終焉を見つめて(JD)
よく晴れた日の夕方。ダアトで買い物をしていた私は夕空を見上げていた。
今日は一日よく晴れていて、今の時間帯になっても雲一つ見当たらない。
こういう気持ちのいい日は何かが起こりそうな気がしてかえって不吉だ。
そんな私の直感を裏付けるように、空から何かの塊が降ってきた。
「見つけましたよ、ジェイド!」
不快な声と共に落ちてきたのは椅子に乗ったディストだった。
もう何回同じ台詞を聞いただろう。今まで何回ディストと出くわしただろう。私はため息を吐いてディストを見上げた。
「貴方も懲りないですねぇ」
私はディストの学習能力のなさに感服した。
毎回返り討ちにされているというのに、時間が経てばディストは必ず現れる。同じことを繰り返すことこそが習慣になったのかもしれないが、こちらとしてはいい迷惑だ。
こんなことならもっと人通りの多い道を歩けば良かった、と思った。
通行人は一人もいなかった。
「それで? 何をしていただけるのですか? ギッタギタにしてくださるとか?」
「きぃ――っ! 馬鹿にして!」
身振り手振りで怒りを表したディストが椅子を降りる。
細身のズボン越しに足のラインが見えているが、体重に似合わず細い。空飛ぶ椅子を使っている間に足の筋肉が衰えたのだろう。
「私を挑発したこと、後悔するがいい!」
「では、貴方からどうぞ」
「……え?」
「ギッタギタにしてくださるのでしょう? 好きなようにしてください」
予想外の反応にディストが困惑している。
私は武器を出すこともなく腕を広げ、笑ってみせた。
「そ、そんなことを言われたら戦意を喪失するでしょう! ……もっと、抵抗してくれないと……」
ディストは情けない表情でぶつぶつ言い始めた。
こんな場所でカイザーディストを使う訳にはいかないし、だからといって譜術は使えない。挑みかかってきたとはいえディストは本気で勝負するつもりなどないのだ。
「さ、どうぞ」
「……く、喰らいなさい!」
私が澄ましていると、ディストは懐からナイフを取り出し向かってきた。
少し離れたところで明るい銀色が光る。兵士が使うような小型のナイフだった。
使い慣れている様子はない。恐らく護身用だろう。
「おっと、危ない」
私は緊張感のない声を上げ、走ってくるディストを避けた。
輝くナイフが空を斬る。勢い余ったディストは急に方向転換できず転びそうになっていた。
「貴方の攻撃はこれで終わりですか? では、私も」
「ぎゃっ!」
バランスを崩したディストの腕を掴んだ。
細身の身体を引き寄せ、動けないようにし、ナイフを奪う。
あっという間に捕えられたディストは必死になってもがいた。
「どうして差し上げましょうか。ああ、もう二度と活動できないようにしましょうか?」
暴れるディストの耳元で囁くとディストが急に大人しくなった。話の内容を理解したのだろう。心なしか青ざめているようだ。
――正直な男だ。
面白くなった私は素直に笑った。
「貴方は敵なのですからそれくらい当然ですよね。――では、まず貴方の手から頂きましょうか。毎日指を一本ずつ切り取って、全部なくなったら手首ごと落としてしまいましょう」
私はいつもの調子で話しかけた。
少し脅してやるのも悪くない。たとえば――そう、旅をする私の前に二度と現れなくなるくらいに。
「手が使えなくなったら実験台にさせていただきましょう。拷問と媚薬の投与を一日交代で行うとどうなるか……良い成果が出そうですね」
貴方は痛いのも気持ちいいのも好きそうですから。
甘い声で囁きながら耳元に息を吹きかける。
腕の中のディストは震えていた。
「さ、私と一緒に来てください」
「や……やめろっ!」
軽く腕を引くと、ディストは渾身の力で私を突き離そうとした。
叫んだ声は恐怖のあまり枯れている。悲愴な声だった。
「おや、悪い子ですね。そんなことをする手は取り上げてしまわなければ……」
私は逃げようとするディストの手首を掴んだ。
白い手袋越しに体温が伝わる。
血の気が引いているのか、心なしか体温が下がっているような気がした。
「ひ、っ……」
ディストはがくがく震えて泣いている。
多分、今すぐ拷問にかけられると思っているのだろう。
目の前の男は今にもへたり込んでしまいそうなほど怯えていた。
「……馬鹿ですねぇ。手の一つで怯えるのなら私を倒そうなどと思わないことです」
呆れた私は指の力を緩めた。
しかし、ディストは私を振り払わなかった。
いや、振り払えなかった、と言うべきかもしれない。ディストの視線には隠しようのない畏怖が滲んでいる。
ディストは――サフィールは、マルクトを捨てて神託の盾に入団した。ただの入団ではない。「軍の機密文書を持ち込んだ上での入団」であり、いわゆる「亡命」だ。
その経緯を踏まえれば、自らがマルクト軍に捕らえられた場合のことを考えていない訳ではないだろうが……。「最悪の事態を想定すること」と「腹をくくること」は違う。
そして、弱虫で洟垂れなこの男は「最悪の事態を想定すること」はできても「最悪の結果を受け入れること」ができない。
だからこそサフィールは心底怯えているのだ。――「これまでの因果関係を考えれば拷問官にはジェイドが選ばれる」「ジェイドは宣言通りの行動を取る」と想定して。
「ひっ、く……敵に、情けを、かけるつもりですかっ?!」
「誤解しないでください。拷問する気が失せただけですよ」
ぐずぐず泣いているディストを見つめて言い放つ。
彼を拷問に掛けられない訳ではない。今はまだその時でないだけだ。
――ディストの手を奪う時は、私たちの関係が修復不可能だと確定した時。
「腐れ縁の幼馴染」ではなく「ただの敵同士」に成り下がった時だ。
「ああ、私に奪われたいというのなら今すぐにでも切断して差し上げますが……」
私は指で細い手首を弄んだ。
ようやく我に返ったのか、ディストが手を引っ込める。
私を睨みつけるディストは、まだ震えていた。
「さて。――もう二度と私の前に現れないでください。次は指の一本や二本じゃ済みませんよ」
もしかしたら、次に遭う時は私たちの最期の時かもしれない。
ディストの全てを奪う時かもしれない。
それならこの旅が終わるまで遭わなければいいことだ。
「私はっ、ジェイドを元に……っ」
だが、馬鹿な男は私に逢おうとする。
変わってしまった私を愚かな私に戻そうとして。
――今でも十分愚かかもしれないが。
「ひぃっ!」
苛立った私は奪ったナイフを振るった。
大きく開いた胸元に赤く細い線が走る。浅い傷口からは血が垂れていた。
「私が腕を落とす前に消えなさい」
「わ、私っ、諦めませんからね!」
私が凄んでも、ディストは馬鹿馬鹿しい内容を口走るだけだった。
主人を載せた無駄に豪勢な造りの椅子が高らかに浮上する。
椅子を回転させたディストは空高く飛び上がり、あっという間に見えなくなった。
「全く。私も甘くなったものですねぇ」
消えていく椅子を見送り、ため息を吐く。
やろうと思えばディストを捕えることもできたし、その場で腕を落とすこともできた。瀕死の重傷を負わせることもできたはずだ。
それなのに、私はディストを見逃した。小さな傷一つしか残さずに。
「鬱陶しいペットを飼ったものだ」
こんなことならサフィールなど飼わなければ良かった。
だが、遥か昔の言動を後悔してももう遅い。
私は血で塗れたナイフを路地裏に放り投げ、大通りへ向かって歩き始めた。
ディストはあと何度逢いに来るのだろう。
ジェイドはあと何度見逃せるのだろう。
私たちの関係に決着がつくのは、いつの日か。
それを考えると面倒でため息が出そうだ。
疲れ果てた私は空を見上げた。
闇色が滲み始めた空に、遥か昔見たような細い月が出ていた。
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