三文字の感情を、私に(JD)
「……全く。相変わらずあの男は偉そうに友達面するんですから。ジェイドのことだってそうです!ジェイドはいつも私を見てくれて……」
ようやく罵倒の言葉を見つけた私は文句を呟きながら一人いつもの道を通った。
あの後は散々だった。
頭を下げて見送ってくれたメイドは好奇心に満ちた瞳で私を眺めており、ピオニーの自室の外に出ると大勢の兵士に囲まれ、睨まれて。挙句の果てには今日宮殿前で尋問された兵士に忌々しそうな視線を向けられた。
何も問題を起こしていないから大丈夫だとは思うが、負の感情に満ちた視線を向けられたのは全てピオニーのせいだ。忌々しくてたまらない。
屋敷に戻り、階段を上り切った私は自室に入る前にジェイドを目撃した。
昨日も早かったが、今日も早めに戻ってこられたらしい。
ジェイドはいつも遅くまで仕事をしているので、屋敷にいるジェイドを見ると嬉しかった。
「ジェイド、お帰りなさい。今日も早かったんですね」
「ガイのところにいたのですか?」
私が上着を抱えていたからか、ジェイドは視線を落として返事を返した。
行きではピオニーに部屋に連れ込まれ、帰りは逃げるように帰った。そんな私が上着を返せる訳がない。
途中まで大通りを通ったが、ガイとはすれ違えなかった。
「それが、聞いてくださいよ! 宮殿まで行ったのにガイがいなくて、代わりに馬鹿皇帝が! 部屋に来いとか色々教えてやるとか、全く余計なことばかり……」
私は望んでいないのに、部屋で余計なことを無理やり教えられて。
ピオニーに対する不満をぶちまけた私は大きく息を吸い込んだ。興奮のあまり頬が熱くなる。
言いたいことを言って少しスッキリした私はジェイドを見た。
「ジェイド?」
ジェイドは上着に視線を合わせたまま。私を全く見ていなかった。
「ガイのこと、随分気に入っているようですね」
「……ええ、まぁ。かつて敵だった私にも親切にしてくれますから」
照れくささ半分、喜び半分に答える。
昔は敵だったが、今は味方。だから仲良くできる――。
そう言うと簡単なことのように思えるが、現実はそう簡単ではない。
敵としてマルクト軍の兵士を攻撃したディストを許せていない者は大勢いた。
「ネイスはいつか必ずマルクトを裏切る」。そう疑っている者も少なくないだろう。
「あの、ジェイド。どうかしましたか?」
「いえ。少し……珍しいなと思っただけですよ。貴方が相手を好意的に捉えるなんて、ね」
ジェイドに揶揄されて、私は頬がより熱くなるのを感じた。
そんな言い方をされると私が普段相手のことを好意的に捉えていないように聞こえる。――確かに否定しきれない部分はあるが、批判ばかりしている訳ではない。そう思いたかった。
「べ、別に良いでしょう? ガイは……本当に、良い人のようですから」
かつて敵だった私に、他の仲間と同じように接してくれる。
どんな言葉よりもその心が嬉しかった私は返しそびれた上着を抱きしめた。
「ええ。そうですね」
だが、ジェイドは相変わらずの調子だった。
時々怖く感じる赤い瞳は何か別のものを捉えている。
ジェイドの顔が不自然なまでに無表情であることも気になった。
「ねぇ、ジェイド。体調でも悪いのではありませんか?」
「どうしてそう思うのです?」
「だって……いつもと少し違いますから」
私は浮かんだ疑問を率直に口にした。
どこが、とは上手く言えないけれど、何かが違う。
今日のジェイドは今までに見たことのない何かを纏っている気がした。
「……違う、ですか」
私の言葉を聞いたジェイドは何故か自嘲的な笑みを浮かべた。
「私もどうかしてしまったようです」と呟くジェイドの瞳がようやく私を捉えた。
「そうですね。少し違うかもしれません。――ああ、サフィール。ちょっと部屋に来てください」
「はい」
扉を開けるジェイドの後を続き、ジェイドの部屋に入る。
明かりをつけるとジェイドはすぐにドアを閉め、鍵を掛けた。
どうして鍵を掛けたのだろう。
そんなことを思っていると、不意にジェイドが近づいた。
「え? じぇ、ジェイド? ん、ん……っ」
いやに積極的なジェイドに口づけられる。
壁を背にした私は動くことも出来ず、遠慮なく入り込んでくるジェイドの舌に全てを貪られ、蹂躙された。
「急に貴方が欲しくなりました。ください」
唇が離れるとすぐにジェイドはそう告げた。
ジェイドの言葉は許可を求める言葉ではあったが、まるで命令のような響きだった。
貴方に拒否権はない――そういう言葉だ。
「ジェイドっ、や……!」
未だ呼吸が乱れたままの私を、ジェイドが寝室に連れて行こうとする。
だが、性急すぎるジェイドの態度に不安を感じた私は首を振って拒否した。
やはり今日のジェイドはどうかしている。
「サフィール、来てください」
「や……ぁっ! ――ピオニーっ!」
手を引こうとするジェイドにピオニーを思い出した私は咄嗟に国王の名を呼んだ。
――ここだ、と思った時に。たとえばジェイドと揉めた時に。
意図して呼んだものではなかったが、そんな言葉が頭を駆け巡った。
「……今、なんと言いました?」
上手く考えを纏められない私の耳にジェイドの低い声が届く。
ジェイドの顔を見るかどうか散々迷った末、私はジェイドを見上げた。
そして、一秒と経たないうちに後悔した。
「来なさい」
今度は完全な命令口調で言われ、ジェイドに手を引かれる。
私は異様に早いスピードで部屋から連れ出された。
タイミングか、言葉か。どこを間違ったのか分からない。
だが、何かを間違ってしまったということは確かに分かった。
屋敷を出たジェイドと私は言葉も交わさないまま暗くなった夜道を歩いた。
手を引かれたまま、夕方訪れた宮殿に連れていかれる。
街を監視していた兵士たちは不思議そうな表情で私たちを見ていた。
「カーティス大佐! どうかされましたか」
尋常ではないジェイドの表情を見た数人の兵士が驚いて近寄る。
「陛下に火急の用事ができた。――ネイスの行動に関しては私が責任を負う。通せ」
「ですが……」
ジェイドに通せと言われた兵士たちは心底困り果てたという表情をしている。
上官であるジェイドの命令に従わなければならないとはいえ、兵士たちの役目はピオニーや宮殿を守ること。ジェイドの命令であっても通らないだろう。
私たちはこのまま引き返すことになるだろう――。そう考えていると、ジェイドが口を開いた。
「――通せと言ったはずだが」
そう告げるジェイドの声は至って静かで。
だというのに肝が冷えるような恐ろしさを纏っていたものだから、兵士たちは「はっ!」と答えながら飛び退いた。
ジェイドはそれ以上何も言うことなく宮殿内を進み、やがてピオニーの私室前に到着した。
「すみません、失礼します。――陛下、入りますよ」
普段と変わらない声色でメイドに挨拶したジェイドが私室に足を踏み入れる。
ピオニーが要る寝室に入る際はノックをしたが、形式を重んじただけなのかピオニーの返事を待つことなく入室した。
「お、来たか。意外と早かったな」
ベッドに腰かけ、群れるブウサギを撫でていたピオニーは非礼を気にする素振りもなく私たちを迎えた。いつになく機嫌がいいようで、「誰」か分からないブウサギを抱きしめてこちらを見る。
上等な首輪をしているところをみると抱きしめているブウサギはネフリーだろうか。こんな獣に同じ名前をつけられるなどネフリーも災難だ。
「陛下。どういうことか説明していただきましょうか」
「それは俺が訊くことだろ。ジェイド、サフィールと何かあったのか?」
ピオニーはわざとらしい笑顔でジェイドに尋ねた。
「キスのあと求めようとしたら貴方の名前を呼んで嫌がりました」――とは流石に言えなかったらしいジェイドが一瞬答えに詰まる。
ピオニーはその隙を突いて言葉を続けた。
「サフィールはこう見えてなかなか身持ちが良いんだ。お前がちゃんと構っていたらサフィールは何もしない。そうだろ?」
「え、あの。私は……」
にっと口角を上げるピオニーの意図が分からず、私も答えに詰まった。
『身持ち』という単語が聞こえたが、一体何の身持ちだろう。
そもそも、私が何をしないというのだろう。こう見えてとはどういう意味なのだろう。蚊帳の外にいる私には意味が分からなかった。
「それで何かあったからって俺のところに来るのはお門違いだ。――ジェイド、俺はちょっと教えてやっただけさ。お前を振り向かせる方法をな」
「……どうやって教えたんですか?」
何故かばつが悪そうなジェイドが尋ねる。
ピオニーは抱きしめるブウサギを取り換え始めた。
見覚えがあるあれはサフィールだろう。気安く抱きしめないでほしい。
「さあな。どうやったと思う? 言葉で教えてやったか、それとも……」
「あぁ、陛下。それ以上は結構です。何があったのか、サフィールに直接聞きますから」
ジェイドは苛ついた声でピオニーの話を遮った。
自分から尋ねておいて相手の話を遮るなんてジェイドにしては珍しい。
そんなことを思っていると、苛立ちを無理に抑えたようなジェイドが私を見た。
ジェイドの顔は笑っているが、何か不穏なものを感じた私は背筋が凍りそうになる。
「サフィール。貴方、何もしていないのですね?」
「はっ? いや、あの……恐らく、何も……」
赤い瞳に覗き込まれた私は何と答えて良いか分からず、ただそう答えた。
よく分からないが、何もしていないと言っても間違いはないだろう。私はピオニーから話を聞いただけだ。
私がそう答えると、ジェイドは今までの表情を崩して微笑んだ。
「結構。では帰りますよ。陛下、お休みのところを失礼しました」
「おう。じゃあな、サフィール」
悪戯っぽく笑うピオニーにジェイドは何も言わず、ただ敬礼をした。
どうすればいいか分からずにいる私に構わずジェイドは歩いていく。
置いて行かれそうになった私は渋々ピオニーに頭を下げた。
「おい、サフィール」
ジェイドの後を慌てて追いかけようとする私をピオニーが引き留めた。
一体何なのだろう。急いでいるというのに。私は少し苛立ちながらピオニーを見た。
ピオニーは自らの唇に指を当て、注目するよう注意を促している。
私は耳を澄ませたが、何も聞こえない。
首を傾げる私に構わず、ピオニーは声を出さずに唇を動かし続けていた。
――「サフィール、声に出さずに伝えたいことがある」。
ピオニーの表情を読み取った私は「ああ」と小さな声を上げて唇の動きに集中した。
「『い』……いや、『き』かも……」
「サフィール。置いて行きますよ」
「は、はい!」
必死になって言葉を読みとろうとする私の耳にジェイドの声が聞こえてくる。
私はピオニーの唇の動きを覚え、部屋を後にした。