その他
「久しぶりだな、大魔王」
雲ひとつない晴れの日。とある村の片隅には、よく手入れされた小さな墓標があった。
その正面に座る男は、墓標の下に眠る者の生前と変わらぬ調子で語りかけた。
後ろでひとまとめにした髪は、燃えるような赤。そしてその頭上には二本の黒い角。この魔族の男——ユシュカは、かつてかの大魔王と共に世界を救った。
「どうだ、俺にも貫禄が出てきただろう?」
自慢の顎髭を撫でながら得意そうに笑う目尻には、あの頃には無かった皺が深く刻まれている。それでもなお、かつてと変わらぬ少年のような笑顔がそこにあった。
ユシュカが忠義を誓った大魔王がこの世を去ったのは、今からもう何百年も前のことだ。その際、故郷であるエテーネ村を見渡せる小高い丘に建てられたのが、この墓標だ。
"大魔王"という大層な肩書きには似つかわしくないほど、こぢんまりとした姿でそれは佇んでいる。もし自分の墓標を建てるなら極力控えめに、というのが大魔王本人からの希望だそうだ。全く変なところで謙虚な大魔王様だ、と当時のユシュカは思ったものだ。
本人の意向を無視して、偉大な大魔王様に相応しい立派な墓標……いや、いっそのこと豪華絢爛な塔でも建てて壮大に弔ってやろうかと考えたこともあった。しかし、その企みはとうとうユシュカの妄想の範囲の外に出ることはなかった。
「ま、こっちの方がお前らしいよな」
それに応えるかのように心地の良い風が吹いて、供えられた花が揺れた。墓標は常に綺麗に手入れされ、いつ訪れても真新しい花が供えられている。
それだけではない。いつからなのか、誰が始めたことなのかすら、今となっては誰にも分からないが、墓標の周りにはたくさんの花が植えられている。まるで小さな花畑のように。唯一土肌が見えていた通路と墓前すら、気がつけば石畳が敷かれていた。
色鮮やかな花畑や丁寧に敷かれた石畳は一見、小さな墓標には不釣り合いに思える。そんな少し滑稽な風景を、ユシュカは気に入っていた。
かつて訳も分からぬまま魔界の混乱の渦中に呑まれ、あれよあれよと魔界に君臨する大魔王へと祭り上げられた故人を表しているようで。
大魔王は魔界を救った後も、息つく間もなく様々な地に旅立っていった。そして数多の困難を乗り越え、各地を窮地から救った。
そんな大魔王もたまの休息の折には、ユシュカの治める国――ファラザードに降り立ち、旅の中で起きたことを語ってくれた。大魔王との旅を終えて刺激の無い生活に飽き飽きしていたユシュカにとって、その時間は特別だった。
大魔王が近日中に来訪するとの一報が入れば、ユシュカは頭が痛くなるような厄介な執務でも迅速にこなすことができた。
そんな時、決まって副官のお小言が始まる。「はぁ、全く。普段からこうであれば大変有り難いのですが……」といった調子で。そんなやりとりはいつしか恒例になっていた。けれど、大魔王の土産話が待っていると思えば、ユシュカは全く苦にならなかった。なぜならこの副官——ナジーンも当然ながら、大魔王の来訪を心待ちにしているうちのひとりだったからだ。
それ故、かの御仁が登場すればこちらのもの。その後の細かいことは全て有耶無耶にできることを、ユシュカは知っていたのだ。
そんな具合で、天使たちが住まう天上都市での英雄たちとの出会いや、荒廃した異界に調査に赴いたことなど、様々な旅の話を聞いた。
我らが大魔王は、毎度毎度面倒ごとに巻き込まれ、あるいは自ら首を突っ込んでは人々を救っていく。そういった巻き込まれ体質なところや、相変わらずの底抜けのお人好しぶりが、ユシュカは可笑しくてたまらなかった。「お前は人が良すぎるんだ」と言えば、「だって、放っておけないじゃん」と大魔王がはにかむのがお決まりの流れだった。
今でもそんなことを昨日の話のように思い出しては、もう新しい冒険の話を聞くことができないことをまざまざと思い知らされる。何百年経っても褪せることのない微かな寂しさが、ユシュカの胸を締め付けた。
「なぁ、俺はいまだに考えるんだ。お前は今も長い旅を続けていて、そしていつかまた、ひょっこりファラザードに顔を出すんじゃないかとな」
そんな子ども騙しの空事を口にして、ユシュカは僅かに微笑み——けれどすぐに後悔した。永い時間をかけても完治しない傷が何度目かに開いて、またじくじくと痛み出すだけだった。
暖かな空想をした後に思い出すのはいつだって、覆りようのない現実のことだ。ユシュカを始め、ゆかりのある者たちが大魔王を看取った日。アイツが死んだのも、こんな雲ひとつない晴れた日だったか——ユシュカは大魔王の最期の日を久しぶりに思い返しながら、そっと目を伏せた。
きょうだいと育った家の寝室、質素なベッドに眠る大魔王は、大勢の仲間たちに看取られ、最期は眠るように逝った。アストルティアの民はもちろん、魔族や竜族、そして天使や、異世界から来たという者たちも、かの者の死を悼んだ。
「あれからどれほど経ったんだろうな……」
——魔族が感じる一瞬とは、アストルティアの民の一生である——名前も知らない誰かの言葉だ。そのような表現がされるほどの時間の感覚のズレを、ユシュカや他の魔族たちは理解しようと努めた。
とはいえ、アストルティアには魔族へ負の感情を持つ者もいて然るべきと覚悟していた。根気強く対話を続けていくしかないと思っていたユシュカだったが、アストルティアの民の価値観が変わり、魔族を温かく迎え入れてくれるようになるまでは本当に一瞬だった。
そんな彼らを見て、ユシュカを含む三魔王も、魔族の意識改革に意欲的に取り組んだ。魔界とアストルティアの架け橋となった、かの大魔王の遺志は、確かに受け継がれていた。
そんな、目まぐるしく変わるアストルティアの中でも変わらない村がある。
「だが、この村はお前がいた頃と何も変わらないな」
木々に覆われたこの小さな村は、大魔王とも呼ばれたかの偉大な村長の存命の頃のまま、まるで時が止まっているかのようだった。彼はこの地を訪れるたび、そんな風景に密かに安堵するのだった。そしてそんな時、決まって大魔王と二人で焚き火を囲んだ日のことを反芻した。
あの日、大魔王はユシュカに、自らが歩んできた冒険の旅の全てを語り聞かせた。世界を救うという責務を背負った旅——それが血の契約によって、ユシュカとこうして交わった。
そんな奇妙な運命から始まった、二人の辛くも楽しい冒険の旅。それは間違いなく、ユシュカの人生の中で最も輝かしい記憶となった。今でもファラザードの酒場で出会った者たちに、夜な夜な語り聞かせているほどだ。
ファラザードの酒場といえば、大魔王とユシュカが酒を交わしたことが一度だけあった——大魔王が下戸だと分かったのは、顔を真っ赤にして爆睡したのを見た後だった。その翌日、ユシュカの前に現れたのは、カンカンに怒った魔仙卿だった。知らなかったという言い訳は通用しなかった——ユシュカはしばらくの間、大魔王城の出禁を命ぜられた……苦い記憶だ。
それ以降、大魔王のグラスは酒ではなく果実水や茶で満たされるようになった。そして、とうとう最期まで大魔王と酒を交わすことはなかった。
「ひょっとして、あの世だったらお前も酒が呑めたりするのか?」
ユシュカは目を閉じて、大魔王のそんな姿を思い浮かべてみる。まぶたに映し出された大魔王は、いつもと変わらぬ笑みを湛えていた。
「あの世で会ったらまた、たーんまりとお前の話を聞かせてもらうぞ」
その時は、良い酒を持って行くからな。ユシュカが微笑みながら、墓標を撫でた。
やわらかな風が吹き抜け、供えられた花がまたそよそよと揺れた。
雲ひとつない晴れの日。とある村の片隅には、よく手入れされた小さな墓標があった。
その正面に座る男は、墓標の下に眠る者の生前と変わらぬ調子で語りかけた。
後ろでひとまとめにした髪は、燃えるような赤。そしてその頭上には二本の黒い角。この魔族の男——ユシュカは、かつてかの大魔王と共に世界を救った。
「どうだ、俺にも貫禄が出てきただろう?」
自慢の顎髭を撫でながら得意そうに笑う目尻には、あの頃には無かった皺が深く刻まれている。それでもなお、かつてと変わらぬ少年のような笑顔がそこにあった。
ユシュカが忠義を誓った大魔王がこの世を去ったのは、今からもう何百年も前のことだ。その際、故郷であるエテーネ村を見渡せる小高い丘に建てられたのが、この墓標だ。
"大魔王"という大層な肩書きには似つかわしくないほど、こぢんまりとした姿でそれは佇んでいる。もし自分の墓標を建てるなら極力控えめに、というのが大魔王本人からの希望だそうだ。全く変なところで謙虚な大魔王様だ、と当時のユシュカは思ったものだ。
本人の意向を無視して、偉大な大魔王様に相応しい立派な墓標……いや、いっそのこと豪華絢爛な塔でも建てて壮大に弔ってやろうかと考えたこともあった。しかし、その企みはとうとうユシュカの妄想の範囲の外に出ることはなかった。
「ま、こっちの方がお前らしいよな」
それに応えるかのように心地の良い風が吹いて、供えられた花が揺れた。墓標は常に綺麗に手入れされ、いつ訪れても真新しい花が供えられている。
それだけではない。いつからなのか、誰が始めたことなのかすら、今となっては誰にも分からないが、墓標の周りにはたくさんの花が植えられている。まるで小さな花畑のように。唯一土肌が見えていた通路と墓前すら、気がつけば石畳が敷かれていた。
色鮮やかな花畑や丁寧に敷かれた石畳は一見、小さな墓標には不釣り合いに思える。そんな少し滑稽な風景を、ユシュカは気に入っていた。
かつて訳も分からぬまま魔界の混乱の渦中に呑まれ、あれよあれよと魔界に君臨する大魔王へと祭り上げられた故人を表しているようで。
大魔王は魔界を救った後も、息つく間もなく様々な地に旅立っていった。そして数多の困難を乗り越え、各地を窮地から救った。
そんな大魔王もたまの休息の折には、ユシュカの治める国――ファラザードに降り立ち、旅の中で起きたことを語ってくれた。大魔王との旅を終えて刺激の無い生活に飽き飽きしていたユシュカにとって、その時間は特別だった。
大魔王が近日中に来訪するとの一報が入れば、ユシュカは頭が痛くなるような厄介な執務でも迅速にこなすことができた。
そんな時、決まって副官のお小言が始まる。「はぁ、全く。普段からこうであれば大変有り難いのですが……」といった調子で。そんなやりとりはいつしか恒例になっていた。けれど、大魔王の土産話が待っていると思えば、ユシュカは全く苦にならなかった。なぜならこの副官——ナジーンも当然ながら、大魔王の来訪を心待ちにしているうちのひとりだったからだ。
それ故、かの御仁が登場すればこちらのもの。その後の細かいことは全て有耶無耶にできることを、ユシュカは知っていたのだ。
そんな具合で、天使たちが住まう天上都市での英雄たちとの出会いや、荒廃した異界に調査に赴いたことなど、様々な旅の話を聞いた。
我らが大魔王は、毎度毎度面倒ごとに巻き込まれ、あるいは自ら首を突っ込んでは人々を救っていく。そういった巻き込まれ体質なところや、相変わらずの底抜けのお人好しぶりが、ユシュカは可笑しくてたまらなかった。「お前は人が良すぎるんだ」と言えば、「だって、放っておけないじゃん」と大魔王がはにかむのがお決まりの流れだった。
今でもそんなことを昨日の話のように思い出しては、もう新しい冒険の話を聞くことができないことをまざまざと思い知らされる。何百年経っても褪せることのない微かな寂しさが、ユシュカの胸を締め付けた。
「なぁ、俺はいまだに考えるんだ。お前は今も長い旅を続けていて、そしていつかまた、ひょっこりファラザードに顔を出すんじゃないかとな」
そんな子ども騙しの空事を口にして、ユシュカは僅かに微笑み——けれどすぐに後悔した。永い時間をかけても完治しない傷が何度目かに開いて、またじくじくと痛み出すだけだった。
暖かな空想をした後に思い出すのはいつだって、覆りようのない現実のことだ。ユシュカを始め、ゆかりのある者たちが大魔王を看取った日。アイツが死んだのも、こんな雲ひとつない晴れた日だったか——ユシュカは大魔王の最期の日を久しぶりに思い返しながら、そっと目を伏せた。
きょうだいと育った家の寝室、質素なベッドに眠る大魔王は、大勢の仲間たちに看取られ、最期は眠るように逝った。アストルティアの民はもちろん、魔族や竜族、そして天使や、異世界から来たという者たちも、かの者の死を悼んだ。
「あれからどれほど経ったんだろうな……」
——魔族が感じる一瞬とは、アストルティアの民の一生である——名前も知らない誰かの言葉だ。そのような表現がされるほどの時間の感覚のズレを、ユシュカや他の魔族たちは理解しようと努めた。
とはいえ、アストルティアには魔族へ負の感情を持つ者もいて然るべきと覚悟していた。根気強く対話を続けていくしかないと思っていたユシュカだったが、アストルティアの民の価値観が変わり、魔族を温かく迎え入れてくれるようになるまでは本当に一瞬だった。
そんな彼らを見て、ユシュカを含む三魔王も、魔族の意識改革に意欲的に取り組んだ。魔界とアストルティアの架け橋となった、かの大魔王の遺志は、確かに受け継がれていた。
そんな、目まぐるしく変わるアストルティアの中でも変わらない村がある。
「だが、この村はお前がいた頃と何も変わらないな」
木々に覆われたこの小さな村は、大魔王とも呼ばれたかの偉大な村長の存命の頃のまま、まるで時が止まっているかのようだった。彼はこの地を訪れるたび、そんな風景に密かに安堵するのだった。そしてそんな時、決まって大魔王と二人で焚き火を囲んだ日のことを反芻した。
あの日、大魔王はユシュカに、自らが歩んできた冒険の旅の全てを語り聞かせた。世界を救うという責務を背負った旅——それが血の契約によって、ユシュカとこうして交わった。
そんな奇妙な運命から始まった、二人の辛くも楽しい冒険の旅。それは間違いなく、ユシュカの人生の中で最も輝かしい記憶となった。今でもファラザードの酒場で出会った者たちに、夜な夜な語り聞かせているほどだ。
ファラザードの酒場といえば、大魔王とユシュカが酒を交わしたことが一度だけあった——大魔王が下戸だと分かったのは、顔を真っ赤にして爆睡したのを見た後だった。その翌日、ユシュカの前に現れたのは、カンカンに怒った魔仙卿だった。知らなかったという言い訳は通用しなかった——ユシュカはしばらくの間、大魔王城の出禁を命ぜられた……苦い記憶だ。
それ以降、大魔王のグラスは酒ではなく果実水や茶で満たされるようになった。そして、とうとう最期まで大魔王と酒を交わすことはなかった。
「ひょっとして、あの世だったらお前も酒が呑めたりするのか?」
ユシュカは目を閉じて、大魔王のそんな姿を思い浮かべてみる。まぶたに映し出された大魔王は、いつもと変わらぬ笑みを湛えていた。
「あの世で会ったらまた、たーんまりとお前の話を聞かせてもらうぞ」
その時は、良い酒を持って行くからな。ユシュカが微笑みながら、墓標を撫でた。
やわらかな風が吹き抜け、供えられた花がまたそよそよと揺れた。
