貴方と私の約束(JD)
「サフィール」
懐かしい響きを含んだ優しい声に顔を上げる。
先程の丘に、私とネビリム先生だけがいた。
ジェイドはいない。ネフリーもピオニーもいない。
戸惑っていると、先生が私に微笑みかけてくれた。
「ネビリム先生……私はもう、駄目です」
柔らかく微笑んだままの先生を見ていると自然と言葉が零れ落ちた。
心の中にあった重い何かが剥がれ落ちていくような感じがする。
「どうして?」
「……ジェイドを怒らせてしまいました」
先生の優しい声に導かれるまま、私は言葉を紡いでいく。
他の何よりも悲しくて辛いはずなのに、不思議と声は震えなかった。
「全て私のせいです。……謝っても許してもらえなかった」
現実での状況を先生に言葉にする。
私が悪いことをしたから、ジェイドは許してくれなかった。
先生は黙って聞いていたが、私が話し終わると口を開いた。
「サフィール、ジェイドにもう一度謝りましょう」
先生は穏やかな表情でそう提案した。
あの頃ジェイドと揉める度に何度も向けてもらった先生の微笑み。
私は初めて泣きそうになった。
「今までにジェイドがサフィールのことを許さない時があったかしら?」
「……いえ。でも、それは先生がいたからで……!」
私は多少揺らぎながらも先生の言葉を否定する。
確かにジェイドは今まで私のことを許してくれた。
ただ、それは何度も謝る私が鬱陶しかったから。
そして、謝罪を突っぱねる自らの姿を先生に見られるのが嫌だったからだ。
ジェイドは殆どの相手に対して無関心だったが、先生と話す時は違っていた。私がジェイドに嫌われたくないように、ジェイドも先生に嫌われたくなかった。それだけだ。
けれど、先生は私の前に人差し指を立てて黙るように指示した。
「ジェイドがサフィールのことを許さなかったこと……今まで一度もなかったでしょう? 私がいなくなってからも」
先生が静かに言葉を繋げていく。
今の研究のこと以外は何も話していないのに、先生は何でも知っているようだった。
「ネビリム先生……」
「だから勇気を出して謝りなさい。大丈夫よ、サフィール」
私の頭に先生の手が翳される。
夢の中の先生は直接触れてくれない。
けれど、それはまるで――怪我を治療してくれた時のように温かかった。
大好きだった感覚に思わず涙が零れる。
「はい、先生……」
私は涙を拭い、決然とした表情で先生を見た。
微笑を浮かべた先生が少しだけ歪んで霞んでいく。
きっと夢が終わってしまうのだろう。
このまま目覚めてしまえば今度はいつ逢えるか分からない。
それでも私は目覚めたいと思った。
昔と同じように、先生が私を助けてくれた。それを無駄にしたくない。
「大丈夫よ、サフィール」
先程と同じことを繰り返した先生は私に手を振った。
白衣をふわりと翻した先生が背を向ける。
徐々に消えていく先生の周りを穏やかな風が吹き抜けていった。
身体が重い。
柔らかくて心地良いものに身体が沈み込んでいる。
それがベッドとシーツだと気づくのに長い時間はかからなかった。
誰かがベッドに運んでくれたらしい。
私を包み込むベッドは本当に気持ちが良かった。
寝返りを打ったついでに瞬きすると、上の方で何か輝くものが見えた。
「……ジェイド?」
ぼやけた視界でも、見慣れた金色がはっきりと見えた。
ジェイドが私を見下ろしている。
謝らなければいけないジェイドが近くにいる。
「ジェイド、ごめんなさい……」
目の前のジェイドを認識した私は真っ先に謝った。
それから起き上がって眼鏡をかける。
眼鏡をかけると、相変わらず無表情のジェイドがよく見えた。
「……貴方に何かあればこの計画は長い間凍結してしまう」
ジェイドは私の謝罪には触れないで話し始めた。
怒っているような感じはしない。寧ろ、私を諭しているような話し方だった。
「どうして自分を大切にできないのですか?」
ジェイドはそう言って初めて苛立ちを見せた。
私はようやくジェイドが怒っていた本当の理由に気づいた。
ジェイドが怒っていたのは私が迷惑をかけたからだけではない。
私が自分を気遣えていなかったからなのだと。
「ジェイド……無理してすみませんでした」
私はジェイドに謝り損ねた内容を詫びた。
きっと、ジェイドが謝ってほしかったのはこれだったのだろう。
「でも……ジェイドに任された研究、ですから」
私は向ける眼差しに想いを籠めてジェイドを見つめた。
遠い昔、ケテルブルクでジェイドと交わした初めての約束。
ジェイドにとっては私を拘束する単なる言葉だったのかもしれない。
それでも私は嬉しかった。
どんなに辛い時でも、ジェイドとの約束が私の支えになってくれた。自分の名前を捨てることになっても迷うことはなかった。
滅多に逢うことができなくてもジェイドを明確に思いだすことができた。
けれど――私たちは約束を果たすことができなかった。
だからこそ、私はこの約束をどうしても果たしたかった。
罪を犯した私を許し、助けてくれたジェイドの役に立ちたかった。
「ジェイドが私を信じてくれた。ジェイドが私に大切な研究を任せてくれた。だから、私は……少しでも早く完成させて、反対した人たちに証明したかったんです」
ベッドの端に腰かけてジェイドと向き合う。
ジェイドは表情を歪めて私を見下ろした。
「ジェイドの判断は間違っていなかった。ジェイドは――」
「全く。……貴方は本当に馬鹿ですねぇ」
ありったけの想いを詰めた私の言葉はジェイドの声に遮られた。
言葉通り、馬鹿にしたようなジェイドの声が降ってくる。
ジェイドは私の隣に腰かけてため息を吐いた。
「そんなことをして私が喜ぶと思ったんですか?」
呆れたジェイドの声に頷く。
結果的には迷惑をかけることになってしまったが、きっと喜んでくれると思った。
ジェイドは私を監視下に置いている。つまり、ジェイドは私の上司だ。私の功績は同時にジェイドの功績にもなる。
そうすればジェイドは非難されずに済む。私のせいで陰口を叩かれずに済む。そう思っていた。
――私の命を助けたことで、ジェイドが余計な反発を受けていたことは知っていた。
流石に堂々と嫌味を言う者はいなかったが、噂は密かに囁かれている。
国王と親しい関係であることを利用して幼馴染の罪人を助けた、と。
牢獄にいた私にはどこまでが事実なのかは分からない。だから否定はできない。
その代わり、私は精一杯頑張った。
自分のせいでジェイドが悪く言われないように。
たとえ本人が気にしていなくても、悪い噂を打ち消すことができるように。
「私が貴方に選ばせたのは貴方を信じていたからです。貴方ならきっと参加したいと言うはず。そう思っていました」
ジェイドは私の髪に触れながら話を続けた。
記憶がないので実際はどうか分からないが、久しぶりに触れられた気がする。
「自分のためなら最初から押しつけていますよ。成功するのは目に見えていますから」
ジェイドは珍しい言葉を口にした。
私が真面目に取り組もうとすることだけでなく、成功することまで信じてくれていたなんて。
もちろん嬉しいことではあるが、意外すぎてどうすればいいか分からない。素直に喜べばいいはずなのに上手く喜べなかった。
「ただ、私は貴方の性格を考慮していなかった」
眼鏡の位置を直すジェイドが言葉を続けた。
透明なガラス越しの赤い瞳がまっすぐに私を見つめている。
「倒れた貴方が寝言で先生の名を呼ぶのを聞いて、まだフォミクリーに未練があるのだと思いました。そして、それを忘れる為に研究に没頭しているのではないかと推測した」
夢を見ていた私は気づかなかったが、知らず知らずのうちに先生を呼んでいたらしい。
それを見たジェイドは私がまだフォミクリーに執着していると思ったのだろう。
ただ、ジェイドが誤解するのも無理はない。
今の暮らしを始めるまで、私は先生の復活に命を懸けていた。
自分の立てた計画が成功することだけを信じ、そしてジェイドに捨てられた。
全てを失った私は牢獄の中で死罪の執行を待つだけの日々を過ごしていた。
けれど、それを変えてくれたのがジェイドだった。
最初は受け入れられなかったが、今では傍に置いてくれたことを感謝している。
だからこそジェイドの為に何かしたかった。
私は何も言わずにジェイドを見つめ返した。
「変わるためではなく、罪から逃れるために研究している――そう愚考して、少し苛立ちました」
自分のことしか考えず、周囲の心配に気づかず、忘れたい過去から逃げている。
そんな今の行動を考え直してほしくて冷たく接した。ジェイドはそう話した。あの態度はジェイドなりの忠告だったらしい。
「私は……真面目に罪を償おうとする貴方に音機関を完成させてほしかった。人はいい方向にも変わることができると示したかった。それだけだったんですよ」
ジェイドの手が私の髪の毛から離れていく。
私たちは互いにすれ違っていた。
ジェイドも、私も、自分の想いを言葉に出さなかったからだ。
直接言えば確かな気持ちを伝えることができたのに、それをしなかった。だからこそ複雑になってしまった。
「……すみません。私の判断ミスで無理をさせてしまいました」
ジェイドが私の頭を撫でる。
先生とは違う温かさを感じた私は途端に泣きそうになった。
「ジェイドは悪くありません! 私……私が、ジェイドの忠告も聞かずに無理をしたから……!」
案の定、目からは雫が零れた。
涙を拭おうとして眼鏡を取る。だが、手に力が入らなくて床に落としてしまった。
「もういいんですよ」
優しい声色のジェイドに抱き寄せられる。
抱き寄せられた腕の中はとても心地良かった。
「貴方は責任者ですし、まだまだ先は長い。……これからは決して無理をしないと約束しますね?」
私は泣きながら何度も頷いた。
この温かい約束を破るつもりはない。
ジェイドが私を想って交わしてくれた約束なのだから、なおさらだ。
「約束ですよ、サフィール」
「はい、ジェイド……」
声を震わせながら返答すると額にキスが落とされた。
ふっと身体が浮上し、ジェイドの膝の上に乗せられる。
この部屋で倒れた時、遠くで感じた浮遊感が何なのか――分かった気がした。
後ろから抱きすくめられた私はジェイドの手に自らの手を重ねた。
「分かったのなら少し休みなさい」
耳元で囁かれる言葉に促されるまま私は目を閉じた。
後ろから伝わる体温。私の身体をしっかり支える腕。
ジェイドの優しさを感じ取った私は全てを委ねて安らぐことができた。
「……ジェイ、ド……」
睡魔に誘われるまま、心地良い闇にゆっくりと沈み込む。
だが、受け止めてくれるジェイドのおかげで深淵まで墜ちていくことはなかった。
――私は夢を見た。
けれど、見たのは先生の夢ではない。
先生の夢は現実の音機関が完璧に完成する時まで見られない。
今の私が見たのは、完成された巨大な音機関をジェイドが眺めている夢。
そして、私の方を向いたジェイドが心から微笑む夢だった。
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