数時間前。トビアスが指揮するナドラガンド協団の尽力の甲斐あって、紆余曲折ありながらもナドラガ神降臨の儀式を執り行うことができた。そして、神の器であるエステラに下ろされたナドラガ神の協力のもと、その体内に残された断罪の剣の欠片を取り出すことに成功したのだった。
「そういえば、お腹は平気なんですか?痛みは?」
「フン。誉高きこのナドラガ神を舐めてもらっては困るな。当然、痛くも痒くもないぞ」
そう言って彼は自分の腹をさすった。剣の欠片が体内に残っていて、あまつさえそれを取り除くだなんて……いかにも痛そうな話なのに、神様の身体って摩訶不思議だなぁなどと考えたのを知ってか知らずか、ナドラガは「まあ、我ら神というものは貴様たちのような実体があってないような存在だからな」と付け加えた。
「ナドラガ様、もう一ついいですか?あの時は時間が限られていたので仕方ないってことは分かってるんです。分かってはいるんですけど、えーっと……」
「何だ、急にモジモジと。貴様らしくもない」
「あの時、わたしにも何か一言くらい声をかけてくれるとか、あってもよかったんじゃないかなぁ〜なんて……」
「フン、そんなことか。貴様の言う通り時間が限られていたし、それに我は——」
「……?」
ナドラガは言葉を詰まらせたと思えば、また先ほどと同じように表情を曇らせた。何か言いづらいことでもあるのだろうか。しかし、問い詰める前に話題を変えられてしまった。
「と、ところで、貴様は今どんな旅をしているんだ?」
そこからわたしは、ルティアナの故郷であるゼニアスを救う旅をしている最中に竜族の協力が必要となったことや、ナドラガ神の神の器であるエステラの創失、闇の領界で起きたことなどを話した。
ナドラガはというと、時には質問をしたりして、興味深く聞き入っている様子だった。
「うむ。我の子らは、逞しく生きているのだな」
「そりゃあもちろん。親は無くとも子は育つ、と言いますしね」
「なんだ、皮肉のつもりか?」
「ふふ、どうでしょう」
不敵に笑うと、苦虫を噛み潰したような表情でこちらを睨みつけてきた。まずい、どうやらまだ全然触れてはいけないところだったらしい。
「フン、まあ良い。他に——他に何か面白い話は無いのか?」
「えっ面白い話ですか?そんな急に言われても……」
「フンッ!どうした?神を皮肉るような奴には思いつく話もないか?」
しまった、不貞腐れてる! これは随分と根に持たれそうだ……そう思いながら、どうにかこの偏屈な神がお気に召しそうな話題を探し当てた。
「そ、そうだ!ありました、面白い話!」
「ふむ、まあ聞いてやろうではないか」
「現代のフォーリオンにはね、フォーリオン造成地って場所があるんです。何でも、神都を遷せるように開発された土地らしいですよ。まあその話も、もうずっと昔に白紙になったみたいですけど」
「ほう、我がフォーリオンにいた頃には無かった土地だな」
「ええ。それもそのはず、そこはかつてナドラガンドの一部だった土地なんです!」
「ほう……なるほどな。面白い、続けろ」
よしよし、興味を示してくれてるぞ。嬉しくなって、自然と声も弾んでしまう。
「そこにある木々は薄紅色の花を咲かせていて、とても素敵な場所なんですよ! でも、もしかしたらその辺りはあなたの方が詳しいのかもですが」
「ああ、そうだ。懐かしいな……かつてのナドラガンドも、様々な草花が芽吹く緑の多い土地だった。ここだけの話、あの薄紅色の花を咲かせる木は、エルトナがたいそう羨ましがったものだ。」
「あっ!エルドナ大陸でも同じ花を咲かせる木を見かけたことがありますけど、もしかして?」
「ご明察。あまりにしつこいものだから、我が直々にエルトナに苗木をいくつか譲ってやったのだ! まさか、今でもエルドナ大陸ではあの景色が見られるとは我も驚いたがな」
ナドラガにとって、よほど喜ばしい思い出なのだろう。こんなに声を弾ませて語る姿は見たことがない。それにしても、カミハルムイの考古学者が聞いたら泡を吹いて倒れそうな逸話だ……。
「すごい。そんなことがあったなんて……」
「そうか、貴様が訪れた頃はまだ荒野だったからな。あれからナドラガンドは、本当に美しい大陸に成長したのだ。今はすっかり変わり果ててしまったがな……」
そう言いながら彼は、遠くを見つめた。その瞳に、ここではないどこかを映し出しているような眼差しで。
「ねぇ、ナドラガ神」
どこかに消えてしまいそうなその横顔を見るのが苦しくて、引き留めるように彼の名を呼んだ。
「今のナドラガンドだって、良い場所ですよ?」
慰めなどではない。これは本当に心からの言葉だ。こちらを向いたナドラガは一瞬困ったような顔をして、すぐにいつもの調子で鼻を鳴らした。
「フン、誰が今は違うと言った?」
「あ、あれ?てっきり不満だったりするのかと……」
「まあ、かつての景色が失われた経緯については、我の落ち度であると今は素直に認めざるを得ないが——それでも現代に生きる我が子たちは、親の手を離れて逞しく生きている。そんなナドラガンドが嫌いな訳があると思うか?」
「あ、そっか。そうですよね。だってあなたはいつでも竜族たちを……」
「ああ。竜族たちを、我が子たちを……愛しているに決まっている」
そう言いながら、ナドラガは穏やかな顔で笑う。
ああ、この神様はこんな風にも笑うんだ。わたしはいつの間にか目に溜められた雫がこぼれ落ちないように、唇を固く結ぶことしかできなかった。
ナドラガがそれに気づいたのかは分からないが、彼も再び視線を正面に向けた。
「まあ、なんだ。認めるのは癪だが」
「貴様の言った通り、親が無くとも子は育つのかもしれん」
-----
しばしの沈黙の後、先にその静寂を破ったのはナドラガだった。
「最後に、貴様には話さねばならぬことがある」
「えっ最後って——」
嫌な予感と微かな違和感があり、ナドラガを凝視する。先ほどまで全く気が付かなかったが、ナドラガの身体が徐々に透け、足元はほぼ消えて床が見えている。待ってください、とわたしが声をかけるより先に、ナドラガが口を開いた。
「元より……今ここにいる我は、昼間の儀式の折にわずかに残った思念が生んだ幻影のようなものだ。長居は出来まい」
「そんな……でも、どうして?どうして竜族の誰かじゃなくて、わたしに会いに来てくれたんですか?」
ナドラガは、琥珀色の瞳でじっとこちらを見つめている。
「今から我が話すことは、一度きりしか言わぬ。しかと聞くがよい」
そう言いながら、ゴホンと大袈裟に咳払いをした。妙にソワソワとしている様子だが、最後にはこちらの目をしっかりと見据え、深呼吸した後にゆっくりと口を開いた。
「――貴様は、我の友だ。」
思いがけない言葉に、思わず呆気に取られてしまう。この神様は今、わたしを“友”と呼んだ?
「えっ? ああ、すみません、もう一度言ってもらえます?」
「ええい馬鹿者! 一度しか言わぬと言ったばかりであろう!」
「えへへ、うそうそ。聞こえてましたよ、ちゃんと」
冗談めかしく言えば、いつものように口をへの字に曲げて怒るかと思っていた。でも、返ってきたのは思いがけぬ反応だった。
「全く貴様は本当に……いや、友"だった"と言うべきかも知れぬ。何せ、その友を私欲の為に殺したのも、他ならぬ我自身なのだから」
微笑んでいるようにも泣いているようにも見える表情で、彼はその視線を逸らすことなくわたしを見つめ続けた。
「そうか、だから。あなたは、あの時のことをずっと気に病んでいたんですね」
先ほどから時折、ナドラガがわたしを見て悲しい表情をする理由がやっと分かった。
かつて彼の身体は切り離され、その一片が自我を持った存在――総主教オルストフはわたしを殺した。わたしの死を、神の器たちの力を呼び覚ます糸口として利用したのだ。
友人たちが決死の覚悟でこの命を繋ぎ留めていなかったら、わたしは今ここにはいないだろう。あの時の傷は回復魔法で完全には治癒できずに痛々しい傷跡として残っているし、最近ようやく減ってはきたものの、オルストフに身体を貫かれた時の光景が夢に出てきてうなされることも少なくはなかった。でも。
「でも、それとこれとは別じゃないですか」
「別な訳があるものか。邪神と化していた頃は、理性も過去の記憶も全て黒く塗りつぶされてしまっていた。しかし、昼間貴様の顔を見た時。我は、我の過ちの全てを悟ったのだ」
ナドラガは自身の手をまじまじと見つめた。
「かつて友と認めた相手を、直接ではなくともこの手にかけたことなど……出来れば知りたくはなかった」
「そんな……それを言うなら最終的にあなたを真っ二つにしちゃったのはわたしですし……だから、おあいこじゃないですか?」
「フン、何がおあいこだ。本当に生温いな、貴様は」
「でも、良かった。さっきの話を聞くに、真っ二つにしたときもきっと痛くはなかったんですよね?」
「……自尊心は十分に痛めつけられたがな」
「ふふ、それは何より」
「貴様の方こそ、辛い思いをさせてしまったな」
「な、なんですか急にしおらしくなっちゃって……でも、辛い思いをさせてしまったのは、姉や幼馴染、友人たちの方ですから」
「ふっ、貴様はいつも自分よりも他人のことばかりだな」
「違いますよ。いつだって、わたしはわたしの気の向くまま動いてしまうから。あの時だって、たくさん迷惑をかけました。わたしがちゃんと幼馴染の忠告を聞かなかったせいで、結局オルストフに殺された。それだけです」
「貴様のそういう性分も、悪いことばかりではないと思うが。そんな貴様だからこそ、レクタリスも心を開いたのだからな」
「レクタリスと、もちろんあなたも、ですよね?」
ニッと笑うと、ナドラガは耳を真っ赤にして顔を背けた。
「悪くないって言ってくれるなら、わたしは遠慮なく気の向くままに言わせていただきますけど」
今度はわたしから。本来であれば、憎むべき相手なのかもしれない。だけど、あなたの言う通り、気の向くまま心の底から願うのは、こんな気持ちだ。
「ナドラガ神。これからもずっと、わたしの友だちでいてください」
「貴様を殺した我を、まだ友と呼ぶのか?」
「悪いですか?」
「いや……しかしそうだな、改めて詫びよう。その節は本当にすまなかった——そして我が友よ、感謝する」
「……! はい。また、会えますよね?」
「何だ、もう会う必要も無かろう。今はもう、貴様たちひとの子の時代だ」
「そう、ですよね……」
「だ、だが、そうだな。こうやって貴様の夢の中くらいなら、会いに来てやらんでもない」
「本当ですか!? やったあ!」
そう言いながら、友だちにするように気安く肩に手を回してみた。ナドラガはそれが気に食わなかったらしく、手を払い除けて睨みつけてくる。
「全く。再び相見えた際は、貴様のこの態度が少しでも改まっていることを願うばかりだ」
「えー良いじゃないですか! わたしたち、友だちなんですから!」
ナドラガはやれやれとため息をつくと、もうほとんど消えかかった姿で言った。
「——では、さらばだ。また会おう、不遜で気ままな我が友よ」
「ええ、また。約束ですよ?」
「……ああ」
返事が聞こえた方向にいくら目を凝らしても、もうナドラガの姿を視認することはできない。
「次は……次は! 一緒にナドラガンドを歩きましょうね!!」
——この声が、彼に届いたかはもう知る由もない。
そのひどく曖昧な約束が果たされるかはもはや誰にも分からない。ただせめて、この確かな友情がどこまでも続いていくことを、願ってやまなかった。
ここ、どこだっけ……意識がぼんやりとしたまま、寝返りを打ちながら昨日の記憶を辿る。
ええと、確か……ああ、そうだ。昨日はグランゼニス神の復活を見届けた後、トビアスへ一部始終を報告するためにエジャルナを訪れたんだった。報告や近況などをしているうちにすっかり夜になってしまって、そのままここ——エジャルナの宿屋に泊まることになったのだ。
かつてナドラガンドを旅していた頃にはよく宿泊していたけれど、最近はすっかり足が遠のいてしまった。馴染みのある部屋よりも遥かに上等な部屋に通されて、思わずニヤけた。「今日はもう遅いですし、泊まっていかれてはいかがでしょう」と提案してきたトビアスの顔を思い出したからだ。宿を手配したということ以外は何も伝えられていなかったが、おそらく気を利かせてくれたのだろう。
それにしてもトビアスもここ数日は随分と大変だったに違いない。そんな時でも決して周りへの気配りを忘れないところが、彼が慕われる所以のひとつなのだ。
そんな彼の根回しがあってか、宿で出された夕飯もとても豪勢だった。水の領界で獲れた新鮮な魚介に闇の領界のキノコを添えた包み焼き、嵐の領界で育った小麦のパン、デザートには氷の領界から取り寄せた氷菓子等々——と、以前よりも領界間の交流が盛んになったことが伺えるメニューの数々に舌鼓を打った。今度はポルテを連れて食べに来よう。きっと喜んでくれるはずだ。
久しぶりのナドラガンドでの旅に思いを馳せていると、ふと目尻に違和感を覚えた。顔に触れた指先を見ると、僅かに濡れている。涙?
ナドラガンドで出逢う人々の優しさや力強さを思うと不思議なくらいに涙が溢れるのは、きっと昨晩見た夢のせいだろう。夢で起きたことは思い出すことはできないけれど、何故だかそんな気がした。
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エジャルナの大神殿の1階。礼拝堂に並べられた長椅子のひとつに腰掛けているわたし以外は、誰もいないようだ。何をするでもなく、ただゆらめく青い炎を眺めていた。
すると、2階から靴をコツコツと鳴らしながら何者かが階段を降りてきた。その人はこちらに向かってきたと思えば、そのまま自分の隣まで来て立ち止まる。不審に思いながら顔を上げれば、そこには竜族の神官 エステラの姿があった。
「エステラ? ど、どうかしたの?」
「……」
何やら様子がおかしい。そこにあるのは、いつもの笑顔と柔らかく凛とした声ではない。返事の代わりに返ってきたのは、彼女らしくない鋭い眼光と、不機嫌そうにフンと鳴らした鼻の音だけだった。
温和な彼女に不釣り合いなほどに口をへの字に曲げたその表情には心当たりがあった。というのも、ちょうど今日の昼間にも同じ様子の彼女——いや、今は“彼”というべきだろうか——と対面したばかりだったからだ。
「えっ? うそ……ナドラガ神ですか?」
こちらの問いに応じるように、目の前の人物は強い光に包まれる。反射的に閉じた瞼を恐る恐る開くと、そこには竜のような容姿の神の姿があった。
「左様。我は正真正銘、空の民竜族を司る神 ナドラガである。」
そう言いながら、彼は手に持った愛用の杖でコツンと床を鳴らした。だがそれは、いにしえのフォーリオンで出会った時に見た姿ではなかった。背が伸びたのはもちろんのこと、黒々としたツノも伸び一段と威厳が増したように思える。琥珀色の瞳も、以前にも増して鋭くなった。記憶の中の彼よりも全体的に大人びた容貌に、思わず言葉を失ってしまった。
ふと、かつて彼が邪に堕ちた時の姿が脳裏をよぎった。醜く太ったあの容姿は魔瘴を取り込んで変わり果てた姿だと聞いていたが、おそらくは目の前にいるこちらが本来の姿だったのだろう。
そんなことを考えながらポカンとしていると、ナドラガは口角を上げ得意げに言った。
「どうした、驚いたか? 無理もない、我の勇ましく美しい姿に身惚れたであろう?」
「あっはい、驚きはしましたけど……」
その一瞬、ナドラガがパッと目を輝かせたのを見逃さなかった。しかし問題はその後。
「でも別に見惚れてはないです」
どうやらその反応が不服だったようで、再び口をへの字に曲げてしまった。機嫌を損ねてしまったようだが、あいにく咄嗟に思ってもないお世辞が言えるたちではない。
「そ、それにしても、こんなところで会うなんて。珍しいことがあるもんですね。隣、座ります?」
長椅子をポンポンと叩き、どうぞ!と付け加えてみる。隣に座るのを促すわたしを見て、彼は呆れたと言わんばかりに大袈裟にため息をついて、杖をまたコツンと鳴らした。
「貴様はフォーリオンで出会った頃から全く変わらんな。特にその不遜な態度は相変わらずだ」
そう言いつつ、彼は隣に腰掛けた。何だかんだで優しいところはそっちだって相変わらずじゃん、と思わずニヤけてしまう。
「ふふふ、あなたにとってはもう何万年も前のことなのに。覚えていてくれたんですね。嬉しいです」
「……ああ、そうだな」
その一瞬、ナドラガの表情が曇ったように見えた。気のせいだろうか?
「そうだ、昼間はありがとうございました」
「やれやれ。ようやく安らかな眠りについた神を叩き起こすなど、全く貴様らは不敬な真似をしてくれたものだ」
さかのぼること数時間前。トビアスが指揮するナドラガンド協団の尽力の甲斐あって、紆余曲折ありながらもナドラガ神降臨の儀式を執り行うことができた。そして、神の器であるエステラに下ろされたナドラガ神の協力のもと、その体内に残された断罪の剣の欠片を取り出すことに成功したのだった。
「そういえば、お腹は平気なんですか?痛みは?」
「フン。誉高きこのナドラガ神を舐めてもらっては困るな。当然、痛くも痒くもないぞ」
そう言って彼は自分の腹をさすった。剣の欠片が体内に残っていて、あまつさえそれを取り除くだなんて……いかにも痛そうな話なのに、神様の身体って摩訶不思議だなぁなどと考えたのを知ってか知らずか、ナドラガは「まあ、我ら神というものは貴様たちのような実体があってないような存在だからな」と付け加えた。
「ナドラガ様、もう一ついいですか?あの時は時間が限られていたので仕方ないってことは分かってるんです。分かってはいるんですけど、えーっと……」
「何だ、急にモジモジと。貴様らしくもない」
「あの時、わたしにも何か一言くらい声をかけてくれるとか、あってもよかったんじゃないかなぁ〜なんて……」
「フン、そんなことか。貴様の言う通り時間が限られていたし、それに我は——」
「……?」
ナドラガは言葉を詰まらせたと思えば、また先ほどと同じように表情を曇らせた。何か言いづらいことでもあるのだろうか。しかし、問い詰める前に話題を変えられてしまった。
「と、ところで、貴様は今どんな旅をしているんだ?」
そこからわたしは、ルティアナの故郷であるゼニアスを救う旅をしている最中に竜族の協力が必要となったことや、ナドラガ神の神の器であるエステラの創失、闇の領界で起きたことなどを話した。
ナドラガはというと、時には質問をしたりして、興味深く聞き入っている様子だった。
「うむ。我の子らは、逞しく生きているのだな」
「そりゃあもちろん。親は無くとも子は育つ、と言いますしね」
「なんだ、皮肉のつもりか?」
「ふふ、どうでしょう」
不敵に笑うと、苦虫を噛み潰したような表情でこちらを睨みつけてきた。まずい、どうやらまだ全然触れてはいけないところだったらしい。
「フン、まあ良い。他に——他に何か面白い話は無いのか?」
「えっ面白い話ですか?そんな急に言われても……」
「フンッ!どうした?神を皮肉るような奴には思いつく話もないか?」
しまった、不貞腐れてる! これは随分と根に持たれそうだ……そう思いながら、どうにかこの偏屈な神がお気に召しそうな話題を探し当てた。
「そ、そうだ!ありました、面白い話!」
「ふむ、まあ聞いてやろうではないか」
「現代のフォーリオンにはね、フォーリオン造成地って場所があるんです。何でも、神都を遷せるように開発された土地らしいですよ。まあその話も、もうずっと昔に白紙になったみたいですけど」
「ほう、我がフォーリオンにいた頃には無かった土地だな」
「ええ。それもそのはず、そこはかつてナドラガンドの一部だった土地なんです!」
「ほう……なるほどな。面白い、続けろ」
よしよし、興味を示してくれてるぞ。嬉しくなって、自然と声も弾んでしまう。
「そこにある木々は薄紅色の花を咲かせていて、とても素敵な場所なんですよ! でも、もしかしたらその辺りはあなたの方が詳しいのかもですが」
「ああ、そうだ。懐かしいな……かつてのナドラガンドも、様々な草花が芽吹く緑の多い土地だった。ここだけの話、あの薄紅色の花を咲かせる木は、エルトナがたいそう羨ましがったものだ。」
「あっ!エルドナ大陸でも同じ花を咲かせる木を見かけたことがありますけど、もしかして?」
「ご明察。あまりにしつこいものだから、我が直々にエルトナに苗木をいくつか譲ってやったのだ! まさか、今でもエルドナ大陸ではあの景色が見られるとは我も驚いたがな」
ナドラガにとって、よほど喜ばしい思い出なのだろう。こんなに声を弾ませて語る姿は見たことがない。それにしても、カミハルムイの考古学者が聞いたら泡を吹いて倒れそうな逸話だ……。
「すごい。そんなことがあったなんて……」
「そうか、貴様が訪れた頃はまだ荒野だったからな。あれからナドラガンドは、本当に美しい大陸に成長したのだ。今はすっかり変わり果ててしまったがな……」
そう言いながら彼は、遠くを見つめた。その瞳に、ここではないどこかを映し出しているような眼差しで。
「ねぇ、ナドラガ神」
どこかに消えてしまいそうなその横顔を見るのが苦しくて、引き留めるように彼の名を呼んだ。
「今のナドラガンドだって、良い場所ですよ?」
慰めなどではない。これは本当に心からの言葉だ。こちらを向いたナドラガは一瞬困ったような顔をして、すぐにいつもの調子で鼻を鳴らした。
「フン、誰が今は違うと言った?」
「あ、あれ?てっきり不満だったりするのかと……」
「まあ、かつての景色が失われた経緯については、我の落ち度であると今は素直に認めざるを得ないが——それでも現代に生きる我が子たちは、親の手を離れて逞しく生きている。そんなナドラガンドが嫌いな訳があると思うか?」
「あ、そっか。そうですよね。だってあなたはいつでも竜族たちを……」
「ああ。竜族たちを、我が子たちを……愛しているに決まっている」
そう言いながら、ナドラガは穏やかな顔で笑う。
ああ、この神様はこんな風にも笑うんだ。わたしはいつの間にか目に溜められた雫がこぼれ落ちないように、唇を固く結ぶことしかできなかった。
ナドラガがそれに気づいたのかは分からないが、彼も再び視線を正面に向けた。
「まあ、なんだ。認めるのは癪だが」
「貴様の言った通り、親が無くとも子は育つのかもしれん」
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しばしの沈黙の後、先にその静寂を破ったのはナドラガだった。
「最後に、貴様には話さねばならぬことがある」
「えっ最後って——」
嫌な予感と微かな違和感があり、ナドラガを凝視する。先ほどまで全く気が付かなかったが、ナドラガの身体が徐々に透け、足元はほぼ消えて床が見えている。待ってください、とわたしが声をかけるより先に、ナドラガが口を開いた。
「元より……今ここにいる我は、昼間の儀式の折にわずかに残った思念が生んだ幻影のようなものだ。長居は出来まい」
「そんな……でも、どうして?どうして竜族の誰かじゃなくて、わたしに会いに来てくれたんですか?」
ナドラガは、琥珀色の瞳でじっとこちらを見つめている。
「今から我が話すことは、一度きりしか言わぬ。しかと聞くがよい」
そう言いながら、ゴホンと大袈裟に咳払いをした。妙にソワソワとしている様子だが、最後にはこちらの目をしっかりと見据え、深呼吸した後にゆっくりと口を開いた。
「――貴様は、我の友だ。」
思いがけない言葉に、思わず呆気に取られてしまう。この神様は今、わたしを“友”と呼んだ?
「えっ? ああ、すみません、もう一度言ってもらえます?」
「ええい馬鹿者! 一度しか言わぬと言ったばかりであろう!」
「えへへ、うそうそ。聞こえてましたよ、ちゃんと」
冗談めかしく言えば、いつものように口をへの字に曲げて怒るかと思っていた。でも、返ってきたのは思いがけぬ反応だった。
「全く貴様は本当に……いや、友"だった"と言うべきかも知れぬ。何せ、その友を私欲の為に殺したのも、他ならぬ我自身なのだから」
微笑んでいるようにも泣いているようにも見える表情で、彼はその視線を逸らすことなくわたしを見つめ続けた。
「そうか、だから。あなたは、あの時のことをずっと気に病んでいたんですね」
先ほどから時折、ナドラガがわたしを見て悲しい表情をする理由がやっと分かった。
かつて彼の身体は切り離され、その一片が自我を持った存在――総主教オルストフはわたしを殺した。わたしの死を、神の器たちの力を呼び覚ます糸口として利用したのだ。
友人たちが決死の覚悟でこの命を繋ぎ留めていなかったら、わたしは今ここにはいないだろう。あの時の傷は回復魔法で完全には治癒できずに痛々しい傷跡として残っているし、最近ようやく減ってはきたものの、オルストフに身体を貫かれた時の光景が夢に出てきてうなされることも少なくはなかった。でも。
「でも、それとこれとは別じゃないですか」
「別な訳があるものか。邪神と化していた頃は、理性も過去の記憶も全て黒く塗りつぶされてしまっていた。しかし、昼間貴様の顔を見た時。我は、我の過ちの全てを悟ったのだ」
ナドラガは自身の手をまじまじと見つめた。
「かつて友と認めた相手を、直接ではなくともこの手にかけたことなど……出来れば知りたくはなかった」
「そんな……それを言うなら最終的にあなたを真っ二つにしちゃったのはわたしですし……だから、おあいこじゃないですか?」
「フン、何がおあいこだ。本当に生温いな、貴様は」
「でも、良かった。さっきの話を聞くに、真っ二つにしたときもきっと痛くはなかったんですよね?」
「……自尊心は十分に痛めつけられたがな」
「ふふ、それは何より」
「貴様の方こそ、辛い思いをさせてしまったな」
「な、なんですか急にしおらしくなっちゃって……でも、辛い思いをさせてしまったのは、姉や幼馴染、友人たちの方ですから」
「ふっ、貴様はいつも自分よりも他人のことばかりだな」
「違いますよ。いつだって、わたしはわたしの気の向くまま動いてしまうから。あの時だって、たくさん迷惑をかけました。わたしがちゃんと幼馴染の忠告を聞かなかったせいで、結局オルストフに殺された。それだけです」
「貴様のそういう性分も、悪いことばかりではないと思うが。そんな貴様だからこそ、レクタリスも心を開いたのだからな」
「レクタリスと、もちろんあなたも、ですよね?」
ニッと笑うと、ナドラガは耳を真っ赤にして顔を背けた。
「悪くないって言ってくれるなら、わたしは遠慮なく気の向くままに言わせていただきますけど」
今度はわたしから。本来であれば、憎むべき相手なのかもしれない。だけど、あなたの言う通り、気の向くまま心の底から願うのは、こんな気持ちだ。
「ナドラガ神。これからもずっと、わたしの友だちでいてください」
「貴様を殺した我を、まだ友と呼ぶのか?」
「悪いですか?」
「いや……しかしそうだな、改めて詫びよう。その節は本当にすまなかった——そして我が友よ、感謝する」
「……! はい。また、会えますよね?」
「何だ、もう会う必要も無かろう。今はもう、貴様たちひとの子の時代だ」
「そう、ですよね……」
「だ、だが、そうだな。こうやって貴様の夢の中くらいなら、会いに来てやらんでもない」
「本当ですか!? やったあ!」
そう言いながら、友だちにするように気安く肩に手を回してみた。ナドラガはそれが気に食わなかったらしく、手を払い除けて睨みつけてくる。
「全く。再び相見えた際は、貴様のこの態度が少しでも改まっていることを願うばかりだ」
「えー良いじゃないですか! わたしたち、友だちなんですから!」
ナドラガはやれやれとため息をつくと、もうほとんど消えかかった姿で言った。
「——では、さらばだ。また会おう、不遜で気ままな我が友よ」
「ええ、また。約束ですよ?」
「……ああ」
返事が聞こえた方向にいくら目を凝らしても、もうナドラガの姿を視認することはできない。
「次は……次は! 一緒にナドラガンドを歩きましょうね!!」
——この声が、彼に届いたかはもう知る由もない。
そのひどく曖昧な約束が果たされるかはもはや誰にも分からない。ただせめて、この確かな友情がどこまでも続いていくことを、願ってやまなかった。
