三文字の感情を、私に(JD)


「ふぅ……」


 水辺を走る子どもの声。窓から漏れる美味しそうな料理の匂い。
 穏やかな日常を感じ、ゆっくり息を吐いた私は空を見上げた。

 今日も長い一日だった。
 いや、本当に長い一日だったのだろうか。
 心の中で反芻した後、やはり違うかもしれないと私は首を傾げた。
 振り返ってみるとそう長くはなかった気がする。
 マルクト軍に復帰した直後は一時間さえ長く感じたが、最近はそうでもない。仕事始めは時間が長いと感じても、仕事が終わって振り返ると意外と短かったように思えた。


 私も――変わることが出来たということでしょうか。
 人通りの少ない道を選んだ私は立ち止まって微笑んだ。

 短く思えるようになったのは単なる「慣れ」かもしれない。
 けれど、たとえそうだとしても自分が変わったことには違いない。そう思うと嬉しかった。


「なんでしょう。人がしみじみしているというのに、うるさ……ぎゃあぁっ!」


 背後から聞こえてくる蹄のような音に私は振り返った。
 振りかえる為に動かした足に衝撃が走る。バランスを崩して転んだ私は背中と頭を地面に打ちつけた。


「い……っ、痛いじゃないですか! ……って、ブウサギ?」


 倒れた私の足元にしがみつくのはブウサギだった。
 首と思われる場所につけられた首輪には紐が繋がっている。どうやら野生のブウサギではないらしい。
 しがみついたブウサギは私の上に乗り、何やら匂いを嗅ぎ始めた。


「ちょっと、何なんですか! それは駄目です!やめろ!」


 シャツの匂いを嗅いだブウサギは胸元のボタンを舐め始めた。
 いや、舐めるだけならまだ良い。私の上に乗るブウサギはボタンを喰い千切ろうとしている。
 私は慌ててブウサギを退けようとしたが、退けた時には既に遅かった。


「……飲み込んでしまいましたね。途中で詰まっても私は知りませんよ」


 空中に掲げられ、空の茜色を受けた誰かのブウサギが赤く染まる。
 私はため息と共に呟いたが、小さなボタンを詰まらせるほど繊細そうには見えなかった。


「おーい!」


 大通りの方から聞き覚えのある声が聞こえてくる。
 醜態は見せられないと起き上がった私はブウサギの紐を掴んだ。
 沈み掛けた夕陽の方向から、誰かの陰と何かの塊が走ってくる。
 息を切らしながら私のところにたどり着いたのはガイとブウサギの集団だった。


「悪い。サフィールが……ブウサギのほうのサフィールが急に走り出したもんでな。大丈夫かい?」
「大丈夫じゃありませんよ!」


 私はガイに怒りをぶつけながら紐を渡した。


「ボタンを一つ食いちぎられてしまいました。しかも事もあろうに飲み込んだのですよ。あの皇帝崩れ、この獣たちにちゃんと餌を与えているんですか?」


 ガイが散歩させている以上、このブウサギはあの皇帝のペットだろう。ボタンを食いちぎるような獣に美しき私と同じ名前を与えるセンスのなさを鑑みても間違いないだろう。
 憤る私をよそに、頭を掻いたガイは「飲み込んだのか……」と苦笑を浮かべている。

「餌はちゃんとやってるよ。多分、ネイス博士を見つけて嬉しかったんだろう。博士、好かれてるようだから」


 ガイは紐を引っ張りながらブウサギを見つめた。
 世話係のガイの主張では、ブウサギのサフィールが私を気に入っているらしい。
 ぶつかってきたのは気に食わないが――そういう点では、良い目をしている。


「ガイ、私のことはサフィールで良いですよ」
「そいつはありがとう。ただ、ブウサギのほうと名前が被るんでな……」
「サフィールという美しい名前は元々私の名前です!」


 名前で呼ぶように言った私にガイは困った表情を浮かべて笑った。
 他の誰でもなく、愚かな皇帝のブウサギに名前を奪われるなんて。私は思わず憤慨した。
 怒る私に、ガイは着ていた長袖の上着を脱いで渡した。


「なんですか?」
「ボタン、取れちまっただろ。それに肘を怪我してるみたいだ。その格好で歩かせるのは申し訳ないよ。帰ってきたジェイドも驚くだろう」
「私は別に……」


 何だか申し訳なく思った私は途中まで言葉を紡いだ。

 六神将の頃はボタンを開けたこの恰好で出歩いていた。
 転倒の際に負った怪我も小さなもので、出血はしていたが別に気にならない程度だった。
 ただ、シャツが白いので赤い血が少し目立ってはいるようには思える。


「……ありがとうございます」


 ガイの優しさを無下にするのも悪い気がした私は上着を受け取った。たまには意地を張らずに甘えるのも悪くないだろう。


「いや、世話係の俺の責任だしな。ついでに送っていくよ。ジェイドの屋敷だろ?」
「はい。ではお言葉に甘えて」


 私はブウサギを踏まないように気をつけながらガイの横を歩いた。
 ガイは譜業に詳しいので何かと話が弾む。
 借りた上着のおかげか、少し肌寒く感じる帰り道も暖かく感じられた。



 
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