三文字の感情を、私に(JD)


 ガイと歩いて帰るのはとても楽しかった。
 実際に何分かかったのか分からないが、譜業の話をしているとあっという間に屋敷が見えた。


「ガイ、ありがとうございます。ここで結構です」
「俺のほうこそ、怪我させちまって申し訳ないよ。じゃあ、また。今度新しい譜業人形を見せてくれるかい?」
「はい、喜んで」


 私はガイと別れ、屋敷に入った。
 部屋に戻り、ベッドに腰かけて一息吐く。
 すぐに上着を脱ぐ気になれなかった私は脱がずにぼんやりとしていた。
 どうやらジェイドが帰ってきたらしい。ジェイドの部屋の方に向かう音が聞こえた。


「ジェイド、お帰りなさい」
「……その上着は?」


 扉を開けた私はジェイドに挨拶したが、返ってきたジェイドの第一声はそれだった。
 ガイの上着に見覚えがあったのか、少し怪訝そうな顔で私を見ている。


「これですか? あの憎い皇帝のブウサギがボタンを食いちぎったのでガイが貸してくれたのです。私はどちらでも良かったのですが、貸してくれるというのでありがたく借りました」


 上着の前を開け、外れたボタンを指差しながら説明する。


「しかも屋敷まで送ってくれたのですよ。皇帝の獣が悪いのに! 音機関の話も出来るし、ガイは善人ですね。先程も盛り上がってしまいました」
「……そうですか」


 音機関好きに根っからの悪人などいない。敵対したこともあったがガイは良い人間だ。
 ガイの優しさを噛みしめた私は借りた上着を脱いだ。


「サフィール、その怪我は?」


 上着を脱いだ私の肘を見たジェイドが鋭く指摘した。やはり白地に赤色があるのは目立つらしい。
 私はガイの好意を一層ありがたく思った。――大通りを避けて帰っているのは人目を避けるため。怪我で目立っては意味がない。


「これですか? ブウサギとぶつかった時、転んでしまって……。シャツは汚れてしまいましたが、別に大した怪我じゃありません」


 ジェイドはシャツ越しに傷を観察していたが、不意に視線を逸らせた。恐らく、わざわざ治療するほど怪我ではないと分かったのだろう。
 大丈夫だと分かってもらえた私は安堵した。この程度の怪我でジェイドに心配をかけるなんて申し訳ない。


「シャツの予備はありますね。明日はそれを着ていきなさい。そのシャツは新しいものと換えてもらうよう言っておきます」


 ジェイドは的確な指示を出して自室の方へ歩き始めた。
 一つ余計な仕事を増やしてしまった。ジェイドの背中を見つめる私が小さく息を吐く。
 白いシャツは普段着のように見えるが、一応軍服の代わりとして与えられているものだ。
 そして――マルクト軍でシャツを着ているのは私だけ。
 だから交換の必要がある時はジェイドに申し出ることになっている。


「ああ。食事、もう出来ていますからどうぞ」
「はい。ありがとうございます」


 そう言いながら部屋に入るジェイドを見送った私も一度部屋に戻った。
 脱いだガイの上着を綺麗にたたみ、机の隅に置く。
 帰り際のガイとの会話を思い出した私は上機嫌で部屋を出た。


 ブウサギに襲われた翌日の仕事終わりの帰り道。
 私は普段使っている道を通らず、上着を片手に宮殿を訪れた。
 罪人だからかどうかは知らないが、扉に近づくと槍を持った兵士二人に足止めされた。


「何の用だ」
「ガイはいませんか? これを返しに来たのですが」


 私は用件を言いながら上着を見せた。
 自分の身柄上、疑われるのはよくあることだ。いちいち気にしていられない。
 第一、今の私はジェイドの監視下にある。下手に騒いで揉めごとを起こせばジェイドの名前と地位に泥を塗ってしまう。


「よっ! サフィールじゃないか」
「ピオニー! 貴方、なんでこんなところにいるんですか!」


 背後から声をかけられた私は途端に苛つき声を荒げた。
 私の心を知っているのかいないのか、いや、知っていながら現れたに違いない。ブウサギに幼馴染の名前をつける愚かな皇帝は私の邪魔をして楽しんでいるのだ。
 全く、鬱陶しい男だ。一人で宮殿の外にいること自体、意味が分からない。


「まあ細かいことは気にするなって! ガイに会いに来たんだろ? ガイは今俺の可愛いブウサギたちの散歩中だ」

 腰に手を当てたピオニーは何故か偉そうに答えた。


「ガイ、いないんですか? 暇なら貴方が散歩させれば良いでしょう」
「貴様、罪人の分際で!」
「おいおい、やめてくれよ。サフィールは特別だからな」


 槍を向ける兵士たちに、ピオニーは得意げにそう言った。――私はいつからピオニーの特別になったのだろう。
 こんな男に気に入られているなんて眩暈がする。うわの空で考えごとをしていると前触れもなくピオニーに腕を掴まれた。
 走り出すピオニーの勢いに引かれ、強引に宮殿の中に引き入れられる。


「陛下!」
「全く、あいつら頭が固いからな。とりあえず部屋に来いよ。二人で色々話そうぜ」
「貴方と話すことなんかありません!」
「そうか?」


 ピオニーに引っ張られながら、私は後ろを見た。
 武装した兵士が困った顔で私たちを眺めている。いくら罪人を連れているとはいえ国王を追いかけるのは気が引けたのだろう。しかも脱走癖がある国王なら尚更だ。

 あの兵士たちはよくこんな王に仕えているものだ。私はため息を吐きたくなった。
 そういえば、私は一体どういう顔をして帰れば良いのだろう。悪事など働いていないが、ピオニーの代わりに咎められる気がする。本当の幼馴染でもないくせにピオニーは本当に迷惑な男だ。

 私は他人ごとのように色々なことを考え、前を向いた。
 ピオニーは自室にいるメイドに「入るなよ!」と言って自身の寝室に突入した。唐突な出来事に驚いたメイドの表情がちらっと視界に入る。
 まだ年若いようだし、他の仕事を探すことはそれほど難しくないだろう。にもかかわらずよくこんな男に仕えているものだ――。
 私の頭は先程と似たようなことを考え始めていたが、思考は勢いよく閉まった扉に遮られた。


「勿体ないことするなよ、サフィール。せっかく良いことを教えてやろうと思ったんだがなぁ」
「はっ、笑わせますね。どうせろくなことじゃないんでしょう」


 元からピオニーを信じていない私は鼻で笑った。
 ピオニーの情報など当てにならない。昔からそうだった。


「相変わらず俺にはきついな。だが……それはどうだろうな」


 ピオニーは一度苦笑したが、意味ありげに笑って部屋の鍵を閉めた。
 腕を組み、扉に持たれて私を見つめる。
 ピオニーに見つめられた所為か、私は急に居心地が悪くなった。


「な、なんです? 言いたいことがあるならはっきり言えば良いでしょう!」
「俺がアドバイスしてやろうか。ジェイドのことで」
「……ジェイドのことで?」


 聞こえてきた内容が予想外の内容だったので、私は思わず問い返してしまった。

 ピオニーの情報など役に立つはずがない。そんなことは私が一番分かっている。
 だが「一応聞いておきたい」という心の声が私の理性を邪魔していた。


「そうだ。ま、せっかくだから友達の俺が少しだけ教えてやろう」
「だから、いつから友達に……」


 私は小さな声で文句を言ったが、話の内容が気になって仕方がなかった。
 言うつもりなら早く言えば良いのに。
 ピオニーに焦らされて否応なしに心が焦る。


「今度、もし『ここだ!』って思う時が来たら……たとえば、ジェイドと揉めた時とかだ。その時、俺の名前を呼んでみろ。そうすればジェイドでもサフィールのこと見てくれるぞ」
「ジェイドが……」


 ピオニーの名前を呼ぶだけでジェイドが私を見てくれるなんて本当だろうか。
 私はピオニーを罵ることも忘れて思考を巡らせた。

 そんな簡単なことでジェイドが私を見てくれるなど、にわかには信じがたい。
 けれど、それだけで見てもらえるのなら試してみる価値はある。何せ憎いピオニーの名前を呼ぶだけなのだから、失敗しても何も起こらないだろう。


「まぁ試してみたくなったらやってみろ。サフィール、今度は遊びに来いよ」


 ピオニーは自慢げに扉を開け、出て行けとばかりに手で扉を指し示した。
 急に扉が開いた所為か慌てている数人のメイドの姿が見える。
 まさかとは思うが、聞き耳を立てていたのかもしれない。

 自分に都合の良さそうな情報を聞いたからではない。
 だが、丁度良い罵倒の言葉が出なかった私は仕方なく無言のまま退室した。



 
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