ここにいるから(JD)


 嫌な夢を見た。
 本当に嫌な夢だった。
 ――けれど、あれは本当に夢だったのだろうか?


 見慣れた天井を視界に入れた私はため息を吐いた。
 悪夢を見たせいか冷や汗を掻いている。
 時計に目をやる。まだ朝の四時だった。


「何故あんな夢を」


 シーツに身体を預けたまま呟く。
 夢の中では動揺してしまったが、いざ思い返してみると現実味のない夢だった。
 あんなことが実際に起こる訳などない。ここしばらく忙しかったせいで悪夢を見てしまったのだろうか。

 再びため息を吐き、ゆっくり寝返りを打つ。
 しかし一度逃した睡魔はなかなか戻ってこない。
 私は眠るのを諦め、ベッドを後にした。
 幸い睡眠時間が短くても行動できるタイプだ。数時間しか寝ていなくても特に支障はない。
 こういう日もあるかと思いながら小さく伸びをする。
 室内着を脱ぎ、手早くシャツに着替えた。

 髪の毛を整えていると、ドアの方から微かに音が聞こえた。
 ――ノックだと思うが、あまりにも音が小さく確信が持てなかった。


「入れ」


 とりあえず入室を許可する。
 先程聞いた音がノックであれば誰か入ってくるだろう。
 ベッドに腰かけ、相手が入ってくるのを待つ。
 けれど相手が入ってくる様子はない。

 単なる聞き間違いか。立ち上がり、扉に近付く。
 少しだけ戸を開けると、何故だか床に影が見えた。

 不審者ではなさそうだが、用心するに越したことはない。
 私はいつでも槍を取り出せるように身構えながら注意深く扉を開いた。


「お前……」


 しかし、そこにいたのはサフィールだった。寝巻き姿のまま、俯いてドアの前に立ちつくしている。その表情は前髪で隠され一向に分からない。


「サフィール」


 もう飽きるほど発した音を、なるべく普段通りの声に聞こえるように紡ぐ。たかが悪夢に動揺していた事実を悟られると癪だからだ。――もっとも、悪夢を見ていたことなど彼には分かりようがないのだが。


「ジェイ、ド」


 俯いたままのサフィールは小さな声で私を呼んだ。
 こんな早朝に部屋を訪ねたというのに、何をするでもなくただ立っている。
 ずっと下を向いている点も含め、明らかに様子がおかしかった。


「入りなさい」


 私は挙動不審なサフィールを部屋に招き入れた。
 下を向いたままだったが、サフィールはしっかりした足取りで入室する。
 ベッドに座れという命令にもスムーズに従ったところをみると体調が悪い訳ではないようだ。


「こんな朝早くにどうしました?」


 サフィールの隣に腰かけ、理由を尋ねる。
 床を見続けるサフィールは小さな声で答えた。


「嫌な夢を、見て」
「……顔を上げなさい」


 サフィールの顎に指をかけ、半ば無理やり上を向かせる。

 私はサフィールが泣いているのだと思っていた。泣き顔を見られたくないから俯いているのだと。
 しかし、サフィールは泣いていなかった。顔色こそ悪かったが、紫の瞳は涙で潤むこともなくしっかり開かれている。

 顔を上げさせられたサフィールは怯えたように視線を漂わせ、恐る恐る私を見つめた。


「ジェイ、ド……」


 掠れた声で私を呼ぶサフィールが右腕を伸ばした。
 その指先は私の頬に触れる。
 そっと添えられた手は、震えていた。


「……温かい」


 空いている左手で反対側の頬を包み込むや否や、サフィールは突然泣き崩れた。澄んだ瞳から大粒の涙が零れ落ちる。
 ――私は自らの洞察力に一定の自信を持っている。しかし今の私にはサフィールが泣き出した訳を推察することができず、ただ涙を拭ってやることしかできない。


「サフィール?」


 名前を呼ぶと、サフィールは私に身を擦り寄せた。その拍子に肩口が濡れる。
 いつもなら嫌味の一つでも言ってやるところだが、今は言えなかった。


「……仕方ない人ですね、貴方は」


 ため息を吐いた私はサフィールを優しく抱き、背中を撫でる。
 朝早く悪夢で起こされ、短時間で幾度となくため息を吐く羽目になった今日は一体どのような一日になるのだろう。救いようのない一日になるか、もしくは「これ以上悪くなりようがない」という理由で思いがけなく素晴らしい一日になるか――。それはサフィールの言動に懸かっている気がした。


「悪夢を見た、と言いましたね。……実は私も見たのですよ」


 本当は悪夢を見たことなど言いたくなかった。ただ、事実を伝えればサフィールが泣き止む気がしたから渋々そうしたのだ。
 そして、その推量は概ね正しかったらしい。サフィールはほとんど泣き止んだ状態で私を見つめた。


「ジェイド、も?」


 低い声を微かに震わせたサフィールが問う。
 乱れた髪、青白い肌。涙でぐちゃぐちゃになった目元と、そこだけ赤くなった鼻。普段容姿に気を遣っているせいで見るも無残な姿だが、不思議と嫌悪感は覚えない。


「ジェイドは、何の悪夢を?」
「言いたくありません」


 背中に回した腕を外しながら答える。悪夢を見ていた事実を伝えるのはよしとしても己の弱みを見せるのは嫌だったのだ。
 それでもサフィールは悪夢の内容を執拗に尋ね、私に突っぱねられることを繰り返し――挙句の果てには再び泣き出した。


「……分かりましたよ。それじゃ、同時に言いましょう」

 面倒な男だ。今日何度目か分からないため息を吐きながら提案する。
 極力小さな声で言えばサフィールに聞こえない可能性もあるだろう。もっともその可能性は低いが、現状私にできることはそれくらいしかなかった。


「では、せーので言いましょう」


 サフィールが頷くのを確認して、私は合図をする。
 そして――私とサフィールはほとんど同時に夢の内容を伝えた。


「……ジェイドが死んでしまう、夢」
「――お前が消える夢」


 互いが発した声は思いのほか小さく、ほぼ同時だったこともあってクリアに響いたわけではなかった。
 だが、サフィールは私が見た悪夢の内容を確かに聞き取ったらしい。いつになく驚いた表情で私を見つめている。
 聞き間違いなんじゃないか――そう思っているようだった。


「あの……」
「うるさい」


 『サフィールが消える夢』を見て動揺したのは紛れもない事実だが、その事実を認めてやるのは悔しい。私はそっぽを向き、遠慮がちなサフィールの言葉を遮る。

 視界から外れたこともあり、サフィールの表情を窺うことはできない。
 ただ、サフィールが私の肩に寄りかかろうとする気配を察知することはできた。

 ならば避けなければ――。
 頭に浮かんだそれは長い歳月の間に培われた反射的なものであり、考えるより先に身体が動く類のものでもあった。
 だから、普段なら確実に避けられるはずなのだが――今日の私はどうにも調子が悪いらしい。いつものように先手を取ることができず、サフィールが寄りかかることを許してしまった。


「……私、もう立ち直れないかと思いました」


 涙で湿った肩に僅かな重みを乗せたサフィールが静かな声で話し出す。


「夢の中の貴方は何度名前を呼んでも返事をしてくれなかった。ならばと触れた頬は私が昔落ちた湖よりもずっと冷たかった。だから、私……」


 肩口に頬を寄せたサフィールは掠れた声で呟いた。


「――もう、消えてしまおうと思いました」


 グランコクマから。マルクトから。――この世界から。
 そう言って顔を上げたサフィールは穏やかな笑みを浮かべている。

 現実味のない言葉だ。そう思った。
 それはサフィールの表情でもあったし、彼の生命力が他の誰よりも強いことを知っているからでもあった。
 だから、サフィールがこの世界から消えることなどそうそうないのだ。――私の夢の中でもない限り。


「私は……ここにいる」


 私がお前より先に死ぬことはない。
 私が死ぬ時はお前がいない世の中に興味がなくなった時だ。
 ――だから、それまで勝手に消えるな。

 私はサフィールを抱き寄せ、細い身体を腕の中に収めた。
 シャツ越しに触れるサフィールは温かい。
 私は声にできない想いを伝えるようにサフィールを抱きしめ続けた。


「……私、も」


 サフィールが不意に呟く。
 抱きしめる力を弱めてやると、腕の中のサフィールは静かに顔を上げた。


「私も、ここにいます」


 サフィールはアメジスト色の瞳を輝かせ、笑った。
 その笑顔は幼子のような――ケテルブルクにいた頃のような、無防備なものだった。


「私、ずっとジェイドの傍にいます。だから、ジェイドも……」


 サフィールは私の耳に唇を寄せ「ずっと一緒にいてください」と囁いた。

 静かな部屋でも聞きとり損ないそうな、本当に小さな音。
 しかし、私はその音をはっきり捉えることができた。


「……さて、どうしましょうか」


 私はサフィールの甘い祈りを聞いた上で不敵な笑みを浮かべた。
 背中から腕を離し、肩を竦めてみせる。
 サフィールは文句を言いたそうに口を開いたが、その言葉が紡がれることはなかった。


 私は愚かにもサフィールのことを愛している。
 だからサフィールのことを失いたくない。
 けれどそれを全部サフィールに伝えてやるのは癪だ。
 自分の気持ちをサフィールに教えたくない。
 たとえそれを誰かに非難されようとも、その感情を取り除いた人間はジェイド・カーティスでなくなるのだから仕方ない。

 だが、サフィールは伝えなければ誤解する人間だ。
 それこそおかしな勘違いをして私の目の前から消えかねない。


 ――こいつは本当に仕方のない男だ。
 私はサフィールの唇に無言の言葉を投げかけ、同じ返答が返ってくるのを待った。



 
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